幕間 白銀の視座
——逃がした。
憎たらしいほど澄み渡る空を見上げて、私は唇を噛んだ。
白き龍——伝説の幻想獣が一体。〝王の証〟が示す真価の一端。
儀式も封印解除の手順も踏んでいないのに、あの指輪は彼女の指で光紋を再構築し、即座に顕現段階へ移行した。
本来ならあり得ない挙動だ。何年も手元にありながら、感応すら出来ていなかったのに。
私の掌にあったはずの証が、条件を満たさないまま起動した理由は何だろう。
(トリガーは何? 感情の爆発が、龍を呼び覚ましたとでも言うの?)
我ながら馬鹿げた憶測だ。感情論ほどあてにならないものはない。
解析は後回しにしよう。先に事態の掌握を済ませなければ。
「第三偵察群、散開。夜明鳥は空層五十メートル以上で旋回。死黒鼠四十、灰狼二十は温存。熱源と臭跡、逐次送信」
低く静かな声で指示を出す。
林間に伏せていた魔獣が影の粒へほどけ、薄明へ溶けて散る。
高空索敵用の夜明鳥は調律の魔導具——〝風耳〟を介して群体視界を重ね、予測線を引いてゆく。
白龍の初回顕現の持続は長くて数分。残存マナから推察して、北東へ抜け山稜を縫って国境線へ至るつもりだろう。
定石どおりに動いてくれるなら、だが。
「間諜班、第二経路封鎖。国境信号塔へ『予定通り』を送信。皇都の和平条約は条文擦り合わせ段階——こちらは第四案を前倒しで適用、本部記録へ。文言調整は〝講和〟を強調し、『停戦後の協力枠組み』を挿入。表層には融和、深層には浸透」
和平条約はすでに皇都で形式審査段階を終え、条章の細部擦り合わせの局面だろう。
(土と血の匂いがまだ地表に張り付いている最中に〝和平〟とは笑えるけれどね)
滑稽だが、利用価値はある。火を鎮めるふりこそ、人心を縛る最良の鎖。
緩やかな終戦儀礼を演出しつつ、内側では毒を抽出し再配列する。条約は蓋。水面下で策を煮詰める時間を得るための。
(……兄様。どうして、彼女を庇ったの? 彼女こそ、私たちの憎しみの〝起点〟なのに)
理屈は理解している。名称未定の熱が胸腔の奥を蠢く。
怒りでも失望でも説明が付かない、置き去りの幼年期が発する微振動——そう扱うことにして沈めた。
答えは急がない。感情は戦術価値へ変換して初めて意味を得る。
偵察映像の端で、白龍の背に伏す彼女の肩が沈んだ。マナ減衰の揺らぎが見える。
追撃は可能な距離。……でも、今は追わない。
彼女の覚醒は未知の部分が多い。強引に潰せば、我が王の手中で再顕現が難しくなる可能性もある。
大人しく二度目以降の顕現を観測した方が収穫は大きいだろう。
「だから今は生かして差し上げます。二人とも」
和平条約調印という計略の前に、余計な問題を抱える必要はない。
いずれ、時がくれば対峙することになる。その時に、兄様の記憶を正し、私が憎むに相応しい過去の姿を取り戻してもらう。
そうでなければ、怒りで凍り付いたこの胸の氷塊が溶けることはない。
風耳の調律板に指を添え、探知層を更新する。
薄桃の縁を残した空が硝子質の青へ滑り替わる。夜と朝の境界。
盤面はこれから、もっと整う。
「観測を継続。標識は〝保留〟」
小さく命じ、術式を閉じる。指先に白光の残滓が痺れを残した。
焦燥も高揚も折り畳んで胸元に沈める。
今回の邂逅は偶然が重なった結果。急ごしらえの歓待ではやはり、限度がある。
次に動くべき時は——私が選ぶ。
最高の時と場所、相応の準備を持って迎えてあげよう。
「楽しみにしていてくださいね。兄様」
仄暗い感情を乗せて、私は薄っすらと笑みを浮かべた。




