第十八話 生還の約束
仄かな光源に照らされて、ゆらり。地面に映し出された影が陽炎の如く揺れていた。
エレノアはいましがたナイトから聞かされた話を反芻しながら、重い瞼を閉じる。
(隊長の過去は、想像していたよりもずっと凄絶だった)
戦火で家族を亡くして、冷徹無比な軍師として復讐に身を焦がし、その代償に養父母をも亡くしたナイト。
果ては恩師の裏切りに遭い、今度は再会した妹アイナから憎しみの感情を向けられている。
その苦悩と葛藤を思うと、胸が締め付けられた。
(『復讐は、新たな憎しみの連鎖を生む』……か)
「心の片隅に留めて置いて」と言った、ナイトの言葉が蘇る。あれは彼自身の悔恨から来る訓戒だったのだ。
今更ながら、その言葉の重みを噛み締める。
このまま、怒りに任せて突き進めば、自分も大いなる悲劇を呼び込んでしまうかもしれない。
それこそ、守りたいと願う存在——リヒトを危険さらす可能性だってある。
(でも、この胸に燻る炎は、簡単に消えそうもない。あの男……マグナスの死を見届けるまでは、きっと)
愚かだと言われても、そう簡単には割り切れない。
エレノアは静かに息を吐いた。
(……考えても、堂々巡りだな。今は眠ろう)
壁を背に、冷気にさらされた両肩を抱いて、膝に顔をうずめる。
ナイトの過去、皇国を内側から蝕む裏切者の存在、そしてこれからのこと。
まだ自分がどうすべきか答えは出ないが、無関係ではいられない。
きちんと向き合わなければ、と思いながら、エレノアは微睡みへ意識を沈めていった。
❖❖❖
寝入ってからどれほどの時間が経った時だろう。
夢を見る暇もなかったので、それほど長い時間では無かったかもしれない。
「——ノア、エレノア、起きて」
肩を揺さぶられ、覚醒を促す落ち着いた低い声色が響いた。
ナイトの声だ。エレノアはまだ眠っていたい衝動に駆られたが、振り切って意識を覚醒させていく。
「ん……隊長、おはよう、ございます」
「おはよう。起こしてごめんね」
瞼を開くと、形の良い眉を申し訳なさそうに下げた彼が覗き込んでいた。
暗がりの中でも、肌のキメやまつ毛の長さがわかる至近距離。ドキリと心臓が跳ねる。
寝起きにこの距離で、端正な尊顔を拝むのは心臓に悪い。
「い、いえ、十分休めましたので。……なにか、ありましたか?」
動揺を悟られないよう平常心で尋ねると、ナイトは神妙な面持ちで洞窟の入口へ視線を投げた。
「少しまずいことになった。すぐにここから移動するよ」
声色から焦りが滲んでいる。一体、何があったと言うのか。
……その答えは、洞窟を出て間もなく明らかになった。
「これは……!?」
飛び込んで来た光景にエレノアは驚愕とする。
まだ夜明け前の時間。ルクシア山脈の麓に広がる森が赤く燃え立ち、空にもうもうと黒煙が上がっていた。
まごうことなき山火事だ。まだ距離はあるものの、かすかに草木の燃えるにおいが漂い、炎が勢いを増して迫っている。
「自然火災じゃない、追手の仕業だ。まだこちらを捕捉してはいないみたいだけど……エレノア、こっちへ」
ナイトに促されて、エレノアは走り出す。彼は緩急のある山道へは足を踏み入れず、風の流れに逆らって森の中を行く。
深緑のカーテンが開けた箇所から薄明の空が覗き、左手の方角からは朝日が昇り始めている。
炎を避けるため、取られた進路は国境線と真逆の方向だ。エレノアは自分たちの置かれた状況に既視感を覚えた。
「この流れ……まるで、誘われているみたいです」
遠くから木の爆ぜる音と、獣の遠吠えが聞こえて来る。先を走るナイトが「だろうね」と相槌を打った。
「十中八九、敵が網を張って待ち構えていると思っていい。すんなり見逃してくれるワケはないと思ってたけど、ここまでするなんてね」
苦々しいナイトの声。エレノアは一瞬、来た道を振り返る。朽ちゆく木々を横目にして、唇を噛んだ。
(隊長を——いや、私たちを追い詰めるためだけに森を焼いたのならば、狂気の沙汰だ……!)
手段を厭わぬ敵の姿勢に、ぞわりと身の毛がよだつ。
そして、ふと思う。客観的に見ればこれまでの自分の行動も〝常軌を逸した行動〟だと、周囲の人の目には映っていたのだろう、と。
前線から遠ざけられた時は、どうしてもその理由に納得いかなかったが……いまならば中佐の叱咤も、理解出来る。
エレノアが己の未熟さを痛感していると、不意に前方で銀糸を靡かせるナイトの身体が、ぐらりと傾いた。
「隊長!」
咄嗟に手を伸ばすが、受け止めようにも間に合わず。盛大な音とともにナイトの身体が地面を滑る。
エレノアは慌てて傍へ駆け寄り、「大丈夫ですか?」と尋ねながら手を差し出した。
「はは……平気。情けないところばかり見せてるなぁ」
彼はから笑いを浮かべてエレノアの手を取った。
触れた瞬間、ひやりと氷のような冷たさが走り、ぞっとした。およそ人肌とは思えぬ温度である。
驚いてナイトの様子を窺うと、顔色が悪い。薄暗い洞窟の中では気付かなかったが、肌は血の気を失って青白さが目立つ。
それもそのはずだ。治癒魔術は傷を癒やせても、失血や疲労は回復できない。
その上、まともに食事と休息を得られぬまま逃走劇を演じているのだから、心身ともにギリギリの状態だろう。
このまま無理を続ければ命の危険すらある。だが、立ち止まることもまた、死を受け入れるのと同義。
いまの状況が〝自分のせいだ〟という自責の念から、エレノアは顔を顰めてしまった。
すると、ナイトはそこから別の意図——〝不安を感じている〟とでも読み取ったのだろう。
「心配しないで。何があっても君のことは守るから。……この命に替えても」
包み込むように優しい声で語りながら、ナイトが表情を引き締めた。力強い翡翠の瞳がこちらを射抜き、思わず鼓動が早まる。
〝守る〟と言ってくれたことが、素直に嬉しかった。
しかしながら、自己犠牲を是とする発言には苛立ちを覚える。
気弱になっているのか、彼らしくない。キュッと胸が苦しくなってしまった。
視界の端でナイトが起き上がろうとしている。だが、転んだ時に膝を痛めたらしく、わずかに顔を歪めた。軍服には血が滲んでいる。
見兼ねて、エレノアはナイトに肩を貸す。そして、鋭い視線を向けつつ「バカなことを言わないで下さい」と唇を尖らせた。
「守られるだけなんて、まっぴらごめんです。もし、隊長がご自身を犠牲にするようなことがあれば恨みますよ。文句を言いに、地獄の果てまで追って行きますからね」
怒り、哀しみ。そんな感情がこもっているせいだろう。声のトーンは自然と低くなった。
ナイトはというと、豆鉄砲をくらったように瞬きを繰り返した後、フッと口元に笑みを浮かべて空を仰いだ。
「地獄の果てまで、か。そうなったら死んでも死にきれないなぁ」
「そう思うなら、変なことは考えないで下さい。隊長には、スレイン殿下との誓約が——やるべきことがあるのでしょう? それに、私もまだ、隊長に聞きたいことがあるんですから……」
なんだか気恥ずかしくて、語尾がすぼんでしまった。
すると、ナイトは何故か嬉しそうにへらりと表情を崩し、突拍子もないことを言い出す。
「じゃあさ、無事に帰れたらデートしようか」
予想の斜め上を行く返答に「へ!?」と間の抜けた声がエレノアの口をつく。
うっかり、起き上がらせたナイトを突き飛ばすところだった。
「こ、こんな時に冗談はやめてください!」
「こんな時だからこそ、本気だよ。困難を切り抜けた先に楽しみがあると思えば、絶対に生きて帰ろうって気になるでしょ? ……それとも、俺とデートするのはイヤ?」
捨てられた子犬みたいにしゅんとするナイトを見て、「うっ」と言葉に詰まる。こちらが悪いことをしてしまった気分だ。
「そういうわけじゃ、ないですけど……」
「エレノアが楽しめるよう、しっかりエスコートするから。固く考えず息抜きだと思って」
エレノアは返答に惑った。ナイトの上辺だけしか知らずにいたなら〝弄ばれている〟と考え一蹴したのだが、少なからず内面を知ったいまは違う。
ダメ押しとばかりに、「ね?」とナイトがウインクを飛ばしてくる。
自分の意志とは関係なく頬へ熱が集まり、鼓動が早鐘を打った。
このままだと、密着している彼に聞こえてしまうという羞恥心と、パチパチと木々の燃える音が近付いてきていることが、エレノアに決断を急がせた。
「——っもう、わかりましたから! その話は帰ってからです!」
ナイトを支えたまま、頬を刺す熱を振り切るように歩き出す。その横で「言質は取ったからね」と微笑む彼を、少し憎たらしく思った。
——それでも、交わされた約束が前へ進むための力となり、めげない勇気をくれるのは確かだ。
振り返れば、来た道は黒煙が覆い隠し、暗鬱とした雰囲気が垂れ込めている。獣の遠吠えも鳴り止まない。
だが、エレノアは明け行く空を視界に、茜と燃える森を背に、一歩を踏みしめて行く。
生きることを諦めず、一緒に帰るのだと——。




