喉の下、地を這う牙
【本日の用語】
《砂脈》: 地中を流れる湿り気の筋。掘削や振動が通りやすい“道”。
《伏蛇工》: 浅層を這って敵基礎をほどく帝国の潜行工兵。
《喉杭》: 橋頭堡の荷重を深部へ伝える主杭。折られれば拠点が窒息する。
《震符》: 地中振動を拾う符。波形で深さ・方向を推定。
《偽震》: 意図的な擬似振動。監視網を飽和・誤誘導する戦術。
〈王国・橋頭堡 未明〉
夜の温度は底を打ち、風は細く均された。歩哨線に埋めた《震符》が、砂粒一つぶ分だけ明滅する。
「北東、二十七歩。浅い波、二連……砂脈に乗ってます」
若い歩哨ハーリドの報告に、カリームは頷く。今夜の勝敗条件を短く言い切った。
「夜明けまで二時間。喉杭“二番”を生かせ。倒れたら橋頭堡ごと沈む」
副官が確認する。
「注水は?」
「“壁”を作る。量は砂脈が嫌がる程度。半刻ごとに圧の見直し。――工兵、注水筒を前へ」
水盃の面に、髪の毛ほどの斜めが走った。
「名を呼べ」
「アミール、いる」
名が返る。名が返らない場所は“異物”だ。カリームはそこに白石を落とした。砂はわずかに沈み、呼吸の穴が見えた。
「息穴。布覆いで偽装。――糸切り矢、一射」
弦の感触で、見えない《霊線》が切れたのを皆が知った。
〈帝国・前線後方 黒営〉
「砂脈は三。真ん中が甘い」
《伏蛇工》頭が砂盤に線を引く。ザエルは短くだけ言う。
「上は結界で固い。なら下で勝つ」
情報将校アディルが問う。
「喉杭まで四半刻、いけますか」
「いける。折らない、ほどく」
獣脂を砂に含ませ、擦れ音を鈍らせる。頭は合図の笛を二声。
「鳴かせるな、砂を眠らせろ」
〈王国・北東角 警戒壕〉
「波、深さ男一人。進路、北から東へ回り込み」
「回り込みなら“前さばき”。――注水、先回りで打て。喉杭の前に水の壁だ」
工兵が竹筒束を抱え走る。ハーリドは地に頬を当てて耳を澄ました。砂の舌が歯列を舐めるような、薄いきしみ。
「ここにもう一つ、息穴……露の縁だけ乾いてます」
「良い耳だ。二本目、切る」
矢が囁き、二本目の線もほどけた。
副官が首をかしげる。
「参謀、対空を一門、地鳴り用に回すのは危険では」
「半刻だけだ。空は結界で持たせる。今夜、牙は地を這う」
〈帝国・砂脈内〉
湿った砂は重く、音は鈍い。先頭が短杭で試し打ちし、頭が手振りで“可”を出す。
「ここからほどく。刃を立てるな、寝かせろ」
喉杭の周りの砂を撫でるように切り離す。打ではなく抜。
ぬるい流れが頬を濡らした。
「水。上から注いでる」
「右へ半身。砂脈を渡り替え」
彼らは音もなく進路を修正した。
〈王国・臨時射点〉
「偏角ゼロ、仰角零点五、霊線短接続。――三拍吸って、一で放て」
対空魔導砲を低出力で地面に叩き込み、層を揺らす。目的は破壊ではない、定位だ。
震符の波が一度だけ大きく跳ね、すぐ細る。
「読み直しを強いている。……来るぞ」
〈帝国・砂脈内〉
頭が舌打ちを一つ。
「上から鳴らされた。近いのは事実だ」
静音符を押し込み、砂の鳴りを鈍らせる。喉杭の木肌がうっすら呼吸する。
「今」
点火――点かない。
「線が死んだ。上で切られた」
頭は笑い皺を寄せた。
「いい耳がいる。なら直点だ」
胸符で直接起爆に切り替え、短く数える。
「三、二――」
側壁がふくれ、注水で重くなった砂が先に落ちた。衝撃は“水の枕”に呑まれて、杭に届かない。
「引け。ここは勝負にならん。別筋に移る」
〈王国・北縁〉
「爆ぜましたが、浅い。喉は生きてます!」
測手の声に、壕に息が戻る。カリームは喉の緊張を一度だけ抜いた。
「注水は細く継続。伏蛇工は賢い、すぐ別の道を探す」
ハーリドが問う。
「参謀……ぼくら、勝てますか」
「勝つ。だが“すぐ”ではない」
「すぐじゃない勝ちって?」
「朝、息をしている勝ちだ」
ハーリドは短くうなずき、矢を握り直した。
〈帝国・黒営〉
「“水の枕”で殺された。上出来だな、あいつら」
アディルが悔しさを滲ませる。ザエルは感情を挟まない。
「途中で悔やむな。目が鈍る。――砂盤を空にして、最初から」
彼は杭を別位置に刺し直した。
「偽震を打つ。四方から小刻みに歌わせて、彼らの震符を飽和させろ。喉杭へ届く一本だけが“独唱”だ」
アディルの目が細く光る。
「了解」
〈王国・司令天幕 未明〉
「震源、急増。四方から小刻み……揃いが良すぎます」
「偽震だ。――名を続けろ。測手は“大きさ”ではなく“揺れの揃い”を見る」
カリームは外気を吸い込み、判断を短く分割した。
「一個大隊を十に割る。各班に:注水筒、砂枕、糸切り矢、そして一人の耳。重い刃は鈍い。細い刃で同時にさばけ」
副官が走り、命令が分配される。
次の瞬間、北東の線が静かに消え、代わりに北の線が揃って立った。
「来た、本命。――二番杭、前面“砂枕”追加。対地、脈をもう一度。三、二、一」
低い脈動が地表を這い、偽震の合唱が一瞬だけ破綻した。その“隙”の底で、ほんものの足音が遅れを取る。
砂の下で、喉が一度だけ鳴る。だが杭は立ったままだ。
夜はまだ長い。東の端が、わずかに灰色にほどけはじめる。
〈小さな喪失〉
注水筒の継ぎ目が一つ割れ、工兵が手首を切った。ハーリドが布を巻く。
「すまん。俺の締めが甘かった」
「朝に謝ってください。朝まで、生き延びてから」
工兵は笑い、頷いた。
風が一段低くなる。砂の奥で、誰かが地図を描いている気配。カリームは確信した。
(次は“砂脈の地図”で来る)




