縫い目の鍵
【本日の用語】
《縫目鍵》: 防空結界の縫い目(位相の継ぎ目)へ打ち込む鍵符釘。荷重線を微調整し、返し風の向きを固定する小型治具。
《返し風》: 縫目鍵で生じる逆位相の微小気流稜線。飛行体の翼に段差のような“つまずき”を作る。
《砂脈図・逆相》: 砂脈図を反転合成し、敵の乾燥/こちらの注水が相殺・共鳴する“裏道”を先読みする解析法。
《乾符連鎖》: 乾符を等間隔に接続して地下水を鎖式に抜く手口。間に無拍を挟むと位相の手綱が切れにくい。
《鎖鳴り(くさりなり)》: 対空魔導砲の霊線飽和警告。高い金属音が出たら冷却に落とす限界サイン。
――黎明前、《橋頭堡》北縁
砂の冷たさには音がある。靴底がわずかに擦れただけで、夜の湿り気がきしむように返ってくる。その縁で、結界隊の若者が膝をつき、指先の白い**《縫目鍵》**を結び目へ添えた。
「角三十三、深さは指半分返し。打ち過ぎるな」
カリームの声は低いがはっきりしている。測手が星尺の影を読み、頷いた。
「荷重線、北へ二分、東へ一分――」
「よし。返し風が立つ。『鳴る前の喉鈴』で合わせろ」
副官ハーリドが小声で笑う。
「砂まで騙すか、参謀どの」
「騙すんじゃない。覚えさせるんだ」
槌の一打。縫目鍵が座り、砂の表皮が羽毛のように逆立つ。次の瞬間、遠くで対空陣地の霊線が高く鎖鳴りした。
「三斉射完了、冷却へ落とす!」
「落とせ。銅を割るな。――針は縫い目だけを刺せ。横糸は捨てる」
「了解!」
砲班長が走り去り、砂に短い足跡が点々と残る。若者の一人が打ちそこね、縫目鍵を落とした。拾い上げる手が震えている。
「……怖い」
「怖いまま打て」
ハーリドが肩を叩く。若者は息を一度だけ吐き、鍵を据えた。
――帝国・前線後方《黒営》
砂盤の上、黒い墨で描いた脈が蜘蛛の巣のように広がる。乾符が平皿の上で燃え、灰が風の字に崩れた。
「起点は古井戸の底。水は上を嫌う。鎖は下から着ける」
ザエルは指示し、アディルが素早く符を繋ぐ。
「空は薄いが――返し風が二段。……王国は縫目鍵を使い始めた」
「見えるのですか」
「風の文章は癖が字になる。――飛竜は三。二は偵察、ひとつは囮」
伏蛇工の頭が割り込む。
「地下は四筋で入れる。三は鳴らしてやれ。一筋は鳴らす前に通す」
「よろしい」
――王国・北縁
“束起動班”から転じてきたユースフは、結界隊の補助に入った。彼は白陶の小鈴を砂に埋めながら、喉の渇きをごまかす。
(今じゃない。今じゃない……今――)
砂の呼吸が鈴を撫でる。鳴り出す寸前で、鈴は黙った。彼は自分の掌を見た。汗で白い。
――帝国・砂脈内
「一番、乾き通る。二番、合わせ。――三番、喉鈴を鳴らせ」
砂が微かに歌い、王国の地打ちが偽震で応じる。頭が笑う。
「偽震に偽震で返すか。なら俺たちは無で行く」
掌を砂へ。湿りの方向が、指先の温度で分かる。
「右脈、注水来る。鎖を切って続行」
――王国・結界祭壇
「北東、位相落ち〇・一五。薄い。返し風は立っているが、翼が慣れ始める」
測手の声に、カリームは別の紙束を引いた。**《砂脈図・逆相》**だ。
「彼らの乾きをこちらの水で和に変える。堰を指一本戻せ。下げすぎるな」
「堰、指一本。了解」
「ユースフ」
「はい!」
「縫目鍵を三本。返し風の尾を結んでこい。測手の指すとおりに。――怖いままでいい」
「了解!」
ユースフが走る。砂の斜面で一度膝をつき、歯を食いしばって立ち上がった。
――空
「縫い目、見える。返し風の筋が二重。間がある――」
先頭の飛竜が翼を一瞬畳み、段差を滑り台のように抜けた。
「通過確認!」
「二、続け!」
二番手は返し風の尾に翼端を噛まれる。高度が落ちた瞬間、下から針が三本、縫い目だけを正確に穿つ。
「熱い! 翼、焦げ――!」
「上げろ! 結び目に乗るな!」
三番手は即座に反転。二番手は煙を引きながら離脱した。囮の役割は果たしたが、騎手の悲鳴が風にほどけて消える。
――王国・対空陣地
「三斉射終了。鎖鳴り、高音域。冷却入る!」
「よく持った。次の縫い目まで二十呼吸でいい。息を合わせろ」
「二十呼吸? 詩が過ぎるぜ、参謀殿」
「うるさい。銅を割る詩は嫌いだ」
砲班が笑い、同時に汗を拭った。冷却路から白い湯気が細く立つ。若い装填手の手首が赤く焼けていた。
「包帯を。――お前は水を飲んで座れ。座ったら、また運べ」
「はっ」
――帝国・黒営
「空は“読んで”くる。――地下はどうだ」
「乾符三、鎖切れ。王国の注水が逆相で刺さります」
ザエルは砂盤の縫い目を撫で、線を引き直した。
「結び目を叩くな。結び方を狙え。アンカーの根ではなく、アンカー同士の間を引き伸ばす。乾符連鎖は短く、間に一拍の無を置け」
「はい」
「空は合図したら降りろ。いま勝つのは地だ」
――王国・北縁
「地下波形――無拍が挟まる。乾き、来て止み、また来る!」
測手の声に、ハーリドが顔色を変える。
「打ち増すか!」
「切る」
カリームは即答した。
「縫い目を解いてから縫い直す。荷重線に正気を思い出させる」
「余裕は――」
「今しかない」
カリームは祭壇の符を引き、綴じ目を一瞬ほつれさせた。空気が軽くなり、返し風がふっと向きを失う。
「――今! “針”を!」
対空陣地から細い光束が立つ。返し風が反転し、縫い目の向きが入れ替わる。
「補正完了、位相〇・〇七まで回復!」
「……やった!」
ユースフが拳を握った。だが次の瞬間、別の列で槌音が止む。縫目鍵の作業兵が一人、跳び出した破片で頬を切り、血が砂に散った。
「医療! ……打ち手を交代!」
「俺が行く!」
ユースフが二歩、進み出る。ハーリドが目で問う。カリームは短く頷いた。
「怖いままでいい。三本目、前で止めろ」
――帝国・黒営
ザエルは短い嘆息を漏らす。
「結び直し。美しい」
「……撤退を?」
アディルの声には悔しさと、わずかな安堵が混じる。
「退かない。退くのは爪だけだ。掌は残す」
砂盤に細く影色の線を足す。
「陽が上がる。王国は昼に強い。なら我らは影を作る。――雲を借りるか、鋼を借りるか」
「連邦の“鋼の翼”を?」
「まだ呼ばない。呼ぶ前に、鍵を盗む。引き抜くのではない。合鍵を作る」
ザエルは乾符を一本、宙で弄んだ。
「風の文章は読める。なら、書き替えられる」
――王国・司令天幕
ファハド王は外套を背もたれに掛け、東の白みを見つめる。風の音程が半音だけ低い。砂が嫌う匂いを連れてくる時の音だ。
「参謀」
「陛下」
「今の継ぎ目の処置、賭けであったな」
「賭けです。ですが、負ける賭けではありませんでした」
王は小さく笑みを作る。
「名を、続けよ」
「はい」
書記官が新しい名簿を持って入ってくる。天幕の外、喉鈴が鳴りそうで鳴らない音を立て、やがて静まった。
「半刻、持たせろ。半刻持てば、空はもう薄くない。――彼らが鍵穴を探し当てる前に、こちらは鍵束を増やす」
カリームは水晶盤の端――帝国側の地図の継ぎ目を撫でた。
(ザエルは来る。鍵を、鍵で奪いに)
最初の陽が縫い目を金で縁取り、砂の文章に一行の余白を作る。
戦場は、針と鍵。
風はなお、どちらの手の字を読むべきか、迷いながら走っていた。




