奇妙なふたりが死んだ日のこと 第一話
本題とは少し離れた話題から始める。私は生まれてからの二十年間を、千葉県松戸市のとある地域で過ごした。その辺りは、マンションや団地が多く立ち並び、いくつもの商店街が林立する雑多な人間臭い地域であった。東京の大都会からは、かなりの距離があったが、人口密度が高く、現代的な雰囲気を強く持っていた。
高校生の頃、ある雑誌に私の住居付近の紹介記事が掲載されているのを見つけた。それによると、この付近は江戸の昔から『野馬よけの土手』と呼ばれて、ある種の観光名所らしいのだ。現在でもその名称を記す立て看板が残されていると、その詳細な記事は語っていた。私はさっそくその場所を目がけて出かけることにした。
すると、何のことはない。その木製の立て札は、私の家から見て、わずか二十メートルほどの距離に建っている、ある地主の邸宅の庭の中に堂々と在ったのだ。つまり、私がこの地域に生まれるずっと前から、ここに立てられていたわけだ。幼少の頃から、ずっとこの付近で遊びながら、この自分がその存在に気づかなかっただけなのである。おそらくは、大多数の現代人は、過去に対する興味が希薄なので、自分が長く住んでいる地域が、そもそも過去にどういった名所であったのか、それすら知らない場合があり得ると、これはそういう話である。
では、本題に入ろう。この文章は私が見殺しにしてしまった、とあるふたりの、いや、ひとりの女性への鎮魂歌になるのかもしれない。
今から三年前の五月十二日、その日は曇り空だった。ただ、気温は高く蒸し暑かった。雨が降りそうな気配はまったくなかった。外はいつも通り静かで、(後で完全に裏切られることにはなるが)、そのときまでは、平和な一日になりそうな感覚を得ていた。午前十一時頃、私は当面の食料とトイレットペーパーを買うために、近所のスーパーマーケットまで外出をすることにした。平日の昼間であるためか、店内は比較的に空いていて、買い物は順調に終わった。しかし、その帰り道の途中で、車道の端に停めてある、派手な色彩の自転車に乗った若者から、このように尋ねられた。
「ちょっと、いいですか? 実はここから西方にあるいくつかの建物から煙が出てるんですよ。あとね、さっき銃声が聴こえたんです。この付近で何かあったんですか?」
よく観察してみると、真っ黒なスポーツウェアを着込んだその若者は、顔面蒼白であった。相当な驚きを持って、この事態に向き合っているらしい。
「銃声? そんなわけはないですよ。そんなことが起こるわけがない。おそらく、あなたの聞き違いです」
私はそのように無難な返事をした。この国には一億を超える人間が生きている。確率から考えれば、自分の住む地域で凶悪事件など起こるはずはない。彼の発言を虚偽であると、そう判断した。そして、その若者とすぐに距離を取ることにした。常識で考えると、ちょっとずれているような発言を、誰彼構わず投げかける人というのは、どんな地域にも少なからず住んでいるものである。そういう人間とあまり関わりたくはない。そのときに自分はそのように考えていた。もちろん、これも後にこちらの思い違いであったことが判明するのだが。
しかし、自宅のアパートが近づくにつれて、この街で今まさに何か異様なことが起きているのが、この愚かな自分にも分かり始める。この地域は古い木造のアパートが並列に建ち並んでいて、その間を、まるで碁盤の目のように細い路地がいくつも走っているのだが、その狭い路地のあちこちから白い煙が立ち上っていた。私はその異変を肌で感じたが、最初から火事だとは判断しなかった。火の気はまるで見えなかったし、住民が外へ走り出て見物しているような気配もなかった。この街はまるで死んだように静かなままだったのだ。
ただ、何か異様なことが起きているのは事実だ。私は自分のアパートの入り口に向かって全力で走ることにした。しかし、自宅のすぐ前の通りにおいて、迷彩服をまとったひとりの中年の男性に声をかけられることになる。
「おい、おい、この地域に入ってはダメだ、今は危険なんだ、すぐに立ち去りなさい」
彼は大声でそのように呼びかけてきた。大型のゴーグルをかけていたので、その表情までは分からなかった。この男はいったい、どんな権限を持って、こんなことを言っているのだろうか。このとき、私はまだ落ち着いていて、左側にある建物を指さしてから、このように答えたと思う。
「いや、違う、ここが私の家なんです。入れないと困ります。通してください」
「それなら、早く家の中に入って、中から鍵をかけなさい」
軍服姿の男はそう告げると、私に興味を失ったかのように背を向け、北方に向けて走り去っていった。『何かあったのですか?』と、その背中に尋ねてみたかったが、そんな話ができそうな感じではなかったので、大人しく建物の角を曲がり、自室のドアの方に向かった。
私がこの一日に体験することになる奇妙な出会いは、まさにこの瞬間に始まる。自室の家のドアのすぐ前に、小柄な女性がこちらに背を向ける形で、うずくまっていたのだ。これが一大事だということはすぐに分かった。彼女は右肩から大量の出血をしていて、その白いTシャツを真っ赤に染めていたのだ。もちろん、このような凄惨な場面に遭遇したのは生まれて初めてである。激しく動揺してしまい、彼女にかける言葉が、なかなか見つからなかった。
「どうしたの? その傷は誰にやられたの?」
自分でもまったく適切だとは思えない、そのような台詞が口をついて出ていた。彼女はこちらに顔を向けた。それは、まだ子供だった。見た目は五歳くらいだろうか。肌は白く、その黒い髪は背中まで伸びていて、全体にずいぶんとやせ細っていた。彼女はこちらの問いかけに応えず、何を問いかけても、黙って首を振るばかりであった。どうやら、「自分に構わないでくれ」とでも言いたいようだ。
これを放っておけるわけはない。私は半ば錯乱したまま、彼女を家の中に引っ張り込んだ。右肩の傷をよく見ると、その傷口は銃創のように見えた。このようなか弱い子供が、背後から何者かに拳銃で撃たれたとなると、これは大事件である。
私はとにかく冷静になろうとした。自分に何ができるかを考えた。真っ先に救急車を呼び、警察関係者にも連絡をすべきだろうか? しかし、私は先ほど自宅前で出会った軍服の男性のことを思い出した。そういえば、あの男も機銃を持っていた……。まさか、この子は警察関係者に追われていて、撃たれたのではなかろうか……。そんな最悪の想像も浮かんだ。
そこで、公的な機関に連絡をするよりも、怪我の手当ての方を優先することにした。彼女を居間に連れて行くと、その傷口に大型の絆創膏を何枚も貼り付けた。しかし、その大量の出血を止めるためには、まったく不十分であった。先日、この家の中で誤ってガラスの破片を踏むという間抜けな事態があり、そのときに出血を止めるために、薬局において包帯を購入していたのを思い出した。私はそれを棚から見つけ出すと、彼女の肩をそれでぐるぐる巻きにした。その子は何も抵抗することもなく、黙ってなされるままにしていた。治療がひと段落した頃、彼女が思いがけず冷静な口調で語り始めた。
「手当をしてくれてありがとう、でも、どうか、落ち着いてくださいね。いいですか? これ以上、私には構わないでください。分かりますか? 私と一緒にいると、貴方の身が危険に晒されるんです」
五歳の子供の口が発したとは、とても思えないような知的な台詞だった。自分が置かれている異常な状況が、少なくともこの私よりも、冷静に理解できている様子だった。私の脳みそは驚きで硬直した。返す言葉がなかなか出てこなかった。
「君はどこの家の子供なの? この近所に住んでいるんだろう?」
私は微かに震える声でそのように尋ねた。
「私には自分のことが何も分からないんです……。この世界のことを何も知らないの……。とにかく逃げるしかないんです……」
彼女は何か自信なさそうにうつむきながら、そう答えた。外見上はどこにでもいそうな子供に見えるが、実際には、この子は記憶をすっかり失っているのかもしれない。私は何度か頷いてから、次の問いかけをした。
「今、救急車を呼んであげるから、もう少し、ここで待っていられる?」
そう尋ねると、彼女はこちらを睨み付けると、途端に「だめ!」と大声で叫んだ。私にはその理由が理解できなかった。
「お願いです。怪我のことなら、もう大丈夫です。どうか、家の外へ行かせてください。私はここには留まっていられないのです……。早く行かないと……」
「外へ行ってどうするの? その身体でどこへ帰るの?」
私はなるべく冷静を装いつつ、そのように尋ねてみた。彼女は首を大きく振ってから、このように答えた。
「追われている間に、えんちゃんとはぐれてしまったんです……。彼女は今この近くの公園にいるんです。私たちはいつも一緒にいないといけないの……」
その次の瞬間、彼女は素早い動きでベランダへのガラス戸に飛びつくと、それを一気に開いた。そのまま、呼び止める間もなく出て行ってしまった。私が追いつこうとベランダに出たときには、彼女の身体は、敷地の外にある花壇へと飛び降りた後だった。もちろん、その俊敏な一連の動きは、負傷した幼児とはとても思えないものだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。