第二十話 お姫様の罪
エレノアはべへモスの巨体を睨みながら〝角か尾が弱点かもしれない〟と憶測を立てたナイトの呟きを思い出す。
(最初の狙いは角。それでダメなら尾だ)
しっかりと剣を握り締めて地を蹴り、まずは牽制に魔術を詠う。
『女神ルクスよ、我に汝の加護を。邪を打ち砕け、聖なる矛──〝神翼の聖槍〟』
天からベヘモスの顔面へ向かって、燦々と光の槍が降り注ぐ。
強靭な外皮と再生能力は健在。思った通り大したダメージにはならないが、ベヘモスの気を引くことには成功した。
双角に蓄えられた紫電の矛先がエレノアへと向き、耳をつんざく音とともに明滅する光が駆ける。エレノアは半歩横へ跳んで、掠るスレスレの距離で雷を見送った。
(次弾のチャージまでが攻撃の猶予……!)
ひりつく熱気が肌を刺激し、焦げた土と焼けた樹脂の匂いが充満して鼻孔に貼り付く中、一気に地を踏み込んで距離を詰める。
「はあッ!」
エレノアは右の角に狙いを定めて剣を振り下ろした。キーンと高い音が鳴り響き、手がじんと痺れる。
「くっ、硬い……!」
角は傷ひとつ付いていない。まるで金属と金属を打ち合わせた感触だ。
ベヘモスが地を揺るがす雄叫びを上げて巨体を半回転させ、尾を鞭のようにしならせ振り回す。
エレノアは素早く身を翻し、軽やかにステップを決めながら離脱。次の攻撃を警戒しつつ、ヒットアンドアウェイを繰り返して、果敢に角と尾への攻撃を試した。
──しかしながら、どちらへの攻撃も決め手に欠けた。
「頑張りますね。でもこの程度では、ベヘモスは撫でられたくらいにしか感じていませんよ?」
悠々と傍観に徹するアイナが小首を傾げる。それはエレノアもわかっていることだ。
(剣と小手先の魔術だけじゃ、火力が足りない。かと言って、上級魔術は詠唱の時間が……。こんな時、隊長ならどうする?)
ちらりと、視界の端に入れたナイトは、ぐったりとして木の幹にもたれかかっている。
(あんな状態の隊長に、頼るわけにいかない。私が何とかしないと……!)
その一心でエレノアは戦い続けるが──。
無情にも時間だけが過ぎてゆく。焦りと疲労がエレノアの動きを徐々に鈍らせていった。
「あらあら。ずいぶんと息が上がっていますね。もうそろそろ限界が近いのでは?」
「……っ! そう見えているなら、貴女の目は節穴ね」
「無理はなさらないほうがいいわよ? 苦しみが長引くだけですもの」
巨木のように立ち塞がるべへモスの横で、アイナが「ふぅ」と息を吐く。
ナイトと同じようにすべてを見透かしたような翡翠色の瞳が、憐憫の眼差しを向けてくる。
優位は絶対的に覆えらないとでも言った態度だ。
悔しさから柄を握る手に力をこめると、アイナが涼しげに片手を払った。
その仕草は余裕を演出するものと思った刹那。足下の地面が隆起し、鋭い岩肌がエレノアを狙って伸びた。
エレノアは反射的に身を捻る。だが、角度をずらしたつもりだったが避けきれず、焼けつく熱が脇腹を貫いた。
「あぁッ!」
軍服が裂けて温い湿りが一気に広がり、一瞬視界が白く染まる。遅れて灼熱の痛みが波となって押し寄せ、体勢を維持できず片膝が土へ沈んだ。
「魔術で不意打ちだなんて……やってくれるじゃない」
息を整えようとするが、肺に入る空気が針で刺すように痛い。腕に力を込めて立ち上がろうにも、痺れが指先の感覚を奪い、剣を握るのも難しかった。
「十分、警告はして差し上げましたよ? 〝無理はなさらないほうがいい〟と。忠告を聞かないのはそちらでしょう」
アイナの声音は感情が乗らず、氷のように冷たい。挑発を跳ね返したいが、その余力がいまのエレノアには持てない。
(ダメ……まだ、負けるわけには……)
諦めの影がうっすらと胸に滲みかけた時。
風が肌を撫で、エレノアの眼前へ一つの影が滑り込んだ。銀の髪が朝の光を受けて淡く煌めく。
「隊長……?」
ナイトが立っていた。片手で懐中時計を胸へ押し当て、もう一方の手をゆるく広げて守るような姿勢。
足取りは覚束なく、肩で呼吸を刻んでいるのが背中越しにも伝わってくる。それでも、一歩も退かずに。
「もういい、エレノア。これ以上は、君の身体が持たない。……あとは俺が、何とかするから」
弱々しさと揺るぎなさが同居した声。振り向こうとしない彼の背が、妙に遠く感じられた。
「なにを、言って……隊長こそ、その身体では……!」
言い募ろうとして、唇が乾いてうまく開かない。焦りが熱となって喉を塞ぐ。
「彼女を庇うなんて、兄様は本当にお優しいですね」
アイナの表情がきり、と苛立ちに歪んだ。先ほどまでの遊戯めいた調子はなりを潜め、深く静かな怒気を孕んでいる。
「彼女こそが、私たちの平穏を壊した元凶だというのに」
理解が追いつかず、脳裏に疑問符が浮かぶ。ナイトの背がほんの僅かに強張る気配を見て、胸の奥がざわついた。
「元凶……? それは、どういう──」
「エレノア、耳を貸さなくていい!」
鋭い制止の声は、今まで聞いたどんな叱責よりも必死な何か。横顔から覗く翡翠の瞳が切実な色を帯びている。
エレノアは息を呑んだ。拒絶ではなく、遮断だと感じた。
そこにどれほどの感情が混じっているのかは、想像もつかない。
アイナがふと肩を震わせ、次いで腹を抱えて笑い出した。抑え込まれていた何かが跳ねる、歪んだ愉悦に満ちた笑い。
「ああ、ああ……本当に、どうしようもなく愚かだわ。そうですよねぇ、真実を知っていたならそんな風に振舞えるわけがありませんもの。……ならば兄様の代わりに教えてさしあげないといけませんね?」
「やめろ、アイナ!」
ナイトの制止など意に介さず、アイナは笑いを収めた。そうして、優雅に目元を指で拭う仕草をしてから、澄んだ声で宣告する。
「知っていて? 私たちの故郷の名はね、シュトラールと言うの。そして、シュトラールが滅びたのは──貴女のせい。そうでしょう? ねぇ、お姫様」
「……え……?」
時間が軋んで止まる。彼女はいまなんと言ったのか。
「どうして、その名が……」
脈が耳の奥で爆ぜ、遠くで木の葉の擦れ合う音が妙に鮮明に聞こえる。
脇腹の痛みよりも冷たいものが背骨を伝い、指先から体温が逃げて握った剣の感触が遠のく。視界の縁からは、じわりと暗闇が浸食を始めた。
(隊長たちの、故郷……? なんで、なにが……)
幼少期を過ごした故郷。シュトラールが王国軍によって攻め滅ぼされたのは事実だ。
それが、もしかしたら王家の血を引く母と自分がいたせいかもしれない──と、考えなかったわけでもない。
けれど、断言できる根拠なんてどこにもない。〝ただの偶然〟だと思うようにしていた。
しかし、アイナが〝お姫様〟と呼んだ真意に、気付けないほど馬鹿でもない。
呼吸の仕方を忘れたように胸が上下せず、問い返そうとした声は震えだけを残して形にならない。
「……うそ、ですよね。隊長……」
何とか絞り出した呼び掛けにナイトは背を見せるだけ。答えを返してはくれない。
沈黙は肯定の証。見出した真実の重みに、エレノアの鼓動が速さを増していく。




