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星の器

【本日の用語】

《星のほしのうつわ》: 夜空を浅い水盤のように写し取り、位相の“撓み”で地上の弱点や乱流を読む魔導観測器。

偽星ぎせい》: 人為的に点す擬似恒光。星の器を誤誘導させるための囮光源。

《撓みたわみいき》: 結界や風紋が一時的に沈む“へこみ”。射撃や進入の窓になる。

《縫い返し(ぬいかえし)》: 乱れた位相を臨時に縫い止めて復元する応急術。

《糸切りいときりや》: 線索を断つための薄刃矢。見えない係留索や霊線を切断する。

星の器は、夜空に置いた浅い水盤だ。風が触れれば波紋が走り、その歪みが地上の弱点をなぞる。


〈王国・橋頭堡 北東角〉


 砂嚢が肩にずしりと食い込む。塩で割れた唇に砂が貼りつき、噛み締めた歯の軋みが頭蓋の奥で鳴った。

「もう半歩、左。――止めろ」

 カリームが手を上げる。四点に据えた《陽石柱アンカー》が夜気を震わせ、見えない膜の端で砂塵が逆立つ。風は返り、空の皮膚が薄く撓む。

「撓み域、指幅ひとつ。今だけだ」

 副官がうなずく。「対空、射角は?」

「見た角度でいい。数字より、風の縁を見ろ。三斉まで、鳴いたら沈め」


 橋頭の外周で《対空魔導砲》が低く息を吸う。霊線はまだ不安定で、ちいさな雑音に身をすくめる生き物のようだ。

(落とせなければ、この夜で橋頭は死ぬ)

 カリームは心の中で言った。声に出さない。出せば、誰かの手が震える。


「偽星班、起こせ」

 合図で、運河の暗がりに点が浮いた。霧の向こうに、ほんの砂粒ほどの青白い光。間隔は乱数のようで、しかし嵌めたい相手にしか見えない配列だ。

「星読みの視界には、嘘を少し混ぜるのが一番効く」

 カリームは自分に言い聞かせるように呟いた。


〈帝国・前線後方 黒営〉


 主鏡の縁に、係留索が四方から延びている。夜空を受ける銀の皿。そこに《星の器》は星図を盛り、地表の歪みを指し示すはずだった。

「偽星光、散見。――だが薄い。読み筋は立つ」

 ザエルが静かに言う。

「読み方で勝て」

 情報将校アディルが唾を飲む。「将、撓みの串刺しを?」

「そうだ。嘘は、繋げばほころぶ。三枚の層で見ろ――上層の流れ・中層の返り・低層の縫い跡。三つが同じ場所を指す点だけを信じろ」


 祭壇手の指が素早く符を渡す。操作役が主鏡の縁に触れると、表面の星々が微かに滲み、偽星が二つ三つ浮いては沈む。

「縫い返し準備、第一班。――読み筋、橋頭北東角、喉の上」

 ザエルの声が落ちた瞬間、主鏡の係留索がきいと鳴いた。張力が一拍跳ね、持ち綱が男の頬を裂く。血が風ですぐ乾く。誰も痛いと言わない。

「主鏡保持。――落ちるな」

 指揮の声が低く通る。黒営の灯が、風に硬く揺れた。


〈王国・橋頭堡 北縁・偽星班壕内〉


「ハーリド、息を詰めるな」

 隊長が囁く。若い歩哨――ハーリドは頷いて、糸切り矢を弦にかけた。

(息を吐くな、矢がぶれる。――いや、ここは一拍遅らせ)

 脳裏で二つの自分が殴り合う。撓み域が呼吸のように開閉する。

 星の器の銀光が、雲の裏でたわむ。

「――今」

 ハーリドはわざと一瞬遅らせて離した。矢は静かに空を割り、見えない糸に吸い込まれる。

 ちいさな音。張り詰めていた何かが、遠くで切れた。


「一本、入った!」

 壕の中が揺れる。隊長は叫ばない。「次を待て。三本で落とす」


 上空では、対空砲が二度吠え、三度目の息を飲み込んだ。銅が鳴く寸前、砲班長が拳を握って「沈め!」と低く命じる。欲張るな。銅は、割れる。


〈帝国・前線後方 黒営〉


「縫い返し、第二式へ。短縮でいい、律だけ合わせろ」

 祈祷手が喉を焼きながら唱える。主鏡の縁で、偽星が数珠のように走る。

「読み替えろ。嘘の並びは、誰かの癖だ」

 ザエルの目は笑っていない。

「射界を北に半歩。橋頭の“継ぎ目”を狙って、地を揺すれ」

「継ぎ目?」アディルが聞き返す。

「王国は、地図の継ぎ目を埋めるのがうまい。だが埋めた跡は柔い。喉の真下に、土の縫い目がある」


 主鏡がわずかに傾く。読み筋は一本に集束し、指揮盤の点が喉の上に止まる。

「……今だ」

 帝国の魔導砲が、遠くで腹の底から鳴った。


〈王国・橋頭堡 中央・司令天幕〉


 地面が低くうなり、机上の水盃に同心円が走った。

「橋頭、中央線に打撃。被害軽微――だが“継ぎ目”が浮く!」

 報告に、カリームの指が卓上で一度止まる。

「埋め返せ。砂嚢を倍積め。今は痛くても、あとで利く」

 副官が走る。外は忙しいのに、天幕の中だけはやけに静かだ。

「参謀」ファハド王が呼ぶ。「空の器は、どう動く」

「彼らは読み方で勝ちに来るでしょう。だからこちらは、見せ方で勝つ」

 カリームは黒い微笑の気配を一瞬だけ見せた。

「偽星は足りている。――あとは、落とすだけです」


〈王国・橋頭堡 北東角〉


「二本目、外れ! 風が返った!」

 ハーリドの指先が汗で滑る。隊長が短く言う。「待て。風が戻る」

 撓み域が浅い呼吸を繰り返す。星の器の光は、水面のように揺らいだ。

 砲班長が肩で息をし、霊線の唸りを耳でなだめる。

 カリームは壕の陰から空を見た。

「あと一つ。――この一つで、夜が決まる」

 誰にでもなく、低く言う。

(声に出した。――だがいい)

 彼は自嘲のように笑って、指を二度鳴らした。偽星が一粒、意地の悪い位置に点る。


「――今!」

 ハーリドはためらわず放った。矢は夜の皮膚を裂き、見えない索を断ち、星の器の銀がぐらりと傾いた。


 高いところで、金属が悲鳴を上げる。

 主鏡の縁が一方に沈み、係留索が二筋、夜に解けた。


〈帝国・前線後方 黒営〉


「主鏡、左前索断! 保持角、落ちる!」

 補索が空を噛む。はねた張力が係留手の頬を裂いた。血の線が一瞬ひるがえって、すぐ黒に戻る。

「逃がすな、手を重ねろ! 縫い返しを右後に、負荷を逃がす!」

 アディルが声を張る。

「ザエル将――」

「落ちても読め」

 短い。冷たい。

「落ちなければ読め。どちらでも読みで勝つ」


 祈祷の声が掠れ、星図の一角が白く焼けた。主鏡は堪えたが、読み筋は濁った。


〈王国・橋頭堡 北縁〉


 夜風が変わった。

「対空、もう一度だけ息を吸え。――三斉でなくていい、一斉一だ」

 カリームの声に、砲の腹が膨らみ、ひとつの光がまっすぐ空の継ぎ目を射抜いた。

 高みのどこかで、留め金が砕ける音。星の器の銀が、片目を閉じた。


「……落ちた」

 誰かが呟く。

 カリームは頷きもせず、ただ次の紙を引き寄せた。

「偽星は消せ。布覆いで水面の反射を殺せ。――星読みの“眼”は、すぐ別の眼に変わる」


 ハーリドが弦から指を外し、ようやく息を吐いた。指先は血で薄く濡れている。

「よくやった」

 隊長の声は小さい。それで十分だった。


〈帝国・前線後方 黒営〉


 星の器は生きている。主鏡をひとつ失っても、まだ読むことはできる――ただし、地表を使えば。

 ザエルは卓上の砂盤に杭を刺した。

「星を汚されたら、地を読む」

 彼は穏やかに言う。

「喉に手を伸ばすな。喉の下を掘れ」

 杭に結んだ細い革袋から、水が滲む。砂が暗くなる。

「砂は覚えている。足がかりの重さ、夜の冷え、昼の音。――地は声を出さないが、喉は鳴る」

 アディルはうなずいた。恐怖ではない。理解だ。

「工兵を寄せる。静かにだ」


〈王国・橋頭堡 司令天幕〉


「夜の作業を二割落とせ。見張り線は二重に。歩哨には名を呼ばせろ。匿名の影は崩れる」

 カリームが矢継ぎ早に指示を打つ。外で角笛が短く鳴った。

「参謀」ファハド王が言った。「敵は、どう来る」

「地下。――砂は声を出さないが、鳴るときは一気だ」

 彼はわずかに目を閉じ、まだ熱い矢束の匂いを吸い込んだ。

「喉の上で、喉の下が鳴くのを待つ。鳴いたら、切る」


 天幕の布が、夜風に薄く揺れた。勝利の余熱はもう消え、代わりにきしむ音が近づいてくる。

 遠く、砂を押し分ける見えない手の気配。

 星は見えている。だが、地が動く。

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