第二十二話 未完の契約
白き龍が翼を一度震わせると、風圧が同心円状に拡がり、灼けた土の煤がさらわれた。
森の陰に潜む魔獣たち——死黒鼠や火鼠の残り、見張りに徘徊する灰狼が、鼻先を地面へ擦りつけるように身を伏せ、弱々しい鳴き声を漏らす。
普段は獰猛な魔獣の眼孔が、恐慌に揺れる光景が、白龍の視覚を通して視えた。
(……圧で、怯んでいるのか)
自分の魔術では作り出せない沈黙が戦場を覆う。質量を持った威圧に空気が変質しているかのようだ。
龍の体躯はベヘモスの半身にも満たない。それでも圧倒される〝何か〟がある。
輪郭は揺らぎなく凝縮され、鱗面の下で脈打つ光が呼吸と同調している。
アイナは面差しを崩さぬまま片眉をわずかに上げ、唇を引き結んだ。ベヘモスの尾が微妙な角度で揺れ、巨躯を巡る雷光の密度が落ちる。
完全に退いたわけではないが、明らかに慎重へと舵を切った。
「どうして今になって……貴女には、そんな資格なんてないと言うのに……!」
冷静だったアイナから動揺が窺える。切り返したい気持ちが喉まで込み上がったが、息を強く吐いた瞬間に胸の熱が不快な波へと変わった。
さっきほど溢れた力の奔流が、疲れきった身体を針で突く。
脇腹の負傷は、龍の加護だろうか。光に覆われて痛みが和らいでいるが、治癒はしていない。
四肢は鉛を含んだみたいに重く、少しでも集中を切らすと立ち眩みが来そうだった。
(気を強く持たないと)
エレノアがそう思って肩肘を張った時だ。か細い足取りのナイトが肩を並べる。
頬はまだ蒼白く、唇の血色も戻っていない。だが翡翠の双眸は動くべき一手を測る落ち着きを見せている。
「エレノア。ここで仕留めに行くより、生きて情報を持ち帰る方が優先だ。君のマナ残量と消耗を考えれば、龍の顕現持続は——あと数分保つかどうか、だろう?」
図星だった。龍と結んだ感覚の〝底〟が浅い。全力で一撃を捻り出せば、すぐ霧散する予感が背筋を冷やす。
「……撤退、しますか?」
「ここで倒れたら、元も子もないからね。引き際を見極めるのも、勝つための戦術だよ」
逃げではなく〝次へ繋げる判断〟だと、短い言葉が胸のざわめきを静めてくれる。
アイナの指がわずかに動く。こちらの出方を窺い追撃を迷うような間隙。ベヘモスが脚元の土を蹴り上げ、攻撃の前触れが見えてエレノアは頷いた。
「わかりました、今は退きましょう。——お願い、出来る?」
薄金と群青を含む龍の目と、視線が交差する。応じるように指輪がひと拍、脈を刻み、龍は地へと降り立った。
エレノアとナイトは、颯爽と龍の背へ飛び乗る。
「逃がすと思っていますか?」
アイナが片手を掲げた。べへモスの角へ弓なりに雷が編まれ、質量を増してゆく。
追い撃ちが——来る。
エレノアは顎を引き、龍へ小さく囁いた。
「飛んで!」
龍の輪郭が軽量化するみたいに薄光へと透ける。翼が大きく打ち下ろされ、身体が押しつぶされるような加速を受けながら、上空へ向かって風を裂いた。
直後、弾けるような雷鳴の音が響く。だが、帯電した空気が頬をかすめただけで、雷の軌跡は龍が残した残影に霞む。
追尾するように放たれた雷撃も、追いつくことなく軌道を乱され地面へ逸れていく。
龍が羽ばたくと、一瞬にして地形の縁と黒煙が後方へ流れた。
「龍は初めて乗ったけど、すごいね! あっという間に引き離した。さすがにこのスピードじゃ、追ってこれないだろう」
「……振り落とされないでくださいね」
先程まで死にかけていたとは思えないはしゃぎぶりを見せるナイトに、静かに釘を刺す。
ぎゅっと龍の背にしがみつくと、規則正しく振動が竜骨から伝わった。心拍とリンクするかのリズム。
痛みや焦燥を忘れさせてくれる、心地よい響きだ。
森林地帯を抜けると、高度がわずかに上がった。まだ遠く向こうに山脈の稜線が見える。安全圏には程遠いが、窮地は脱したと思っていいだろう。
息を吐いた拍子に、脇腹の痛みが鋭く戻る。視界が霞む。
すると、指輪から一筋の冷気が流れ込み、疼痛が鈍化した。
(痛みを和らげてくれてるのね。ありがとう……でも、これは〝借り〟ね。いつか返してみせるわ)
《期待している。我が〝主〟よ。その志を以て如何な道を歩むのか。我に示して見せよ》
(ええ。見ていて。私がどんな道を見出すのか)
振り返れば、はるか遠くで一際強い光が瞬いた。追撃か、諦めの合図か判別は付かない。
龍がわずかに速度を緩める。マナの消費を最小限に抑え、長距離飛行を持続を判断をしたのだろう。
エレノアは大きなため息を付いた。
「エレノア、大丈夫? 辛かったら寄りかかってくれていいからね」
「隊長こそ、私より消耗が酷いくせに、強がらないで下さいよ。辛ければ言ってください。いつでも背をお貸ししますから」
冗談めいて告げると、ナイトが小さな笑いを漏らす。これまでと変わらない態度を返す彼の様子が、せめてもの慰めだ。
罪も、復讐も、赦しも、和解も——まだ何一つ成し遂げたものはない。
ただ、獄中で願った〝二人で生きて帰る〟という誓いは、果たせそうである。
白き龍の影が朝焼けを裂き、二人を次の局面へ運んでゆく。
エレノアは霞む視界の奥に、己の未来と断ち切るべき連鎖の輪郭を重ねながら、剣を握る指に確かな熱を残して意識を繋ぎ止めた。




