風は誰の歌か
本日の用語
《交わし鍵》:正面突破せず、敵結界の縁を“撫でて”流れを曲げる帝国の新戦術。
《静相帯》:位相が打ち消し合い、風が凪ぐ細い回廊。飛行・偵察の通り道になる。
《返歌》:敵の詠唱の“節”を一拍だけ借り、逆相にして押し返す対抗詠唱。
《星尺校正》:暁に星が薄れる際、地平と朝星で座標を補正する操作。
《鋼翼》:ヴァローリア連邦製の金属翼魔導機。高空偵察・電子攪乱を担う。
夜の終わりは、耳の奥から来た。
《喉鈴》が風の色を測るように、微かに、まだ見えない暁を鳴らす。
「——消えていく」
若い詠唱士ユースフが、空を見ずに言った。
星は薄い。彼の指の間で《星尺》の棒が、短く、慎重に角度を刻む。
「星尺校正、完了。地平補正、プラス二分。——外層、現状維持で」
「よし」カリームが頷く。「鈴は一列、少し寝かせろ。縁を撫でに来る」
班長が鼻で笑った。「正面から来りゃ楽なのにな」
「ザエルは、楽をしない男だ」
帝国前進陣。
予備役将ザエルは、砂に小さな四角を指で描いた。四角の角だけを、そっと指で撫でる。
「《交わし鍵》だ。角を柔らかくして、面を歪ませる」
詠唱長たちがうなずく。
「第一群、低声で縁を取れ。第二群、四拍遅れで“掬う”。第三群は静観、機会だけ盗め」
副官が小声で問う。「高空の方、間に合うかと」
ザエルは短く答えた。「間に合わない。だから“通り道”だけ作る」
橋頭堡・指揮壕。
《喉鈴》が二度、細く揺れた。北東の列、砂の縁。
「鳴いた」班長が身を乗り出す。
ユースフは合唱隊へ手を上げる。「外層、三度目の拍で薄く——“撫で返し”。内層は抱え込むな、指先で触るだけ」
低い歌が、砂の下で猫の背のようにしなる。
帝国の歌は、縁に沿って滑っていく。正面の“袋”は無視された。
「かわしてきた……」誰かが息を呑む。
「予定どおりだ」カリームの声は低い。「縁に《静相帯》ができる。——焦るな、触り続けろ」
《喉鈴》の鳴きが変わる。咳から囁きへ。
そこに、風のない細い回廊が一本、夜の皮膚に現れた。
高空。
金属の羽が、まだ名のない朝に線を引く。
《鋼翼》は歌わない。代わりに、沈黙を運んでくる。
「高い……」見張りが首をすくめる。「届きません」
カリームはユースフを見ずに言う。「撃つな。今は“風だけ”もらう」
班長が眉をひそめる。「見られるんで?」
「見られるのは、見せられることだ」
ユースフが頷く。「なら、《返歌》で“匂い”をつける」
「行けるか」
「喉は持ちます。数字も」
ユースフは胸の前で指を組むと、敵の歌から一拍だけ節を抜き取り、逆相に折って返した。
《返歌》。
《鋼翼》が通る回廊の縁に、薄い香が立つ。目に見えないのに、鈴がそれを覚えた。
「匂い、乗りました」彼は息を吐く。「回廊の形、追えます」
帝国・第二群。
ザエルは砂の四角にもう一つ線を足した。縁を撫でる指が止まる。
「返されたか。——“歌を盗む子”だな」
副官が唇を噛む。「第三群、入れますか」
「待て。静相を広げると、向こうの《防空》が重くなる」
ザエルは空を見た。
高みに、鈍い輪郭。連邦の《鋼翼》。
(貸し借りは嫌いだが——)
彼は短く命じた。
「第三群、交わし鍵の“手”を換えろ。合唱を間引け。節を二つ、間に落とす」
「間引きで?」詠唱長が驚く。
「向こうは節を借りて返す。なら、節そのものを空ける」
《喉鈴》が鳴かない。
回廊の線が、砂の上から消えたわけではない。
ただ、鈴が“掴む”べき高さの一部が、ふいに抜かれた。
「……鳴きが途切れる」ユースフの声が硬い。
班長が舌打ちする。「鈴に頼りすぎたか」
「頼っていない。ただ——鈴は正直だ」
カリームは即座に言った。「鈴を信じて、鈴を外せ。一本、胸で聞け」
ユースフは躊躇わず一列から一本抜き取り、胸に当てた。
「心拍で合わせる。星は薄い、でも消えてない」
彼は《星尺校正》の数表を、喉の奥で歌に変えた。
「外層、拍を滑らせて。内層、半音落として《返歌》。——間が空いてる。そこに、こちらの節を置く」
合唱が転がるように位相をずらす。
抜かれた“間”へ、こちらの小節がそっと置かれる。
音が、か細い梁になって結界の端を繋いだ。
「繋がった!」班長が叫ぶ。「喉打ち、浅く一!」
短い衝撃が一度だけ走り、《静相帯》の縁に皺が寄る。
《鋼翼》は通る。だが、匂いは濃くなった。
帝国前進陣。
ザエルは空を見、肩で息をし、笑った。
「譲り合いだな。……嫌いじゃない」
副官が悔しげに唇を歪める。「突破は——」
「いい。今日は通した。向こうは撃たなかった。こちらも、まだ噛みつかない」
彼は砂の四角を手の平で消した。
「次は歌を替える。鍵ではなく、風を借りる」
橋頭堡・指揮壕。
《鋼翼》は、遠ざかる。
朝の青が、結界の縁に薄く折り返し、風がいつもの硬さを取り戻す。
ユースフは水を飲み、声を確かめるように短く音階を踏んだ。
「……まだ、出ます」
「出すな」カリームが微笑む。「出さずに“置け”。——今日はそれで、勝ちだ」
班長が肩を回す。「で、あいつ(鋼の翼)は?」
「匂いはつけた。連邦の港でも、風が覚えている」
「戦を広げる気ですか」
カリームは答えなかった。
代わりに、壕の外の風を一度だけ吸い込んだ。
(風は、誰の歌か)
王の歩みが背後から近づく。
ファハド王は短く言った。
「名を、記録に残せ。——そして、歌を忘れるな」
「御意」
ユースフがうなずく。「歌、忘れません」
「私もだ」カリームは言った。「風は誰のものでもない。歌える者の歌だ。……今は、まだ」
壕の縁で《喉鈴》が、最後の夜を惜しむように小さく鳴った。




