黒砂の撤兵
本日の用語
《撤兵設計》:勝ちを“持ち帰る”ための計画的後退。損害と時間を秤にかけて線を引く作戦。
《二層撤収》:前縁と後縁を交互に下げる“はしご”方式の撤退法。
《無灯行軍》:灯火・声・金属音を封じ、反射も殺して移動する夜行動。
《布覆い(ぬのおおい)》:反射遮断布。灯と水面の“光返し”を消す。
《砂上足袋》:砂上で足音と踏み跡を減らす底薄の履き物。
司令部天幕の空気は、勝利の温度をまだ少しだけ保っていた。だが作戦盤の前だけは冷えている。砂に引いた細い線が、運河から後ろへ、三本の途切れで延びていた。
「——撤兵設計です」
カリームが砂線の端を人差し指で押し、将軍たちを見渡す。
「今夜、《二層撤収》。前縁が三百歩下がり、後縁が被せて止血。半刻置きに繰り返す。未明には新しい稜線で再結界の骨を立てる」
「待て」白髭の将が手を挙げた。「勝っているのに、なぜ下がる」
「勝ちの膨張は腹を裂くからです」カリームは砂に別の線を引く。緩い上りが、ある点から急角度で跳ね上がる。「損害曲線。ここを名簿の速さが追い越す前に離れる。帝国の空は一刻で厚くなる。こちらの結界はまだ“薄い”。半刻ごとに、賭け金が跳ねます」
「だが——奪った土を手放すのか」
ファハド王が立ち、将の肩に軽く手を置いて止めた。王は短く問う。
「名で答えよ、カリーム」
「はい。第三梯隊の名簿が、三列になり始めています。列が四つになった時点で、この勝利は負けに変わる見込みです」
天幕に沈黙が落ちた。王は頷く。
「やれ。——持ち帰れ」
夜は早く、音は遠い。隊は**《無灯行軍》に切り替わった。金具には布を巻き、声は口形だけで伝える。列頭と列尾の兵は《布覆い》を肩に掛け、見張りの鏡影を殺す。足もとは《砂上足袋》**がさら、と短く鳴るだけだ。
「先縁、三百歩下げ——被せ」
ナジムが指で合図し、前縁の線がしゃがみ込むように後ろへ落ちる。後縁が一歩前ににじんで、隙間を埋める。砂の上に、呼吸と同じリズムの揺れが生まれた。
「霊線、切り替え」信号手が囁く。細い導通線は腰の輪に巻き直され、触覚の合図に変わった。指先二回で「止まれ」、掌を滑らせて「左」、甲で軽く叩いて「速足」。言葉はいらない。
「半刻、経過」砂時計の影が一目盛り落ちる。
「——怖いまま、押せ」ナジムは自分の胸にだけ聞こえる声で言い、列尾を振り返らずに前を押した。
砂丘の鞍部に差しかかると、風が音を持ち始めた。遠く、金属鎖を撫でるようなすべる音。誰かが息を止める。ナジムは手の甲で**“低く”**の合図を送った。列が小さくなり、砂の影に溶ける。
「——半刻で次の被せだ」副長が耳元で唇だけを動かす。
その同じ夜、帝国側の前進基地。ザエルは灯を絞り、地図の継ぎ目に指を置いていた。
「曲がり角には正面で入れ。だが、相手が継ぎ目を餌にするなら——半歩、遅れてやれ」
「追撃を遅らせるのですか?」アディルが確かめる。
「半歩だ。闇の中で最初に死ぬのは、焦った側だ。偽の補給庫を焚け。“拾い癖”があれば向こうが崩れる。なければ、ただの灯だ。——灯は影を作る」
命じられた偽補給庫は、王国軍の退路から二線外れた窪地に置かれ、薄く火が入れられた。炎は高くない。だが背にした者の輪郭が、砂にわずかに浮く。
「将軍、音です」耳の良い兵が呟く。「風が……黒い」
ザエルは目を細めた。「砂が来る。良い夜だ」
「二層目、下げ。後縁、被せ」
カリームの計画どおり、列ははしごのように下がっていく。途中、古い潅木の株で一寸だけ段ができた。カリームは小声で副官へ告げる。
「地図は平らだが、地面は違う。この段差、埋めろ。喉になる」
「はっ」
運びの列が土嚢を二つ置く。その間にも、衛生班の担架がすり抜けていく。布の下の重みが、指先に伝わった。担いだ兵は唇を結ぶだけで、誰も名前を呼ばない。呼べば遅れる。
「砂時計、あと一目盛り」
半刻の端が近づく。空は暗いが、匂いが変わった。湿りのない、磨りガラスのような匂い。砂の匂いだ。ナジムは思わず顔を上げる。闇の高みに、薄く白い壁が立っているように見えた。
「砂嵐——?」
合図が伝わる前、背後の稜線で小さな火が立った。偽補給庫の炎が、輪郭を抜き取る。列尾の兵が反射的に身を伏せる。ナジムは甲二打で「そのまま」を送る。
「拾うな。見ない。喉を閉じて、行け」カリームの声が霊線の向こうで淡く震えた。実際の声ではない。そう言うはずの声の形だ。
風が、急に重くなった。砂の粒が頬に当たり、チリチリと音を立てる。視界はない。だが列の温度で、互いの位置は分かる。
「列尾、遅れ!」誰かが胸で叫び、すぐに飲み込む。叫んではいけない。無灯行軍は声を殺す。代わりに、輪の中の誰かが掌三打で「戻る」を送った。ナジムの肘に、その合図が刺さる。
「戻るな」副長が肩に触れる。「計画線——半刻で崩れる」
砂はもう、横からも来る。耳の奥で音が泡立つ。足裏の勾配が分からない。列は二層のうち、前縁だけがどうにか下がり、後縁が砂に足を取られている。
ナジムは手を上げ、迷いなく自分の班を切り離した。
(怖いまま押せ。押す方向は——後ろだ)
「俺が後縁になる。前は押し切れ。——半刻で追いつく」
腕で輪を作り、砂に向かって押し出す。布覆いが砂に貼り付き、息が浅くなる。指先だけが喋る。掌一打、「進め」。甲一打、「低く」。肘二打、「右四歩」。
砂が全部の音を喰う。それでも、列は進む。
ザエルは砂の壁の手前で止まっていた。追撃の先頭に立たない。半歩、遅い。
「最初に死ぬのは焦った側」アディルが繰り返すと、ザエルはうなずいた。
「焦りは音になる。音は砂で太る。——今夜は、聞くだけでいい」
砂の喉鳴りが、遠くで短く、そして途切れた。
「……一隊、置き去りか」アディルが息を呑む。
「名簿に穴が空く夜だ」ザエルは静かに言った。「向こうも、我らも」
砂嵐の黒がすべてを塗りつぶす前、カリームは砂時計の縁を指で弾いた。最後の一目盛りが落ちる。
「——撤兵設計、所定の線まで到達。列尾、あと一つ」
返答はない。砂の壁が、声の形ごと呑み込んだ。
カリームは背後を振り向かない。代わりに、書記官に言う。
「名簿を開け。——印は俺が落とす」
風の中、薄い紙が鳴った。
(持ち帰る。勝ちも、名も)
砂の匂いが濃くなる。夜は、まだ長い。




