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プロローグ:星が凍る音

【本日の用語】

氷路ひょうろ:凍結した河面を補給路として使う冬季ルート。厚み・流速・風位相で安全度が変化。

北河回廊ほくがかいろう:両軍が負傷者輸送と限定補給のため運用する中立帯。第一部末の白革合意で暫定設置。

第三の約定だいさんのやくじょう:アムサラ・帝国・ルーシ国の三者が交わす回廊運用条項。価格下限・通行二枠・上空観測共有が柱。

風返り(かぜがえり):防空結界(風紋術)に外力が当たって生じる位相の反発域。侵入・迎撃ともに死角と隘路を生む。

氷鳴り(こおりなり):氷路の負荷限界が近い時に響く低い共鳴音。現場では危険信号。

鋼のはがねのつばさ:ヴァローリア連邦が帝国へ貸与を提案した新型航空兵器群。滑空機群と魔導推進母機を含む。

氷は夜明けを嫌っていた。暗さがほどけ、東の空が灰青に明るむほど、その奥底で低い太鼓のような氷鳴りが腹へ返ってくる。

カリームは長靴の底で氷面を軽く叩き、耳ではなく脛で音の距離を測った。右足からは乾いた芯、左足からは湿った芯。氷厚のばらつきは一尺半以内——許容域だ。


「厚み、三尺二。荷橇は一列、間隔十歩。歌で刻め。——工兵長、砂を」


「へい」

夜をまばらに残した河面へ、黒砂が薄く撒かれていく。白の上に黒が載ると、氷は“道”の顔になる。砂の帯を辿って、木製の標杭が等間隔に刺さる。標は青い布旗で、朝靄の淡い光に、かすかな影を落とした。


「参謀殿」

工兵長が息を白くしながら笑った。「鳴ってる間はまだ生きてる。黙ったら落ちる、でしたっけ」


「鳴るのは氷の礼儀だ。黙るのは不意打ちだ」

カリームは《星尺》を開き、東天の二等星と北の薄い星を無理やり結ぶ。星はまだ針で刺したように明るくはない。だが角度は出る。測角は〇・四三。昨夜から〇・〇一のズレ。

「風返り、弱い右回り。上空、射界を一段絞れ。渦に弾を吸われる」


「はっ! 対空一、偏角七、仰角四、霊線安定!」

砲班長の声が氷上に張り、荷車の車輪が短く止む。彼は続けた。「参謀、三斉射が限度だ。銅の冷却路が鳴いたら半刻、沈黙ですぜ」


「分かってる。三射で片をつける。四射目は喉鳴りだ。——泣かせるな」


氷路の始点には白旗が翻り、その裏に小さな小屋が据えられている。《北河回廊》の監視小屋。三国の印が同じ板に並び、雪の縁にかすかに泥が載っている。昨夜からの往来の跡だ。


「参謀、ルーシ国の使者が」

副官の声で振り向くと、毛皮を肩にまとったイルイナが靴裏の氷を軽く叩いてから天幕に入ってきた。灰色の瞳の縁が、冷気で赤い。


「おはようございます。——氷は静かに怒っていますね」


「怒るくらいが、ちょうどいい」

カリームが笑うと、イルイナも微笑んで巻紙を差し出した。


「第三の約定。正式条文の決定稿です。価格の下限を回廊運用と連動、通行権は物資と人道で二枠に分離、上空観測の共有は“都合の良い目”を許さない。——冬の道に刃を持ち込まないための鞘の規則」


「良い文だ。冬の規則は鈍くて堅いのがいい」

カリームが巻紙を机に置くと、イルイナは小声で付け加えた。


「帝国側からも同意の返書。“必要はある、異議もある。必要の名で押す”とありました。署名は代筆印——ザエル」


カリームは眉をひとつだけ動かした。「また会うことになる」


日の出は氷路を少しだけ素直にした。北河回廊の白旗の下、犬橇が白い煙を曳き、ルーシの橇隊が到着する。先頭の犬の首に古い羅針金具が揺れ、橇板の腹に刻まれた刻印が朝の光で濡れた。


「アムサラ殿、今季最初の松脂油三百樽。約定どおりの規格、約定どおりの値で」


「こちらは干し棗と塩、薬草。回廊の規則どおり、槍は下げたまま、目は上げて」


「槍は下げ、目は上げる。良い言葉だ」

イルイナが笑う。工兵は歌で歩調を刻み、荷役は歌に呼吸を合わせる。

——氷は歌が好きだ。

カリームはそう思う。恐怖にテンポを与えるからだ。


その時、見張り台から笛が二度、低く鳴る。帝国側からも同じ音が返った。回廊に課された“猶予”の合図。今日の空は薄く曇り、風返りは弱い。飛びやすく、落ちやすい空——どちらの都合にも良い。


「参謀!」

走り込んだ伝令が息を荒らげる。「帝国の望楼、建て替え申請。高さ三丈、望遠筒二基!」


「三丈は見せ札。本命は“低いもの”だ」

カリームは《星尺》を閉じ、小屋の壁に掛かる地図へ歩く。「望楼の影が氷へ落ちる時刻を全て記録。敵は影で測る。影の縁で人は目を細める。——そこで“間”が空く」


昼前、天幕の奥で乾いた紙の音。ファハド王が入ってきた。砂漠の王は冬の毛皮を嫌い、肩に薄い外套をかけているだけだ。頬に霜は付いていない。目の熱が強すぎて、霜が寄りつけないのだ。


「息子よ。冬の道は整っているか」


「はい、陛下。氷は鳴り、歌は続いています」


王は頷き、机の上の巻紙に目を落とした。「それが第三の約定か。“飢えに利ざやを乗せない”条。良い」


「王に一つ伺います」

カリームは姿勢を正した。「帝国が連邦の鋼の翼を受け入れる気配があります。氷が消え、春の風が立つとき——空はまた、刃になります」


「刃には鞘がいる。鞘はお前だ、カリーム」

王は短く笑って続ける。「私は祝う役と弔う役をやる。お前は“折れない”を作れ」


そのやり取りを聞いていた古参の将が、咳払いとともに口を挟む。「参謀殿、対空魔導砲は三斉射が限度……それは分かっておりますがな、連発を禁じすぎると、兵の腰が引ける」


「禁じるのではない。欲張ると銅が割れる。——腰ではなく銅を守る」


兵たちが笑い、将も笑った。笑いは薄いが、芯がある。


午後、氷の上に奇妙な静けさが落ちた。風はほとんどない。空は白く曇り、太陽の位置だけが薄く透ける。風返りの渦が弱り、結界は“壁”から“窓”へと性格を変えていく。


「来る」

カリームは言葉を惜しまず言った。「光ではなく、影の形で」


最初の黒い筋は星の走り方を真似た。細く、速く、静かに。結界器の針が敏感に揺れ、霊線がビリと震える。

「入った、二十。——いや、見せ玉だ。二十を二十に見せる飛び方」


「対空一、射界固定、三射で止める。四射目は禁止」

砲班長の手が冷静に動く。

「一射!」

青白い束が空の膜を叩き、影が一つ、氷へ落ちる。黒点と白い蒸気が同時に生まれ、瞬時に薄く広がって消えた。

「二射」

別の影が裂け、落ちる。

「三射……待て」

カリームが手を挙げた。「渦の背骨を探せ。空の“静けさ”が一瞬だけ重くなる」


兵たちの呼吸が揃う。その一拍を掴んで、三射が放たれた。影の“背”を折る音はしない。ただ、第三の黒点が開いた。

その時、別の影が低く潜ってきて、氷倉の屋根の角をかすめた。火が芽吹く。


「消火! 氷砂を回せ!」「氷井戸、蓋を外せ!」

炎はすぐに鎮まったが、屋根の角は裂けた。

砲班長が顔をしかめる。「やられましたね」


「見せたんだ。角の弱さを。——今夜中に角を丸くする。図面を持て」


「参謀自ら図面を?」と副官。

「図面は寒さを知らない。手がどれだけ痺れるか、図には描けない」


カリームは梯子を上がり、自ら鑿を取って屋根の角を削った。兵が目を丸くしつつ、手を動かす。作業は早い。冬の手は黙って働く。


夜、見張り台に小さな音が生まれた。

「……鈴?」歩哨が眉をひそめる。

帝国望楼の軒先に、細い金属片が吊られていた。風が通るたび、不規則な音が重なる。

結界器の針が“わざとらしく”揺れる。観測係が顔をしかめる。「“風返りの異常”として記録されます。条に従えば、回廊は停止……」


イルイナが即座に遮った。「第二条。人道枠は止めない。物資枠は再観測の結果次第」


カリームは静かに頷く。「結界器を叩け。値を二度測る。違えば三度目で“違い”の理由を探す」

針は平常域へ戻った。鈴の音だけが不規則に鳴る。


「通せ」

荷橇は再び氷を渡った。望楼の鈴は鳴り続け、書記官は淡々と“鈴の鳴動”と“結界の平常”を併記する。紙は刃にも盾にもなる。今は盾に使っただけだ。


遠く黒松の砦で、ザエルは短い報を読んで茶碗を置いた。

「紙で止まらず、紙で通したか。——礼儀正しい」


副官が地図を差し出す。「将。連邦の鋼の翼、魔導母機一機、滑空機二十機、観測球十。配置完了」

「第一段、“灰猫”。第二段、“喉鳴り”。第三段、“白革”。順番は変えない。相手の呼吸を測る」

ザエルは窓の外の粉雪を眺め、独り言のように続けた。「若い背中に無駄な英雄譚は背負わせない。凍った土と紙で勝てるところは勝つ」


三夜目は霧だった。空に星がなく、氷に光がない夜。

「来ない夜もある」と若い兵が零す。

「“来ない”を信じるな」カリームは短く返す。


低い唸りが霧を震わせた。鋼の翼の母機だ。腹から滑空機が咲くように離れ、霧を切るたびに細い筋が生まれる。

「二十……いや、四十?」

「違う。二十が“二十に見えるように”飛んでる」

「対空一、三射で足りる。見せ玉に弾をやるな。渦の背骨を折れ!」


一射、二射。霧が白く弾け、影が千切れる。三射のタイミングで結界が微かに軋み、風返りが裏返った。

「今だ」

三射が背を打ち、四つの黒点が落ちた。氷面の蒸気が唇を刺す。

「喉鳴りが来るぞ!」砲班長の声。遠い低音が腹の底を撫でてくる。銅が鳴きたがる。


「吸え。吐け。油を回せ。——鳴くな」

対空班は息を合わせ、霊線を緩め締め、冷却路へ油を送り込む。銅は泣かなかった。

「勝ち、です」副官が小さく息を吐く。

「今日はな」カリームは霧の奥を見た。「黙り方を学ばれたら、明日の沈黙はもっと深い」


翌昼、北河回廊の小屋に同文の書面が三通届いた。


回廊補給列、昼の渡河を禁ず。

署:回廊運営三者、連署


イルイナは一瞥して首を振る。「印影は精巧ですが、紙が違う。——偽文です」


見張り台の帝国士官も同じ書面を掲げて肩をすくめた。「こちらにも来た。誰かが第三者になりたがっている」


「第三の約定の“共有”を逆手に取る気か」

カリームは即断する。「予定どおり午前に渡る。三者立ち会い、白旗は二重に。書面は現場で相殺する」


荷橇が動き、雪靴が鳴る。望楼の鈴は今日も軽く鳴る。

帝国士官が小さく言った。「将から伝言。“近さは軽さではない。ただ輪郭を正確にする”」

カリームは頷いた。「輪郭はここにある。——どちらの刃も、鞘から半分しか抜かない」


彼らは黙礼した。回廊は動いた。紙の刃はその場で折られた。


夜、焚き火の輪の内側で、カリームは若い兵たちに《星尺》を配った。

「二度測れ。違ったら、三度目で“違い”の理由を探せ。三角は裏切らない。裏切るのは、測る人間だ」


「星がない夜は?」と誰かが問う。

「風を見る。旗の揺れ方、息の白さ、氷の鳴り方。星の代わりは、いつも地面にある」


ファハド王が輪へ加わり、短く言う。「息子たちよ、歌え。死者が休めるように」

低い合唱が氷上を渡り、夜がさらに透明になる。

カリームは焚き火の火で手を温め、星尺を閉じた。(冬は道。だが“道”は常に誰のものでもない)


三日後。北の丘の雪が薄くなった。黒土がところどころ顔を出し、空気がわずかに湿る。

「氷厚、二尺八。午後は一列。角材の搬送は朝に限る」

伝令が相次いで走る。イルイナが駆け寄った。「北の風が緩みました。春の足音です」

「春は刃だ。——鞘を固める」


そこへ帝国の使いが来た。回廊の橋の中程で、カリームとザエルは再び向き合う。

「冬は道になった」ザエルの声は低い。

「道は互いの読み違いを小さくした」カリームも低い。

「ならば春は」

「刃になる」

ふたりは同時に頷いた。


「次はどこで、何を賭ける」

「水門。——北河の分岐、“継ぎ目”」

「同意だ。継ぎ目は鼻で嗅げる者が取る」

「私も、将も」

「互いに嫌うタイプだ」

笑みが浅く、そして深く浮かぶ。氷が鳴った。最後の氷鳴りだ。


「一つ、頼みがある」ザエルが言う。「回廊の鈴は外す。あれは詩にはなるが、約定にはならない」


「礼を言う」カリームはうなずいた。「こちらも角を丸めた。詩にはならないが、刃先は滑る」


ふたりは別れ、背を向けた。背中はどちらも真っ直ぐで、どちらも疲れていた。


夜。角笛が三度鳴り、冬営の終わりを告げる合図が広がる。

副官が帳簿を抱えて来る。「参謀。氷倉の材、橋梁へ転用可能。結界は“窓”から“壁”へ戻し、風返りを刃の鞘に」


「よし。回廊は人道枠のみ残し、物資枠は“夜の舟”へ切替だ」

カリームは短く息を吐き、星尺をそっとしまった。星は凍るのをやめ、滲みはじめている。


イルイナが巻紙を差し出す。「第三の約定、春期追補。価格の天井も定めます。刃が高く売られないように」

「受け取った」

カリームは巻紙を胸に当て、天幕の入口で一度だけ空を見た。

——冬は道。春は刃。

道を描いた手で、刃の鞘を描く。描き損ねた線は、血になる。


「続きだ。次の計算を始めよう」

彼はそう言い、机へ戻った。氷の地図の上に、春の線を一本、静かに引いた。

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