幕間 水鏡に映る想い
曇天の月がわずかに覗く頃、アリファーンは森影に潜んだ野営地へ戻って来た。点々と並ぶ篝火を頼りに、テントと物資の合間を縫って歩く。
焚き火の前を通りかかった時。
「おい、アリファーン。てめぇ、いつまでこんなこと続けるつもりだ」
火の縁で見張りをしていたヴァンがアリファーンを呼び止めた。月明かりに照らされたライフルが膝の上で光る。
「……ヴァン、起きていたの。もちろん、隊長が見つかるまでよ。悪い?」
ナイトは撤退援護任務の最中、独断行動を取ったエレノアを追ったのを最後に、行方知れずとなってしまった。
おそらくは王国軍と遭遇したものと思われるが、詳細は掴めていない。
アリファーンは毎夜、消えた彼らの手掛かりを求めて、捜索を続けていた。
「悪いもなにもねぇ。一度、自分のツラを見てみろってんだ」
「顔……?」
アリファーンが首を傾げると、焚き火にくべた薪がパチ、と弾けた。
「はぁ、重症だな。ブロンテ、水場に連れてってやれ」
ブロンテが焚き火の反対側で跳ね起きる。彼は慌てて毛布をたたむ。
「う、うん」
「な、いいわよ、哨戒はどうするのよ!」
いまは国境へ撤退する友軍を援護する任務の真っただ中。アリファーンは抗議するが、ヴァンは小さく片手を振った。
「オレが代わりにしとく。まずはそのみっともねぇツラどうにかして来い」
ヴァンはそう言い残すと、火のそばでライフルの整備を再開した。カチリ、カチリと器用に工具を回す音が夜気に溶ける。
——結局、押し切られる形でアリファーンはブロンテと並び、渓流へと向かった。草露が裾を濡らし、夜虫の羽音が絶え間なく耳をくすぐる。
浅瀬に着くとアリファーンは腰を下ろし、割れた月が浮かぶ水面を覗き込んだ。
(……うわ、酷い顔)
水鏡に映った自分へ苦笑する。皮膚はこびりついた土埃がひび割れのように浮き上がり、隈は煤でさらに濃くなっていた。
「だからヴァンのやつ、気を回したのね」
アリファーンは両手で水を掬い、ばしゃりと頰へ押し当てた。冷気より、胸の奥のむず痒い焦りのほうが痛い。
「……隊長……無事、よね?」
水滴を払いつつ夜空を見上げて呟く。
声は風にさらわれて消えそうなほど小さなものだったが、それでも木立の側で見張っていたブロンテの耳に届いたらしい。
「た、隊長なら、きっと大丈夫……だと思うよ」
振り返ると、ブロンテが両手を胸の前で握りしめていた。感情を包む大楯のような手は、言葉の裏でわずかに震えている。
「そう信じたいけれどね。通信の魔道具も記章も沈黙したまま。心配するなってほうがおかしいのよ」
「う、それは、そうなんだけど……。エレノアさんも一緒だろうし、どんな状況でも、隊長ならなんとかしちゃうんじゃないかなって」
「エレノアが一緒なのが、一番心配なのよ!」
思わず語気が跳ねる。水面が波紋を広げ、月を歪めた。冷えた夜気のなかで吐く息が、妙に熱い。
「あの子は、昔の隊長に似ている。目的のために手段を選ばず、他人に無関心で、力を振るうことに躊躇ないところが……昔の彼に、重なるのよ」
罪と後悔を背負って折れかけたナイトを、アリファーンは誰より近くで見て来た。
「隊長は絶対にあの子を見捨てない。自分のようにならないようにって守ろうとする。自分が傷つくことを厭わず——」
それが腹立たしいと同時に羨ましくも思う。
ぎゅっと両手を握りしめると、ブロンテがぽつりと漏らす。
「……アリファーンは、隊長が、す、好きなんだね」
「——っ!」
頬の温度が跳ね上がる。月光が容赦なく赤みを晒すようで恥ずかしくなり、視線を逸らした。
一瞬の沈黙。虫のさざめきと、木の葉を揺らす風の音が吹き抜ける。
「そうよ、悪い?」
アリファーンは濡れた指先で、開き直るように髪をかき上げた。
「う、ううん。いいと、思う。カッコイイもんね、隊長。弱い、戦えないってよく言ってるけどさ、誰よりも強くて、カッコイイとボクは思ってる」
ブロンテの素朴な言葉に、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
「ブロンテは、出自で差別されていたところを隊長に助けられたんだったわね」
「……うん。ボクの母さんが、王国民だから……。あの時の隊長は、ボクにとってヒーローだったよ」
ブロンテは拳を胸に当て、遠くの焚き火を見つめた。そこに重なる夜空の黒が、僅かに揺らいでいる。
「アリファーンは、隊長が元帥の参謀を務めていた時からの、付き合いなんだよね?」
「ええ」
川面に再び視線を落としながら、アリファーンは脳裏に遠い記憶を引き寄せる。
孤児院の庭。ヒュドールの偽善的な演説。そしてその後ろに立っていたのは、長い銀髪を輝かせる無愛想な軍服姿の青年。
子ども心にあっさり陥落した。
(私は、彼に一目惚れした)
見た目に惹かれたのは言うまでもない。
影のある翡翠色の瞳は大人っぽさを感じさせ、冷徹なところは冷静で落ち着きがあると思えて、魅力的だった。
軍に入ったのは恋心半分、才能を試すのが半分。だが今は──ただ生かされた恩を返したいと思っている。
(間諜の疑いをかけられた私を、彼は救ってくれた)
思い出は甘さも苦さも含んで胸を締めつけるが、それらはすべて生を実感させる大切なものだ。
背後で渓流がさらさらと石を転がす音が響く。アリファーンは掌で跳ねる水をすくい、最後にもう一度目元を撫でた。
「……探すのをやめる気はないわ。ヴァンには悪いけれど」
「ボクも手伝うよ。ヴァンもきっと、文句を言いながら付いてくる」
「そう。頼りにしてるわ」
ブロンテと話したことで、緊張の糸が少しほぐれた気がする。
アリファーンは唇にうっすら微笑を浮かべた。
「……行きましょう。長居してまたヴァンを怒らせる前にね」
「う、うん!」
アリファーンとブロンテは、足音を潜めて野営地へ戻っていく。夜空には雲の切れ間から星が覗き、天頂で静かに瞬いた。
その灯をどこかでナイトも見ている——そう信じ、アリファーンは疲れたまぶたを瞬いた。




