砂の教室
【本日の用語】
《鳴砂帯》:粒のそろった砂路。踏圧や風の変化で「シシ…」と鳴き、見えない動きを知らせる“耳”。
《Δp札》:空気の押し引き(圧差)の変化を灯色で示す簡易計測札。音が消されても圧は嘘をつかない。
《布凧滑空》:帆布の凧に人が吊られて行う超低速・低音の浸透飛行。上からではなく“横”から入る。
《扇継ぎ(おうぎつぎ)》:砲列を扇形に並べ、順に撃っては冷やして火力を切らさない運用。
《縫い目》:結界・地形・風の“つなぎ目”。強い壁そのものより、つなぎ目が戦場の急所になる。
夜明け前、布頭巾の内側はざらついて、頬に当たるたび小さな火花のように痛んだ。歯の隙間で砂がきゅと鳴る。土嚢に背を預けると、夜の冷えが衣の中へ逆流し、汗の塩が皮膚に刺さる。結界の縁に敷いた《鳴砂帯》は遠くで細く鳴き、空には薄い灰がかかっていた。
「今日の授業は三つだ。一に“聞こえないものを聞く”、二に“撃たない勇気を持つ”、三に“同じ手順を明日の自分に残す”」
「先生、板書はレイラがやります」
レイラが砲架に肘を置いて笑う。「復習担当はサミルで」
「復習は命を伸ばす」
サミルはΔp札を手際よく吊り直す。「音を消してくる敵でも、圧(Δp)は消えない」
「ほら来たよ、真面目さの圧」
砲班長が銅管を布で拭き、手のひらで熱を量った。「鳴るのは銅じゃなく、敵の腕。うちの標語だろ」
補充兵の少年は、包帯の左手を胸に寄せ、右手で札束の角をそろえている。布の手触りががさついて、指先に小さな痛みが残る。
「怖いのは当たり前だ」
カリームは少年の前にしゃがみ、札の端をそっと押しそろえた。「怖いまま、順番にやる。手順は四つ。音→時間差→高さと向き→扇継ぎ。忘れたら書け」
「は、はい!」
空が白む。鳴砂が紙の裂け目みたいな気配で「シ」と鳴った。Δp札の灯が、わずかに深くなる。
「来る」
レイラが身を起こす。
「まだ撃つな」
カリームは掌を見せた。「上じゃない。横からだ」
「横?」
少年が砂原を目でなぞる。
「《布凧滑空》。風と並走すれば音が溶ける。でも押しは残る」
サミルは札を振り、灯の変化を指で追う。「二拍半→二拍、近づいてる。樹冠ひとつ下」
「標定、四手」
レイラの声は短い。「一番、喉だけ一拍。二番、三拍受け。三・四は“間”を置く」
「一番、喉一拍」
砲が低く喉を鳴らし、砂粒がぱらと跳ねる。鳴砂の揺れが二重になる。
「二重の影。囮が上、本命が横」
サミルがΔtを数える。「……今。二番、斉射!」
白い線が低く走り、黒い布の端が風ごとめくれた。人影が砂へ沈む。
「命中。翼を折った。――生け捕り班」
レイラは息を吐き、銃床を肩から外す。「一番沈黙、三番冷却、四番受け継ぎ」
布の匂いと焦げた砂の匂いが鼻腔に刺さる。と、そのとき鳴砂が別の鳴きに変わった。踏まれていないのに擦れている。
「下、潜ってる」
レイラが低く言う。「《布覆い》で反射を殺して、砂下滑走」
「Δpは微変だけど、風陰が細く走る。縫い目を渡ってる」
サミルが札を入れ替えた。
「歩哨線、右一枚詰め。縫い目に罠杭、鈎で引け。――撃つな」
カリームが合図すると、歩哨たちが鉤を投げる。砂がどっと盛り上がり、黒布がずるりと剥け、帝国斥候が咳を吐いて地上へ現れた。
「拘束」
砲班長が縄を回す。
短い静けさの後、後方の砂路でΔp札の灯がじわりと二段深くなった。押す群れの印だ。
「補給列が来る。背中を切りに」
サミルが顔を上げる。
「二正面はしない。砲は前、後ろは――教室で止める」
カリームは少年に札と短い鉤槍を渡した。「ここに立つ。灯が二段半深くなったら鈎。叫ぶな、手を上げる」
「……二段半、ですね」
「そうだ。半が肝だ」
砂路で細い「シ…」がつらなり、灯が――二段深くなる。少年の喉がからからに乾き、焦りが指を持ち上げる。
「(二段……半? もう半が分からない)」
手が早く上がった。
「合図、見た。鈎いけ!」
鉤が飛び、杭が打たれる――が、荷の端しか噛まない。敵の護衛が一発撃ち返し、土嚢に砂がばちばちはぜて看視の兵が頬を掠られた。
「下がれ!」
レイラが腕を引く。「早い。半が足りない」
「私のミスです!」
少年の声が震える。布頭巾の中、汗が目尻を刺す。
「ミスは授業料だ」
カリームは即答し、少年の手をもう一度、灯へ向けさせた。「息で数えろ。一(吸う)・二(吐く)で二段、『半』で指先を重く。それで上げろ」
「……はい。一・二……半」
灯がもう一段沈む。彼は重く手を上げた。
「今だ。鈎、再投入! 杭、二連!」
砲班長の号令。鉤が荷の腹を捉え、杭ががんと砂芯へ入る。黒い覆いが裂け、束ね荷と人影が砂へ崩れた。レイラの空射が空気を縫い、敵の脚を止める。
「撃たない勇気、合格。――記録だ」
カリームは帳面を開き、素早く書く。「二段半→鈎→杭二→空射。さっきの失敗のタイミングも書け」
「『二段で上げて失敗→一・二……半で成功』」
少年は声に出して書き込んだ。自分の字が、さっきより少しだけ太い。
前線から角笛が二短一長。敵の型が変わる。空の縁に薄い銀の弧が浮かび、音のない光が目を刺す。
「閃光矢。視界潰し」
レイラが布を目に当てる。
「伏せ、目を閉じて数えろ――五!」
カリームの声が砂の上を走る。「上げ! 二番、喉一拍。四番、三拍受け!」
白熱の残像が消える。Δp札の灯は、静かに、しかし確かに低く濃くなっていた。
「囮の後に本命。方位は東北低、速度は遅い」
サミルが告げる。
「同じ手順で止める。――扇継ぎ、入れ!」
カリームが手を振る。
「二番、斉射――四番、受け――一番、沈黙――三番、冷却――継ぎ!」
銅は鳴らない。熱だけが掌に移り、汗が真水みたいにしょっぱい。砂が低く返事をし、黒い布凧が二つ、三つ、砂に落ちる。
「……引いた。今日は“ここまで”」
レイラが息を整え、頬の砂を舌で払った。「砂の味、最悪」
「銅の味もしない。良い日だ」
砲班長が管の温度を手の甲で測る。「三番、軽い歪み。交換手配」
「誇張は要らない。記録」
カリームは帳面に走らせる。「音→Δt→高度・向き→扇継ぎ。そして失敗の訂正手順」
「伝令!」
砂を蹴って走り込む。汗は白く乾き、目はまっすぐだ。
「帝国本隊、風路の再編開始! 砂丘三本、削って道を作ってます。指揮名――ザエル!」
砂がひと鳴きして、風が裏返る。熱の匂いが濃くなる。
―――【カット:帝国・砂丘工作陣】―――
刃のように乾いた風が、ザエルの頬を紙でなでるみたいに擦った。彼は砂丘の喉へ膝をつき、指先で砂を舐める。粉の甘さの後に、陽石の苦い金気。
「鳴砂の教室を壊す。耳を奪えば、目は役に立たん」
ザエルは短杖で砂丘の稜線を三度叩き、地図に三本の線を引いた。「ここを削れ。風をこちらへ」
「防空の縫い目に合わせますか?」
副官が問う。
「逆だ。あいつらは縫える。縫い目そのものを縫い替える。風路を組み替え、布凧滑空は“授業”の外から入れる。――音を消すのではなく、音の意味を変えろ」
「囮は?」
「音のある囮だ。わざと銅を鳴らせ。鳴砂の“正解”を壊す。合図が早い子から崩れる」
ザエルは立ち上がり、風の向きを背で受けた。風は彼の命令に従うように、砂丘の肩を滑って低い路を作り始める。
―――【戦場へ】―――
「……目覚めた獅子だね」
レイラが砲架に手を置く。
「授業の続きだ」
カリームは手袋を外し、汗で濡れた掌を焼ける風へ晒した。「教科書は敵が持っている。こっちはノートで勝つ」
「ノート?」
少年が首を傾げる。布頭巾の縁が頬にこすれて痛い。
「だれでも読めて、同じ手順でできる紙。お前の字で、明日の自分を助ける」
カリームは少年の帳面を叩いた。「二段半の『半』――息で数える。それが今日の太字だ」
「はい。『一・二……半』」
少年はもう一度、静かに数えた。砂の味が薄れていく。
鳴砂が、遠くでひと声。風が勉強机の紙をめくるみたいに、砂のページをぱらりとめくった。授業は、まだ終わらない。




