灯を盗む者
本日の用語
《扇継ぎ(おうぎつぎ)》: 複数門を“扇”のように間欠で回す輪番射法。一門が撃てば隣が冷える。
《Δp札》: 圧の変化を見る観測札。灯の沈み具合で水圧や張力の増減を読む。
《柱高》: 高低指示の基準段。地物や陣地高を“柱一本ぶん”の単位で示す。
《砂下鉤》: 砂層の下へ潜らせて資材や索を噛ませる工兵用の鉤。固定杭と対で使う。
《偽の三射(ダミー三波)》: 誘導のための三回連続ダミー射。敵の応答周期や位置を炙り出す。
夜は砂に吸い込まれ、陣地の息遣いだけが地表に薄く残っていた。
渡河に成功した《橋頭堡》の稜線は、まだ“生乾き”。溝は浅く、遮蔽は低い。ここを夜明けまで持たせる――それがアムサラ王国軍の最初の計算だった。
「北面、柱高ひとつ下で待て。扇継ぎで回す」
カリームの声は低いが、硬い。砲側が復唱し、油の匂いが揺れる。
兵長「扇、第一翼――装填よし!」
砲班長「――扇継ぎ:複数門の間欠輪番。一門が撃てば、隣が“冷える”」
測手「位置指示:北東三十、柱高マイナス一。右端は“砂背”の陰に落とせ」
観測棚の上で、若い測手が札箱を抱えた。柔い灯の列。一本だけ、わずかに沈む。
測手「記録――**Δt(合図と現象のズレ)**は一・二。Δp札の灯、沈み二目盛り」
副官「放水の圧、持つか?」
カリーム「持たせる。“足りない”前に回せ」
その時、工兵線に火花。砂面がぱしりと裂け、黒い影が走る。
工兵長「鈎(砂下鉤)投入! 杭(固定杭)二連! ……張力、乗った!」
カリーム「よし。偽の三射(ダミー三波)、用意。相手の癖を見ろ」
三発――間を置き、また三発。扇の骨が静かに開閉する。
砂の向こう、帝国側の闇に灯が点き、すぐ消えた。間隔は均一、二呼吸弱。
測手「帝の応答、二呼吸間。中継あり――Δt固定気味」
カリーム「“儀礼”の尾がまだ残っている。盗めるうちに盗む」
――同じ砂を、別の靴が踏む。
帝国側・暁前。低い丘の背で、予備役将ザエルは肩掛けを外すと、淡い灯を一つだけ胸に留めた。
ザエル「高みを作れ」
伝令「はっ、土嚢四十!」
ザエル「ここからなら灯の間隔が一目で拾える。その間隔は中継の周期――合図は盗める」
彼は砂に指を当て、音ではなく“間”を聴く。
扇が回る。三で釣る。間歇がある。ならば――割り込める。
ザエル「北の対空陣は扇継ぎ。冷える隙が必ず出る。隙に、風を返せ」
副官「防空結界の縁は?」
祈祷役「陽石柱、四点縫い。だが柱高が合わぬ継ぎ目が一つ」
ザエル「そこだ。柱高ひとつ下で“息を潜れ”。――渡りの牙を出す」
牙――つまり斥候隊。水面には灯を持たない。
布覆いで反射を殺し、風紋の皺に足並みを合わせる。
ザエル「合図は“間”だ。音を捨てろ。Δtを合図に替えよ」
斥候頭「“一・二、踏む”でよろしいか」
ザエル「踏め。鳥が見えぬ壁に触れる前に、呼吸で抜け」
――アムサラ側。薄明。
風がひっくり返るような瞬間が、耳骨の内側を撫でた。観測塔の若い兵が、思わず肩をすくめる。
歩哨「隊長。対岸の灯、三つ……いえ、消えました」
小隊長「消えた、だと?」
歩哨「川面の皺が、逆さに走りました」
カリームは水晶盤の端を、指先で二度叩いた。
カリーム「偽の三射は終え。実射は扇の二翼で織れ。北面、柱高ひとつ下を“噛む”角度に」
砲班長「噛ませ角、了!」
副官「対空、三斉までは走れるが――」
カリーム「銅が鳴いたら沈め。欲張るな」
火。息。火。
扇継ぎの骨が、砂に等間で刻まれていく。だが――一本の骨は、必ず冷える。
帝国の斥候は、そこを待っていた。
結界の縁で膝を落とす。胸郭を薄くし、二拍で滑る。
Δtに合わせて、風紋の谷間へ身を沈める。
斥候頭(囁き)「いち……に。――抜けた」
斥候二「水は黙る。布覆い、下」
斥候頭「“牙”を砂に――砂下鉤、寄越せ」
彼らは橋頭堡の“継ぎ目”――工兵線と塹壕線の段差に、鉤と杭を打った。
引けば崩れ、押せば噛む。
帝国は“地図の継ぎ目”を、手指で現物に変える。
斥候頭「杭(固定杭)二連! ……張った。合図は灯、二沈みだ」
斥候二「戻る間も、Δtで歩ける」
アムサラ側。砲側の銅が、かすかに鳴った。
若い砲手が歯を食いしばる。
砲手「まだ行けます、参謀殿!」
カリーム「鳴いたら沈めと言った。命は銅より脆い」
言い終えるより早く、Δp札の灯が一つ、深く沈んだ。
圧が変わる。流体の“重さ”が、こちらに寄った。
測手「Δp――三目盛り沈下! どこかで“引いて”います!」
カリーム「継ぎ目を探す。南第三小隊、位置指示:北東三十、柱高マイナス一――右端は“砂背”の陰」
小隊長「了!」
走る音。
小隊が段差に飛び込み、手で砂を崩して“喉”を塞ぐ。
そこへ、帝国の小隊も砂の舌のように伸びてきた。
帝・小隊長「牙、引け!」
アム・小隊長「喉、締めろ!」
砂の上で、息と息が衝突する。
刃より先に、呼吸が当たる。
剣が鳴る前に、砂が鳴く。
その刹那、頭上で風がめくれた。
アムサラの対空魔導砲、第一門が吠える。
扇の骨が別の角度を向く――冷えた骨が、一瞬だけ熱を取り戻す。
砲班長「第一翼、再点火! 偏角七、仰角四、霊線安定!」
測手「Δt、変化! 敵の“間”が崩れます!」
カリーム「間を“奪い返す”。合図も、呼吸も、こちらのものに」
帝国斥候は、引き綱を切って退いた。
砂下に噛ませた鉤は、半ばで外れ、砂に飲まれる。
ザエルは丘の上で、その失敗を叱らなかった。
副官「将軍、渡りは半ばで潰えました」
ザエル「学べた。扇継ぎの骨数と、冷える“呼吸”の長さ。Δtの癖も」
副官「次の牙を?」
ザエル「牙は仕舞え。今日は“喉を撫でた”だけでいい。――明朝、柱高を揃えて来る」
砂丘に白い薄明が差す。
両軍の前にあるのは、勝利ではない。
“間”をめぐる、長い奪い合いの扉だけだ。
砲手(小声)「参謀殿……怖い、です」
カリーム「怖れは前に置け。――教えるたび、命の重さが一つ、指に残る」
砲手「……それでも?」
カリーム「それでも教える。明日のために」
砂の冷たさが、日へと変わっていく。
扇の骨は回り続け、呼吸は計算へと変わる。
“灯を盗む者”と“間を奪う者”――ふたりの計算が、同じ地図の上で交差した。




