合鍵の書法
【本日の用語】
《鍵歌》: 結界を運用する“歌”。拍と韻で位相をそろえる。
《合鍵符》: 敵の鍵歌に擬態して縫い目へ差し込み、一時的な通路を開く小型符。
《風写紙》: 微小乱流の稜線をそのまま写す薄紙。折り目が“風の文章”になる。
《乱数唱句》: 鍵歌の末尾へ差し込む即興句。C2不通でも合図に使える“ゆらぎ”。
《返筆》: 進行中の鍵歌を書き換えて調子を反転させる技。成功すれば継ぎ目を奪えるが、失敗は暴風化の危険。
――帝国・前線後方《黒営》
砂盤の上で三枚の風写紙が重なり、折り目のずれがひとつの“文章”を組む。上は凧糸の高さ、中は胸、下は膝。三層で結界の癖が読める。
「二行目の尻、無拍。王国は末尾に乱数唱句を差してる」ザエルが紙端を押さえる。
「読み切れますか」アディルの喉が鳴った。
「読むだけならな。勝つには書かねばならん」
伏蛇工が合鍵符の束を差し出す。「三短句、一本ずつ縫い目へ」
「三つで足りる。囮は雑味を招く」ザエルは短く言い切った。
外で朝風が音程を変える。砂の皮膚が、めくられる手紙のように持ち上がった。半刻で結界は厚くなる――それまでが勝負だ。
――王国・《橋頭堡》北縁
鈴は鳴りそうで鳴らない。測手が星尺を傾け、拍を数える。
「東北、位相〇・〇六。薄さは維持。末尾の返しに手癖が出ます」
「手癖は鍵になる」カリームは頷き、鍵歌の末尾に乱数唱句を挿す。「『風は人を選ばず』――句末は星時で転がせ」
副官ハーリドが肩をすくめる。「また詩だ。銅管が割れない詩にしてくれ」
「割らない。割るのは敵の合鍵だ」
“束起動”上がりのユースフが鈴の位置を半歩ずらす。指が震えた。
「参謀、末尾三拍、崩してよいですか」
「やれ。怖いままで押せ。怖い手は嘘をつかない」
――帝国・前線空域
飛竜三。二は縁回り、一は高みで読む。耳符が熱を帯び、ザエルの声が落ちる。
『三拍、二拍、無――いけ』
騎手は喉で短く詠んだ。「砂は眠り、風は覚める」。合鍵符が縫い目へ吸い込まれ、空がよろめく。
「通路、開く! 二十呼吸!」
「通れ。盗め。落ちるな」ザエル。
飛竜一が縫い目を滑り抜け、翼端を擦りながらも戻りの角度を確保した。目的は撃破ではない。鍵歌の韻を盗むことだ。
――王国・対空陣地
「空の喉が一枚、開いた!」
「鍵狩りだ」カリームは即答し、鈴の調子を一拍反転。「『砂は数を嫌い、風は嘘を嫌う』――今」
鈴は鳴らずに止まる。縫い目の階段が崩れ、通路が細る。
「通過個体、離脱! 損害軽微!」
「落とさなくていい。盗ませないのが勝ちだ」
ユースフが息を吐く。「詩で殴り合う戦、変ですね」
「戦はいつも言葉から始まる。まず自分をだまし、次に敵、最後に風だ」
「風、だませますか」
「覚えさせるんだ」
――帝国・黒営(回収)
アディルは鞍袋から風写紙を取り出す。白い傷が二行、鮮明だが途中で切れている。
「通路の文章、二行分。後半は壊れてます」
「壊してきたか」ザエルは口角だけ動かした。「二行あれば、三行目は推せる。歌は合唱で変質する。こちらの声で上書きする」
「返筆を?」
「半返しだ。全返しは暴風で双方が死ぬ」
伏蛇工が続ける。「地鎖、連鎖完了。乾符の無拍挟み二筋。王国の堰で跳ね返り――戻ります」
「戻りは砂脈・逆相で吸え。空はもう一度だけ開く。鍵穴を“線”として延ばす。延びた先は、こちらの庭だ」
――王国・司令天幕
名簿の読み上げが終わり、ファハド王は外套の砂を払いながら問う。
「空は開き、閉じた。次の牙は」
「敵は読むから書くへ移る。合鍵を束ねて来る」
「防ぐ術は」
「鍵穴を移す。縫い目列を半身ずらし、鍵歌を二層にする。表は昨日、裏は星時で転がす乱数唱句。片側の鍵しか噛まない」
ハーリドが渋い顔。「噛まない鍵は折れる」
「折れた破片は韻が付いている。逆に敵の鍵歌を読む」
ユースフが手を上げる。「折らせる役、俺が」
「怖いか」
「怖いです」
「なら、適任だ」
――帝国・前線空域(二度目)
飛竜は来ない。三張の砂凧が上がる。紙が歌う。
『砂は眠り、風は覚める/翼は肩をたたみ――』
「歌う鍵だな」カリームは即座に判断。「落とすな、聞け。外郭を聴き、内側で返す」
裏層の鍵歌へ返筆。「風は眠り、砂は覚める」――調子が反転し、延ばされた“線”が巻き戻る。
「合鍵、噛まない!」
紙鳴りが裂け、砂凧の一つが落ちた。残り二つは素直に退く。
ハーリドが息をつく。「殺さず、外す……いやらしい」
「詩で勝つのはだいたいいやらしい」カリームは乾いた笑みを見せた。
――帝国・黒営(次の手)
ザエルは破れた風写紙を撫で、「上等」とだけ言う。
「一本で噛まぬなら、束で撓ませる。鍵は数で殴るものじゃない――だが行間は数で埋められる」
「『鋼の翼』を?」アディル。
「まだ早い。鋼は句読点でいい。先に書法を勝つ」
ザエルは砂盤に十本の線を引き、一本ずつ拍をずらした。「十に割る刃……いや、十に割る鍵だ」
――王国・北縁(応手)
ユースフが縫い目の鍵穴を一本、前で止める。指が二度滑り、三度目で座った。
「……できました!」
「よくやった」ハーリドが笑い、汗を拭ってやる。
「参謀、敵が鍵束で来るなら」
「こちらは鍵穴を増やす。偽穴も刻む。――喉鳴りの夜で学んだろう、音は嘘を吐ける」
カリームは砂脈の縁を見据えた。(来い、ザエル。合鍵を持って。鍵穴のない門で待つ)
白昼の風は二つの詩を抱え、どちらに膝を折るべきか迷いながら、行間を増やしていった。




