鉄壁の誤算
【本日の用語】
《思想》:帝国軍の揺るぎない軍事ドクトリン。アムサラは飛竜騎士団なしに戦争を仕掛けられない、という考え。
《魔導ゴーレム(まどうごーれむ)》:帝国の誇る無敵の番兵。一体で百人の兵士に匹敵するとされる。
《贖罪の日》:帝国で最も神聖な祝祭日。国中の活動が停止する。
《束起動》:符を束で同時点火して出力を底上げする起動法。
《携行祭壇》:小隊規模の再結界用簡易祭壇。出力は常設陣に劣る。
《位相同期》:結界の律を合わせる工程。C2断下では同期が乱れやすい。
ソラリス魔導帝国、東部国境防衛線「光の壁」。
その地下深くに築かれた司令部は、ひんやりとした静寂に包まれていた。情報将校のアディルは、水晶盤に映る対岸の様子を眺めながら、退屈をもてあましていた。一年で最も神聖な《贖罪の日》。
――儀礼の朝
香炉の白い煙が低くたなびき、符号盤の角には朱の印が押される。司令鐘には白布が結ばれ、号令は祈詞を経てからでなければ鳴らせない。
「本日は祈詞承認を経てから――規定です」司令補が淡々と告げ、承認の印が一つ、また一つ。
今日だけは速さより正しさが優先――その慣いが、足を縛った。
「野蛮人どもめ。祝祭日にまで騒々しいことだ」
隣で茶をすする同僚の軽口に、アディルは鼻で笑って応じた。
「放っておけ。奴らが本気で仕掛けてくるのは、我々の飛竜騎士団を空から叩き落とせるようになってからだ。それまでは、何をしようとただの威嚇に過ぎん」
その言葉こそが、帝国の無敵神話――《思想》の核心だった。彼らの頭には、その鉄壁のドクトリンが信仰のように刻み込まれている。アムサラ王国が、帝国の誇る飛竜騎士団を無力化する手段を持たない限り、本気の戦争など仕掛けてくるはずがない。
「哀れなものだ。彼らは、我々が築いたこの《光の壁》の本当の恐ろしさを知らない」
運河を挟んで演習を続ける敵兵の姿。この壁と、無敵の《魔導ゴーレム》部隊がいる限り、アムサラに勝ち目など万に一つもない。――自分が信じて疑わなかった「常識」だ。
午後二の刻。
その瞬間、退屈は低い鳴動に飲み込まれた。床石がうなり、砂が細雨のように降り散った。だが、それは壁への直撃ではなかった。後方、指揮通信中枢がある辺りから、黒煙が上がっているのが別の水晶盤に映し出された。
「敵襲! 敵襲だ! アムサラの砲撃!」
「ザザ……符号盤が沈黙、共鳴柱が砂化――命令が上がってこない!」
呼び鈴は鳴る。だが返事は来ない――伝令陣そのものが、いまは「耳」を失っている。
司令部が瞬時に混乱に陥る。なぜ壁を狙わない? 意味のない砲撃だ。アディルの思考が、初めて焦りで曇る。
副官:「儀礼手順、省略申請を――」
司令官:「規定外だ!」
「落ち着け! 想定内の挑発行為だ! 各員、持ち場を守れ!」
司令官の怒声が響く。だが、その声も次々と上がる報告にかき消されていった。
「第一報! 敵兵、小舟で運河を渡り始めました! 先陣八百!」
「第二報! 第二波一千二百、筏で続行! 第三波も接近中!」
――束起動班の若者(運河・対岸)
「三波まで持たせろ、符を使い切るな!」と遠くで声がした。
白い霧の中、濡れた手で札束を握り直す若い兵がいた。指は震え、膝までの水が冷たい。
「……怖いまま押せ。怖いまま、押せ」
仲間の声に合わせて、十枚の符を一息に束起動。青白い光が弾け、霧に溶ける。
(視点、帝国司令部へ)
「馬鹿な! 自殺行為だぞ!」
アディルは思わず叫んだ。(……なぜ壁を叩かない)小舟で運河を渡り、この光の壁に挑むなど、正気の沙汰ではない。すぐに《魔導ゴーレム》が、彼らを塵も残さず踏み潰す。
だが、信じがたい報告は続いた。その声は、明らかに恐怖に震えていた。
「壁が……壁が崩れていきます! 敵の放水によって、洗い流されています!」
「再結界小隊、《携行祭壇》を裂け目へ! 祈祷は短縮式でいい。位相の自律補正、止血しろ!」
――裂け目の祈祷
裂け目の縁に、携行祭壇が下ろされる。脚が泥に沈み、礼香が湿って火が鈍る。
「短縮式で行く、声を合わせろ!」祈祷長が叫ぶが、砂と煙で咳が連鎖し、唱和が途切れる。
《位相同期》の符が赤へ跳ね返り、合わせたはずの律がほどけていく。
「一時固定、持ち直します――いいえ、崩れます! 同期符、再び赤!」
「出力不足、同期取れません! C2断で儀礼隊の刻が合わず、縫い直しが途中で解けます!」
「放水だと? ふざけるな! 高位魔法で固めた壁が、ただの水で崩れるものか!」
誰もが報告を信じられなかった。しかし、主水晶盤に映し出された光景は、その悪夢が現実であることを示していた。巨大な壁の一角が、まるで泥のように崩れ、濁流となって流れ落ちていく。魔法の輝きを失った壁は、ただの巨大な砂の塊に過ぎなかった。
「ゴーレム部隊を出せ! 侵入者を一人残らず殲滅しろ!」――近接号令権限で発動。
――整備庫の静けさ
起動前の整備庫は、いつもは湖面のように静かだ。歯車は吸い込むように噛み合い、魔力導線は無音で脈打つ。
「起動、よし……」整備官が手を離した瞬間、遠くで束起動の光が爆ぜる。
水晶盤の像に、巨人の関節輪へ青白いノイズの縞が走った。
静けさを好む術式に、雑音が石を投げ続ける。歯車は空回りの乾いた歯鳴りだけを残す。関節輪の縁から、余剰魔力の火花が細く漏れた。静けさが、もう戻らない。
ついに、帝国の切り札が動く。鈍い光を放つ鋼鉄の巨人たちが、崩れた壁の向こうから現れた。その威容に、アディルは安堵のため息をついた。そうだ、これで終わりだ。アムサラの愚かな夢は、ここで終わる。
しかし、その安堵は、次の瞬間に絶望へと変わった。
「な……なんだ、あの光は!?」
塹壕に隠れたアムサラ兵たちが、一斉に何かを起動する。数千の青白い光が、まるで意思を持った蜂の群れのように、《魔導ゴーレム》に殺到した。
「敵は《束起動》だ! 一人十枚以上の符を同時点火――光だけで兵数の十倍に見える!」
「視認と計数、壊されます!」
「〈緊急〉ゴーレム大隊:制御層、干渉でフリーズ。膝、自重で座込。核、過負荷遮断」
通信が、耳をつんざく轟音と共に途切れた。水晶盤には、帝国の無敵の象徴であったはずの《魔導ゴーレム》が、まるでブリキの玩具のように破壊され、地に崩れ落ちていく姿が映し出されていた。
「将校! 敵の魔導札は、一体一体のゴーレムを狙ったものではありません! あの数……数で我々の防御能力そのものを飽和させているのです!」
部下の悲鳴にも似た報告が、アディルの思考を殴りつけた。
「ありえない……」
口から、声にならない声が漏れた。
祝祭日の奇襲。常識外れの工兵戦術。そして、安価な物量によるハイテク兵器の破壊。
彼らが信じてきた《思想》の全てが、今、目の前で粉々に打ち砕かれていた。(挑発ではない――)全面戦争だ。
そして自分たちは、その事実から目をそらし、完全に油断していたのだ。
「前衛第二帯壊走、第三帯遮断! 方面軍司令、符号盤前で沈黙――統制喪失!」
部下の悲鳴のような声が、アディルの耳に突き刺さった。――少なくとも自分の目に映る限り、要塞は瓦礫に見えた。
――獅子、目を開く(幕間・予備役宿舎)
粗末な私室の壁に貼られた簡易地図。継ぎ目に指を置く癖が、そこにあった。
「怖れは前に置け」
ザエルは立ち上がり、符を一枚だけ取る。
「曲がり角には、正面で入れ」
筆圧の強い文字が走る。
その時、予備役将ザエルより緊急符が届いた。『儀礼を切れ。渡河点の継ぎ目を抑えろ』。
アムサラの奇襲は成功した。だがそれは、帝国の真の恐ろしさを目覚めさせる引き金に過ぎなかった。