第一話 和平交渉の罠
皇都ルーチェの朝靄は薄く、塔楼の稜線を乳白に溶かし込んでいた。
時刻を報せる鐘の連打が、朝から厄介な案件に頭を抱えるスレインの鼓膜を叩く。
(まったく……我が軍師の不在を狙ったかのようなタイミングだな)
スレインは皇国の重鎮が呼び集められた会議室で、長椅子に背を預けた。
常ならば寄り付きもしない場所。もし参列したとしても、だらしなく椅子に身を投げ、気鬱に銀匙を指の間で回していただろう。
けれど今は、為政者たる皇族の風格をもって鎮座している。
さらに背後半歩には、スティーリア——透き通った縦巻きロールの白金髪を頭の左右にまとめた、儚げな少女が無表情で控えており、周囲から好奇の目を向けられるのは必然だった。
皇帝が病に伏してからというもの、皇城では不穏な動きが絶えない。権威の空洞を手に入れようと、暗躍する影がある。
それがいよいよ、表面化してきた。
不意に双扉が派手に開かれ、長い金糸を靡かせた皇太子ラウルスが闊歩する。
装飾過多の肩章が朝光を跳ね返し、油断と自負を同時に撒き散らすかのような足音が響く。
後方には白を基調としたロングコートタイプの軍服を纏った男の姿。
鈍色に金青のメッシュが特徴的な髪型の彼はヒュドール・ヴァハトゥン。
侯爵位を持つ上級貴族にして、元帥の地位に座する皇国軍のトップ。
〝水蛇〟の異名で知られる、狡猾で策謀に長けた男だ。
ラウルスは入室早々、鼻で笑いながらスレインを見下ろす角度を探し、顎をわずかに上げた。
「来ていたのか、兄上」
「ああ。私がいてはダメかな?」
「内政の議題は、放蕩三昧の兄上には少々難しいと思いますが。まあ、理解出来なくもないでしょう」
ふいと視線を逸らし、ラウルスは上座へと着く。そうしてざわめく参列者へ向けて、声を張り上げる。
「今日は良い報せだ! 王国が和平条約を正式に提示してきた。条件はただ一つ、封祀殿の古剣を差し出すこと。剣一本で戦が終わる。分かりやすい話だろう。余計な遅延は許さん。私は承諾の証文をしたためるつもりだ」
「……ふぅん。剣一本で……ね」
スレインはすっと瞳を細め、背骨を一直線に。
「ずいぶんと安上がりな自己陶酔じゃないか?」
手を組み合わせて低い声を発した。
空気が冷え、ひゅっと収縮するのを感じる。
「兄上。いくら教養がないとはいえ、公の場だ。発言には気を付けて欲しい」
「発言に気を付けるのはお前の方だ。ここからの私は皇子として告げる。ラウルス、王国が欲しているのは金属塊としての剣ではない。皇族であるお前が、よもや封祀殿の意味を知らないわけではないだろう?」
それがなんだとでも言いたげにラウルスの眉間が歪む。
「建国神話の話か? 魔を封すると言う……あれは空想であろう。父上の容態が不安定な今、民は安堵を欲している。私はそれを与える。兄上は空想を真と信じ、民心を軽んじるつもりか?」
言葉尻に自己陶酔の震え。ヒュドールの指が袖内で一瞬止まる。微細な静止をスレインは捉えた。
「建国神話は戒律だ。私たちが誤った道を取らぬための。〝和平〟の条文に踊らされ、大局を見る目を曇らせているのは果たしてどちらかな」
「屁理屈を! わかりやすい成果が目の前にある。机上の空論など、必要ないだろう!」
「お前は昔からそうだ。目の前の利益に囚われ、本質を見ようとしない。だから安易に付け込まれ、利用される」
ラウルスはぐっと言葉を詰まらせ、視線をヒュドールへ滑らせる。凡愚は欠損を他者の言で埋めて自己判断と誤認する——何度も観測したやりとりだ。
ヒュドールが柔らかな笑みを貼り付け、あえて沈黙する。ラウルスを肯定するような空白だ。
それに自信を取り戻したのか、ラウルスは腕を組んで椅子に背を投げた。
「……臆病な兄上の意向は理解した。だが方向性は変えぬ。剣を渡すことは決定事項だ。これは皇太子たる私の裁可。異論は反逆とみなす!」
〝反逆〟と吐いて捨てた言葉に、場内がざわついた。
この決定に逆らえる者はいない。皇帝の名代として権威を揮っているのはラウルスなのだから。
スレインはやれやれと肩をすくめ、大きなため息を吐き出した。
「その手は悪手だよ。暴君にでもなるつもりか? 恐怖で人を従えれば、いずれ反発が起き綻びが生まれる。家臣と民衆の信を得ずして、国を治めることはできない」
「知った口を……! 兄上に何がわかると言うのだ!」
唇を引き攣らせたラウルスが、机に両手を打ち付ける。
感情を抑制する術も知らぬ者が〝皇太子〟とは、これでは幼子に剣を持たせたようなものだと、スレインは何度目かわからないため息をついた。
これ以上の議論は無駄だろう。スレインは静かに席を立ち、ヒュドールと視線を噛み合わせた。
「ヴァハトゥン卿。水は器を侵食し、形を奪う。だが私は、内側から腐るのを黙って見ているつもりはない」
婉曲な牽制を飛ばす。と、ヒュドールは顔色を変えることなく低く一礼した。
「水は器に従うのみです。ただ、継ぎ目が甘ければ静かに沁み、やがて形そのものを別物にいたします。殿下が器を保つ限り、私はただ澄んでおりましょう」
「……そうであることを願うよ。切にね」
スレインは舌打ちを飲み込むラウルスを横目に、「ティア」と後ろに控える少女の名を呼び、踵を返す。
「ラウルス、愚兄からの最後の忠告だ。甘言に酔いしれる暇があるなら、学び直せ。建国神話、封祀殿関連の文書、帝王学。どれも幼学の基礎すらなっていない」
振り返ることなく告げた言葉に、ラウルスの憤る姿が目に浮かぶ。きっと自分と同じ菫青石のように深い青色の瞳が背を睨みつけているのだろう。
スレインは規則正しく靴音に刻んで退出した。
扉が閉まり、出た先の廊下は静寂に包まれている。
スティーリアが小声で問う。
「スレイン、仮面はもう……いいの?」
「ああ、もう道化を演じる余白はない。あの二人の挟圧に身を任せれば、たちどころに皇国は毒に飲まれるよ。ここからは矢面に立つ」
スレインは掌を見下ろし、ゆっくり握る。節が白く浮いた。
「剣は渡さない。渡してはいけない。あれは象徴以上の意味があるものだ。……それはティア、君が一番よくわかっているだろう?」
「……ん。剣は楔。災厄を、呼び覚ましてはダメ」
柘榴石のように紅い少女の瞳が揺れる。スレインは大きく頷いて、肺に空気を満たすため吸い込んだ。
窓辺から覗く景色は未だ靄が立ち込めている。
(王国の和平提案は餌だ。要求を飲むのは愚策だが……ラウルスは止まらない)
事態は切迫している。早急に対策を講じなければならない。
スレインの足取りは、もはや緩い飾りではない。研磨済みの刃を持った策士、あるいは皇族としての歩み。
「さて、ナイトの残していった策を活用させてもらうとしよう」
回廊の先で曙光が一閃するのを見届けながら、スレインは次の手を模索する。




