狂う程の恋心を利用出来たとしたら
悪役令嬢の恋心って相手を変えれれば有効活用出来ないかなーと思って書きました。
無駄に長くなってしまった……。
ゆるふわ世界観なので、ゆるふわでお読みください。
11/5追記 誤字報告ありがとうございます。大変助かります。
「ローズマリー、君がそんなことをするなんて思わなかった。……正直見損なったよ。前から言っているだろう。カナリアとは友人として仲良くしているだけだと」
「ですが、エドガー様! あまりにも距離が近すぎます!! 婚約者として、私が忠告することの何が問題なのですか!!」
「言い訳は聞きたくない。ごめんね、カナリア。怪我はなかったかい?」
「あ、わ、私……大丈夫です。でも少し怖かった……」
「僕が来たからにはもう大丈夫だ。ローズマリーには手を出させないよ」
力なく地面に座り込み、潤んだ目で男を見上げる儚げな美少女と、その手を優しく取り、微笑んで助け起こす精悍な美青年。まるで絵画のような、美しく完成された風景だった。
そこから弾き出されるように、気の強そうに目尻がつり上がった豪奢な美女がその二人の前に佇んでいる。憎々しげに二人を見つめる視線は悪役そのものだ。
周りの者達は物語のワンシーンのような光景に色めき立ち、盛んに噂話をしている。
(まぁ、王太子殿下のあの顔、やはりご寵愛はカナリア様にあるのだわ。まぁ、ローズマリー様は、ねぇ。とてもしっかりしておられるから、癒しを求められるのも仕方ないわね)
(見て、ローズマリー様の表情。なんと恐ろしいこと。本当に国を慈しむ王妃になれるのかしら。もう少し寛容さを持つべきではございませんこと?)
(カナリア嬢は本当に可憐だな……。あんなに震えて可哀想に。王太子殿下が守りたくなるのもわかるよ)
(ローズマリー嬢の悋気は些か強すぎるのでは? 仮にも王族に連なる予定ならもう少し自分の感情の制御位身に付けた方がいいと思うがね)
王太子達には好意的な、ローズマリーには批判的な、そんな噂話はあっという間に広まることだろう。
さらに表情を険しくするローズマリーの、その華奢な両手が血が出る程に握りしめられているのは誰も気付かなかった。
「最近の貴方の態度、噂、全て思わしくなくてよ、ローズマリー」
「申し訳ございません……」
ローズマリーは王妃に呼ばれ二人だけでお茶会をしていた。
扇で隠しながら軽く息を吐く王妃は、成人間際の息子がいるとはとても信じられない程に若々しく美しい。
緩く巻かれた金髪を複雑な形に結い上げ、少しだけ垂れる後れ毛をかき上げる仕草は、その美貌を見慣れているローズマリーさえも一瞬息を呑んだほど妖艶だった。
対するローズマリーは侍女達に丁寧に世話をされているというのに、窶れてしぼんだ雰囲気を誤魔化せていなかった。酷い隈が出来ているせいで濃い化粧に、身体の薄さを誤魔化すためにフリルでボリュームを持たせたドレスがどことなくミスマッチで、ちぐはぐな印象を受ける。
何より本人の雰囲気が重苦しい。まるで切れる寸前の弦のように張りつめていて、近くにいるだけで息苦しさを感じる程だった。思いつめたように固く引き結ばれた唇に厳しく吊り上がった眉は、見るものにあまりいい印象は持たれないだろう。
お茶会だというのに儀礼的に少し茶に口をつけただけで、お菓子には手を伸ばすこともないローズマリーに、王妃は困ったように柳眉を寄せた。
「公爵令嬢が婚約者に近寄る男爵令嬢に何をしても問題はないわ。でもね、王妃候補が寵姫候補と目される存在に手を出す、となると話は全く変わってよ。賢い貴女なら勿論わかっているでしょうけれど」
「おっしゃる通りです」
「ねぇローズマリー、エドガーは貴女が子を生せなかったり、政治上の都合などで側妃を持つ可能性もあってよ。王妃たるもの、そういった時には毅然とした態度で対応しなければならないの。貴女はそういった教育を受けてきたでしょう?」
「はい、その通りです」
王妃が何を言っても俯きがちに答えるだけのローズマリーに、王妃はまたそっと息を吐いた。
チラリ、と目配せすると、周囲にいた侍女や侍従が一斉に下がる。護衛だけは離れなかったが、王妃が扇を振ると渋々ではあるが何かあったら駆け付けられるギリギリの位置まで下がった。
王妃は自ら椅子をローズマリーの横まで動かし、驚くローズマリーの手を優しく握った。
「さぁ私の可愛いローズ、今は二人きりよ。流石に護衛までは下げられないけど、私の信頼する者だもの。見聞きしたことは絶対に話さないわ。安心してお話してよくってよ。……辛かったでしょう」
優しい言葉に、ローズマリーの涙腺は容易く決壊した。
ポロポロ涙を零すローズマリーを隠すように、そっと王妃が抱き締める。
優しく背中を撫でられ、さらに涙が溢れるのを必死にハンカチで押さえる。化粧が剥げてしまう、とどこか冷静な自分が呟いたが、もう止めることは出来なかった。
「エリザベート様、わ、わたくし、どうすればよかったんでしょうか。エドガー様が好きなのに、大好きなだけなのに……」
それ以上は声にならず、ただ泣くだけのローズマリーを王妃――エリザベートは優しく抱きしめながら自らのハンカチで涙を拭ってあげた。
結局ローズマリーが泣き止んだのは、二人共ハンカチがすっかり駄目になった後だった。
「泣いて喉が渇いたでしょう? どうぞお茶を召し上がって。すっかり冷めてしまったけれど、飲みやすくて丁度いいわ。お菓子もお食べなさいな。ローズの好きなものばかり用意してよ」
優しく微笑みながらエリザベートは手ずからお菓子を取り分ける。
恐縮しながらお茶を飲んだローズマリーは、身体が水分を欲していたのか一気にカップを空にしてしまった。お菓子も本当にローズマリーの好物ばかりで、特に大好きな茶葉を練り込んだクッキーに手を伸ばす。強張っていた体にその甘さが染みるようで、ほっと息をついた。
「エリザベート様、申し訳ございません。お見苦しいところをお見せしました」
「あら、私は可愛いローズが甘えてくれて嬉しいのよ? 貴女は頑張りすぎてしまうところがあるから、たまには息抜きしないと」
ニコニコ微笑むエリザベートに、そっと微笑みを返すローズマリー。
思えば笑ったのなんていつぶりだろうか。最近はずっとピリピリしていたから、そんな余裕はなかった。食べ物の味を感じたのも久しぶりかもしれない。
少し表情が明るくなったローズマリーの皿にまたエリザベートがお菓子を取り分け、紅茶まで注ごうとしたのでローズマリーが慌てて自分でお代わりを注ぐ。しばらくして、ほとんど紅茶とお菓子が無くなった頃、ようやくローズマリーは冷静さを取り戻した。
「王妃様、重ね重ね非礼を働き申し訳ございませんでした。処罰は如何様にもお受けします」
「もう、また堅くなってしまったわね。ローズ、この場は私と貴女だけしかいなくてよ。可愛い娘と楽しくお茶をしているのだから、もっと気楽にしてほしいわ」
茶目っ気たっぷりにウインクするエリザベート。
物心つかない頃にエドガーの婚約者として決められ、それからずっと王城で教育を受けてきたローズマリーを、エリザベートは実の娘のように可愛がり、時に厳しく育ててきた。
お互いに愛人の家に入り浸っていてほとんど顔を合わせることもない両親より、ローズマリーはたっぷりと愛情を注ぎ可愛がってくれるエリザベートによくなついた。本当の親になる日をずっと楽しみにしていたというのに、今のままではそれが叶わないかもしれない。
そう思うとまたじわりと涙が滲んでしまう。
「エ、エリザベート様、私、私……」
「落ち着いてローズ。ゆっくり息を吸って、吐いて……、そうよ、上手ね、いい子」
エリザベートにゆっくり背中を撫でられ、ローズマリーは少し落ち着いた。
不安げにエリザベートのドレスの裾を掴むローズマリーの手を優しく握り、エリザベートはにっこり微笑んでみせる。
「大丈夫よ、可愛い私の野薔薇ちゃん。私は貴女の口から何があったか聞きたいの。話してくれるわね?」
その顔に、ローズマリーはすべて知られていることを悟った。
当たり前だ。将来の王妃となるローズマリーにはプライベートなどほとんどない。それでもローズマリーの口から聞きたいということは、言い分を聞いてくれるということだろう。
どうしてこうなってしまったのか。また涙が滲みそうになるが、流石に何度も涙に逃げるのはローズマリーのプライドが許さなかった。
エリザベートの手を縋るように掴むと、エリザベートもしっかり握り返してくれる。
それに勇気づけられたローズマリーは覚悟を決め、話し出した。
ローズマリーは公爵家令嬢として生を受けた。
公爵家には既に優秀な長男やスペアの次男がいた。政略に使う女児も何人かいて、これ以上子を持つ必要はなかった。
では何故ローズマリーが産まれたかといえば、その時期に王家の第一子ーーエドガーの懐妊が発表されたからだ。王家と縁を繋ぐまたとないチャンスに貴族たちは一斉に子どもを作った。ローズマリーもその内の一人だったということだ。
他の公爵家に令嬢は産まれず、有力な侯爵家にも年の近い子はいなかった。つまり、産まれた時点でローズマリーの進む道はほとんど決まっていたのだ。
ローズマリーは物心つく前からずっと王妃となる令嬢として育てられた。周りの者は皆ローズマリーという幼子としてではなく、次期王妃として接してきた。
当然教育もほとんど虐待のように厳しく叩きこまれ、特に礼儀作法は少しでもぎこちない動きをすれば鞭で打たれた。結果として、ローズマリーは初めて王城にあがる五歳の頃にはすっかり表情を失い、人形のような少女となっていた。
ローズマリーは今でも王城に初めて行った日を鮮明に覚えている。
それまでローズマリーの日常は灰色だった。痛いこと、嫌なことを沢山されて、涙を零そうものなら更に怒られ痛いことをされる。周りもそれが当然と助けてくれないから、ローズマリー自身もこれは仕方のないことなのだと思い生きてきた。
痛いのは嫌だから言われた通りに動く。感情を出すのははしたないと言われ叩かれたから表情は動かさない。教え込まれた動きと教え込まれた言動以外をすれば鞭で打たれたからそれ以外はしない。
ずっとそうしていたから、ローズマリーの自我は消えさる寸前だった。いつも満足に息も出来ず、暗い水の中一人取り残されたようで、それが苦しいということすらも理解出来ていない哀しい存在。それがローズマリーだった。
王城に行く前日には王子に気に入られるように言い聞かせられ、いつもより厳しく礼儀作法を叩きこまれた。美しい動きが出来るまで何回も何回も繰り返し礼をさせられ、疲労困憊になっても言われた動きが出来るようになってやっと及第点だと言われた。
「はじめまして、僕はエドガーと言います。君が僕と結婚する人? 嬉しいな、会うのを楽しみにしてたんだ!」
だから、王城に行って言われた通りの動きをしているローズマリーの手を笑顔で取ってくれた王子様は、一瞬で世界を塗り替えた。
今までローズマリーに笑いかけてくれた人はいなかった。周りは皆無表情か怒った顔が当たり前だった。
世話をされる時に体に触れられることはあったけれど、それだって最低限で、鞭が触れる方が多かった。温かい手で優しく手を握られるのは初めてのことだ。
エドガーと出逢ったその瞬間、世界が一気に色づき、ローズマリーは初めて呼吸が出来た気がした。
衝撃のあまり今まで覚えたことがすべて吹っ飛び狼狽えるローズマリーの手を引き、エドガーはお気に入りの庭園を案内してくれた。
美しい花の咲き乱れる庭園は、今まで知識としてしか知らなかった花の美しさ、かぐわしさをローズマリーに教えてくれた。花の一本一本に細かな違いがあり、その色も千差万別だということをローズマリーは初めて知った。エドガーが手ずから摘んで贈ってくれた白百合は、押し花のしおりにして今でも残っている。ローズマリーの宝物だ。
しばらく色々な場所を見て回った後、可愛らしいガゼボで休憩がてらお茶をした時はエドガーにマナーを褒められ、初めて今までの教育に意味があったのだと知った。
品よくお菓子を口に運ぶローズマリーをすごいすごいと無邪気に褒めてくれるエドガーに誇らしい気持ちになった。
帰る時にはあまりに離れがたく、久しぶりに涙を零してしまった。それを拭い、また会おうと約束してくれたエドガーのなんと優しいことか。ローズマリーの胸はきゅうっと締め付けるように痛いのに何故かとても温かかった。
帰った後完璧に出来なかったことで折檻され、食事抜きで部屋に閉じ込められたがどうでもよかった。ローズマリーは初めての感情に夢中になった。
それからローズマリーは今まで以上に勉強に励んだ。今まで嫌なことをされたくないからやっていただけだった勉強は、エドガーの横に立つための手段に変わった。目標があるだけで辛さが全く違い、身につける速度まで見違える程早くなった。
教師が変わったのもよかったかもしれない。王城で王妃直々の教育を受けている時に鞭の痕に気付かれ、王妃はより質の高い教育のためという名目で名高い教師達を派遣してくれた。公爵家もそれを受け入れ、今までの教師はいなくなったのだ。
王妃に紹介された教師は厳しくはあるがきちんとローズマリーを尊重してくれ、進みが悪いからと鞭打つことなどしなかった。ローズマリーが優秀な生徒なのもあり、褒めてくれることさえあったのだ。
それもこれも、すべてエドガーとエリザベートのおかげだ。ローズマリーは二人に深く感謝した。
王妃教育の為に登城する度に、エドガーとローズマリーはお茶をしながら話し込み、じゃれあいながら散策し、仲を深めていっていた。そんな日々に、ローズマリーの中の恋心は自分でも止められない位にどんどん大きくなっていった。エドガーの為ならなんでも出来るし、実際に出来ることはなんでもした。一等美しく出来た刺繍も、一際上手く出来た詩も、すべてエドガーに捧げた。ローズマリーの一番はいつだってエドガーのものだった。エドガーも喜んでくれていたと思う。……最初のうちは。
エドガーの優しい笑顔が消えたのはいつだったか。ローズマリーには思い出せない。
次第にエドガーと会う機会は減っていった。ローズマリーが来たらいつだってエドガーが会いに来てくれたのに、その頻度はどんどん減っていき、ついには無くなった。
しかしローズマリーの方から会いに行けば無下にされることはなかった。忙しいからと時間こそ短かったが、それでも会ってはくれていた。だから、忙しいのだからしょうがないとローズマリーは無理矢理納得した。違和感には気付かないことにしたのだ。
二人の関係は少しギクシャクしたまま、エドガーは一歳年上だったため一足早く王立学園に入学した。
益々会える時間が減ってローズマリーはとても寂しかったが、一年の辛抱だと我慢した。
待ちに待った入学式の日、ローズマリーはエドガーにエスコートされとても幸せだった。
心からの笑顔で話しかけるローズマリーに対してエドガーの笑みは儀礼的なものだったが、その温度差に気付かない程に幸せだった。
ーー花びらが舞い散る中、儚げに佇む少女と出会うまでは。
その日は風が強かった。
一際強い風が吹き、ローズマリーは必死に乱れる髪とスカートを押さえていた。
大丈夫かと声をかけてくれたエドガーが不意に停止する。その視線の先を見て、ローズマリーは息が止まるのを感じた。
花びらがふわりふわりと少女の周りを舞い踊る。
柔らかな淡い金髪が風に纏わりつかれ、サラサラ淡く光を反射しながら流れる。
そっと髪を押さえる手はひどく華奢で、爪の先まで整った形をしていた。
ふと気付いたようにこちらを振り返ったその顔は愛らしく整っていて、大きなエメラルドグリーンの垂れ目が儚げな印象をより強くしていた。
妖精だと言われれば信じてしまいそうなほど、その少女は可愛らしかった。
ドクドクと心臓の鼓動が聞こえる。ローズマリーは血の気が引いていくのを感じた。
美少女というだけであれば、別にローズマリーはここまで動揺しなかった。貴族には美しい者はいくらでもいるし、ローズマリー自身かなりの美少女だ。この少女にも負けないくらいに。
なら何故動揺しているか。ーーそれは、横にいるエドガーがその少女から目を離さないからだ。
ローズマリーのことなど忘れてしまったかのように、エドガーは少女を一心に見つめている。
その瞳が恋するものだということが、ローズマリーにはわかった。わかってしまった。
幼い頃からずっとエドガーだけを見てきたのだ。そんな彼の変化に気付かないはずがない。
いつの間にか手はほどかれていた。エドガーはその少女の方に歩み寄り、髪についた花びらを取って微笑む。
少女も一瞬驚いた後、照れたように微笑み返す。その愛らしさにエドガーの頬が赤く染まった。少女の方も、エドガーに見惚れたのかチラチラ見上げては頬を染めている。
何かを話しながら、二人は自然に寄り添いながら歩き出した。
柔らかな光に包まれ初々しく頬を染めながら話す二人。それはまるで絵画のように美しい光景だった。
置き去りにされたローズマリーは、呆然としながらただ二人を見送るしかなかった。
それからの日々はローズマリーにとって地獄だった。
一瞬でエドガーの心を奪った少女――カナリアは、ローズマリーと同じクラスだった。
成績優秀者だけで構成されたそのクラスに当たり前のようにいた少女に、ローズマリーは動揺を悟られないようにするので精一杯だった。
ローズマリーを迎えに来たエドガーがカナリアを見つけ、一瞬で頬を染めそちらに向かうのを見せつけられた時には、溢れる感情を抑えきれずについ睨みつけてしまった。
庇うようにカナリアを背中に隠したエドガーにその背中を縋るように掴むカナリア、そして、その二人を憎々し気に睨みつけるローズマリー。それを多数の生徒に目撃されたせいで、三人の学園内での立ち位置が決まってしまった。
元よりエドガーは気さくで人気があった。金を紡いで作ったような輝く金髪に、王家特有のロイヤルブルーの瞳。繊細に整った顔立ちのまさに絵本から飛び出したような王子様で、男女問わず人気があったがその中でも女性人気は凄まじいものだった。
そんなエドガーの婚約者は冷たい銀髪に氷のような蒼い瞳をした、整いすぎてまるでお人形のような公爵令嬢。だがその表情は常に厳しく、親しみやすいエドガーとは真逆だった。そんな彼女がエドガーが好意的に接している愛らしい少女を睨みつけているのだ。
その姿はまさに恋愛小説に出てくる悪役令嬢だった。
ヒロイン役であるカナリアが弱々しく愛らしい、庇護欲をそそる令嬢であることも後押しした。
生徒達は恋愛小説のような状況に沸き立ち、皆悪役であるローズマリーを嘲りエドガーとカナリアの恋を応援した。
……エドガーを諦めきれない令嬢たちは男爵令嬢であるカナリアをエドガーの寵姫にでも納め、それよりも上位である自分も側妃になろうと企んでいたし、男子生徒は公爵令嬢であるローズマリーを貶めることで自尊心を満たしながら、エドガーの味方をすることで覚えをよくして出世の足掛かりにしようと目論んでいるという、打算にまみれたものだったが。
そんな周囲の事はローズマリーにとってどうでもよかった。
大好きなエドガーが自分じゃない女に恋をし、自分には見せないような表情を見せている。
許せなかった。受け入れられなかった。
それからローズマリーは事ある毎に二人の邪魔をした。昼食時にエドガーがカナリアを迎えに来た時は婚約者であるローズマリーと摂るのが当然と主張しカナリアを遠ざけたし、カナリアにはエドガーに近づかないよう何度も何度も忠告し、所作や言動が少しでも覚束なければあげつらいチクチク嫌味を言って嘲笑ってみせた。
他のエドガーに近付く者達にも同じように牽制し、近寄ることを許さなかった。
エドガーには学園でも王城でもずっと付き纏い、事ある毎に自分にはエドガーだけと必死に訴えた。
そんな姿を皆馬鹿にし嘲笑った。エドガーも鬱陶しげにローズマリーをはねつけ、カナリアと一緒にいる時は護衛や側近に命じてローズマリーを遠ざけ、愛を育んだ。
愛しのエドガーが全く自分を見てくれない。それどころか邪魔者として疎まれている。さらに無様な姿は噂となり公爵家まで届いてしまい、公爵家の恥だと親兄弟に罵られ久々に鞭打たれた。ローズマリーの精神は限界だった。
だから、カナリアが優越感を隠しきれない瞳で憐れんできたときについ手を出してしまった。
ローズマリーは学園のエントランスでエドガーを待っていた。
その日は王妃とのお茶会の約束があり、王妃からローズマリーをエスコートするように言われたエドガーからそこで待つように言付けがあったのだ。
放課後すぐにエントランスに向かい、ソワソワと待つローズマリー。通りすがりの生徒達はそんな姿をクスクス笑い、何かささやきあいながら見てくる。そんな居心地の悪い空気もエドガーがくると思ったら気にもならず、ローズマリーはずっと待っていた。
どれくらい時間が経っただろうか。行き交う人もまばらになった頃、ようやくエドガーがやってきた。
パッと笑顔になるローズマリーだったが、その横にカナリアがいることに気付き一瞬で表情が消える。
「遅くなってすまないね、ローズマリー。カナリアと偶然会ってつい話し込んでしまった」
「申し訳ございません。ローズマリー様がお待ちだとは知らず、エドガー様のお時間をいただいてしまいました」
「……私、貴女にきちんと王太子殿下とお呼びするようお伝えしたと思ったのだけど」
エドガーの横に図々しくも居座り、馴れ馴れしく名前を呼んだカナリアをローズマリーは鋭く見つめる。怯えてみせるカナリアを庇うように、エドガーが背中に隠した。
「彼女は学友だし、僕が名前で呼ぶ許可を出したんだ。君に口出しされる筋合いはない」
「恐れながらエドガー様、みだりにそんな許可を出すべきではございませんわ。序列は守らなければなりません」
「……序列、ねぇ。なら僕に口答えする君は乱してないと言えるのかな?」
「私は婚約者として諫言しているのです。全く違うお話ですわ」
エドガーに冷たく睨まれ、ローズマリーの胸はひどく痛んだ。
確かに嫉妬もあるが、ローズマリーの言う事は間違っていない。エドガーとローズマリーは婚約者だが、カナリアとはまだ同じ学園に通っているという以上のことは何もないのだ。王家にも確認したが、側妃や寵姫とする話はまだ出てもいない。そんな状況で名前を呼ぶ許可など出すべきではないのに、どうしてわかってくれないのか。
なおも言いつのろうとしたローズマリーを制すように、カナリアがエドガーの背から前に出る。
震えながら立ち向かおうとするその姿は健気で勇敢で、あっという間に周囲の空気を味方につけるのを感じた。
「ローズマリー様、エドガー様のお気持ちをもう少し考えてあげてください。学友との交流は王になられるエドガー様にとって大事な事です」
「私はエドガー様とお話ししているのよ。控えなさい」
「いいえ、黙りません。このままではあまりにエドガー様がお可哀想です」
きっと睨みつけてくるカナリアに、ローズマリーの苛立ちが募る。
エドガーは何も言わず、ただ熱い眼差しでカナリアを見つめていた。ローズマリーも目の前にいるというのに、視界に入っていないようだった。
それを見て傷つくローズマリーに気付く者などいない。悪女に立ち向かう勇敢な少女に皆夢中だった。
「エドガー様は皆に気さくに声をかけてくださいます。エドガー様が色んな身分の者と話せる機会は早々ありませんから、学生時代だけの貴重な体験として交流を深めたいとおっしゃっていました。そういったエドガー様のお考えを尊重して、周囲との交流をローズマリー様もお手伝いなさるべきではないでしょうか。
……でも私、ローズマリー様も大変お気の毒だと思ってるんです。私でも知っているエドガー様のお考えも教えてもらえず、逆の行動ばかりなさって遠ざけられているんですもの。本当に、お可哀想……」
いつの間にかローズマリーの近くに寄ったカナリアが、最後だけ囁くように告げる。小さなその声はきっとローズマリーにしか届かなかっただろう。
潤んだ瞳を、カナリアはそっと細める。その瞳には、愚かな女への憐れみと、隠し切れない優越感が滲み出ていた。その姿だけを心配そうに見つめるエドガーが視界に入り、ローズマリーの怒りが一瞬で今までにないほど燃え盛る。
「……ッ馬鹿にして!!」
パン、と、鈍い音が響く。激高したローズマリーがカナリアの頬を打ったのだ。
きゃっと悲鳴をあげたカナリアがよろけて尻もちをついた。ローズマリーはジンジンと痛む手を呆然と見つめる。今まで誰かに暴力をふるったことなどなかったのに、咄嗟に手が出てしまった自分が信じられなかった。
「カナリア、大丈夫か!?」
即座にエドガーがカナリアに駆け寄った。周りは心配そうにカナリアを見ながら、ローズマリーには冷ややかな視線をおくる。
助け起こされたカナリアは可憐に涙を零しながらエドガーの腕にすがりついた。
エドガーはカナリアには安心させるように優しい笑みを向けたが、一転してローズマリーのことは怒りが滲んだ目で睨みつけた。
「ローズマリー、君がこんなことをするだなんて思わなかった。……正直見損なったよ。僕の学友に手をあげるなんて、何を考えているんだ」
「ですが、エドガー様!」
「言い訳は聞きたくない。ごめんね、カナリア。怪我はなかったかい?」
「あ、わ、わたし……大丈夫です。でも少し怖かった……」
「僕がついていながらすまなかったね。でも、もう大丈夫だ。ローズマリーにはこれ以上手を出させないよ」
エドガーは優しくそういうと、カナリアを抱き上げ歩き出す。
周りからの非難と嘲笑を一身に受け、何よりエドガーを怒らせてしまったことにローズマリーは心が凍りつくようだった。
その後王妃に言いつけられていた馭者がローズマリーを迎えに来て、ボロボロの心のままこのお茶会に来ていた。
話しながらまた泣きだしてしまったローズマリーの背を優しく撫でながら、エリザベートは優しく話しかける。
「そう……。手を出すのはよくないけれど、エドガーはあまりに貴女を蔑ろにしすぎね。一度私からも言っておくわ」
「お、おやめください。わたくしがいけないのです。エドガー様が他の人を大事になさるの、本当はカナリアさん以外でも嫌なんです。側近の方達もずっとお側にいられることに嫉妬して、冷たくしたこともあります。わたくしが、私が自分の心に振り回されているのがいけないのです……」
ローズマリーもここまでくればエドガーに疎ましがられているのを自覚していた。
思えば、今までカナリアに向けるような愛しい者を見る目を向けられたことはない。気付いた時には儀礼的な笑みと態度であしらわれていた。
自覚してしまえばエドガーがローズマリーを疎ましがっているなんてわかりきったことで。
でも、ローズマリーの心はそれでもエドガーの事が大好きだと叫ぶ。彼の側にいるのは自分だけでいいと、邪魔者はすべて排除してしまえと吠えるのだ。
王妃としてそんなことではいけないと頭ではわかっているのに、カナリアのことだって受け入れて微笑んでみせるのが求められている姿だと理解っているのに、どうしても心は反発してローズマリーの行動を縛る。
ローズマリーの内のほとんどを占めるのはエドガーへの恋心だ。あまりに深く熱く激しい恋心は、ローズマリーの全てを灼き尽くしてしまいそうなほどで、制御することなんて出来ない。いつだってローズマリーはそれに振り回されていた。
「苦しいです、エリザベート様。私、エドガー様のお邪魔になりたくないのに。立派な王妃として横に立ちたいのに、このままじゃ出来ません……」
「えぇ、えぇ、苦しいでしょう。悲しいでしょう。愛しているのに愛されない苦しみ、よくわかるわ……」
「エリザベート様……?」
実感の籠った重い言葉に、ローズマリーは不思議そうにまばたきする。その拍子にコロリと転がった涙を優しく拭ってやりながら、エリザベートは遠い目をした。
「私もかつてはそうだったわ。陛下は私がどれだけ心を、全てを捧げてもこちらを見てすらくれなかった……」
昏い瞳の奥、一瞬憎しみが煌めいた気がした。
見たことのないエリザベートの様子にローズマリーが固まるが、優しく撫でる手はいつも通りで、緊張はすぐにとけた。驚きのあまり涙も止まり、おずおずと見上げてくるローズマリーに、エリザベートはにっこりと微笑んでみせた。
「ねぇ私の可愛いローズ、とてもいい方法があるの。大丈夫、私もやっていただいた方法よ。とても心が軽くなって、どうしてもっと早くやらなかったのかと後悔した程なの」
その言葉はとても甘美で、まるで悪魔の囁きのようだった。
縋るように見つめるローズマリーに、エリザベートの笑みはさらに深く、美しくなる。
「ローズ、恋心は悪いものではなくてよ。ただそう、貴女は今使い方を間違ってしまっているだけなの」
「た、正しい使い方があるのですか?」
「えぇ、大丈夫、私を信じて、任せてくれる?」
「……はい、エリザベート様」
こくりと頷いたローズマリーはもう疲れ切っていた。エドガーへの恋にも、冷たい周囲にも。
唯一ローズマリーをずっと気にかけてくれていたエリザベートが薦める方法なら、たとえどんな結果になっても後悔しないような気がした。
そんなローズマリーを、エリザベートは優しく抱き締める。その胸の温かさに、ローズマリーは静かに目を閉じた。
ローズマリーがぼんやりしている間にエリザベートが手を回してくれたらしく、王城の奥深く、王族のプライベートな空間に連れていかれる。ローズマリーでさえ入ったことのないところだったが、もうどうでもよかった。糸が切れたように全身に力が入らず、何も考えられない。
まるでお人形のように、ローズマリーはエリザベートに導かれるままにただ歩き続けた。
気付けば護衛も侍女もおらず、エリザベートとローズマリーの二人きりになっていた。
「この先は秘密の空間なの。エドガーも知らなくてよ。私が連れてきたのはローズマリーが初めてだわ」
いたずらっぽく微笑みながらそう言うと、エリザベートはどこからか出した鍵を壁に差した。するとそこに先ほどまでなかったはずの扉が現れる。驚くローズマリーの手を握りながら、エリザベートはその隠し扉を開け、中に入った。エリザベートに手を引かれて、ローズマリーも恐る恐る中に入る。
そこは王城の中とは思えないほど、雑然とした場所だった。天井にはおびただしい量の干された草や花が吊り下げられ、独特な香りが漂っている。よく見れば一部が光っており、照明の役割を果たしているようだった。
壁はすべて棚で埋め尽くされている。その中には所狭しとローズマリーでも初めて見る言語で書かれた本や鉱物などが押し込められていて、今にも崩れてしまいそうだ。
机や床の上にもよくわからない物や本が溢れ返っていて足の踏み場もない。
そんな中を慣れたようにスイスイ歩くエリザベートは何度もここに来たことがあるのだろう。その後をローズマリーは覚束ない足取りで追いかけた。
「リリス、いらっしゃるかしら? ご相談がありますの」
「……おや、久しぶりだねエリザベート。そちらのお嬢さんは……。ははん、そういうことかい」
「あら、もうご存じなのね。話が早くて助かりますわ」
エリザベートが声をかけると、奥からのそりと誰かが出てきた。
しゃがれているような深い響きのような、不思議な声の人だった。夜のように黒いローブを纏っているせいで容姿はほとんどわからない。目深に被られたフードからちらりと覗いた瞳は金色に輝いていて、ローズマリーは目が合っただけで何もかも見透かされたような気がした。
震えそうになるのを矜持で押し込め、指先まで整えられた美しい礼をしてみせる。
「お初にお目にかかります。私、ローズマリーと申します」
「おや、肝の据わったお嬢さんだね」
「私の跡を継いで王妃になる子ですもの」
誇らしげに微笑むエリザベート。それを見て少し嬉しそうに笑うローズマリーに、ローブの人物は古式ゆかしい礼を返してみせる。
「はじめまして、あたしはリリス。しがない魔女さ」
「魔女、ですか……?」
昔々、人々は魔法という不思議な力を使えたという。
どんなことでも出来たという魔法を、今の人々は扱えない。ほとんど御伽噺のようなものだ。
一部その魔法が使える人が生き残っていて、その人達は魔女や魔法使いと呼ばれているという話を聞いたことはあったが、実物を見るのはこれが初めてだった。
驚きに目を見開くローズマリーを、魔女――リリスは楽しそうに目を細めて見つめる。
「えぇ、リリスは建国時からずっとこの国に仕えているのよ。代々王妃の善き相談相手をしていただいているの」
「王妃の……」
「むさっ苦しい男なんざごめんだからね。あたしは可愛い女の子しか相手にしないと決めてるんだ」
「ふふ、この通りリリスは男嫌いなの。でも本当に頼りになってよ。ローズマリーの悩みもすぐに解決するわ」
クスクス笑いながらそういうと、エリザベートはローズマリーの背中を押して自分は後ろに下がる。所在なさげに佇むローズマリーにリリスはおもむろに近づくと、目を覗き込んだ。
夜闇の中の月のように、金色に光る瞳が全てを暴くように見つめてくる。逸らさない様にするのが精一杯だった。
一瞬のような永遠のような時間が経ち、不意に目が逸らされる。ローズマリーは無意識に詰めていた息を吐いた。
「予想はしてたけど、やっぱり原因は恋心かい。まったく、王家の人間に恋なんざするもんじゃないってのにどいつもこいつも……。
まぁいい。お嬢さんの恋はかなり根深いね。心の大部分、それも大事なとこを占めているから消すのはオススメしない。廃人になっちまう」
「恋心を、消せるのですか?」
今も荒れ狂いローズマリーを苦しめ続けるこれを消すことが出来るのか。驚くローズマリーに、リリスは事もなげに頷いてみせた。
「魔女に出来ないことはあまりないからね。まぁでも言った通りお嬢さんが廃人になっちまうから頼まれてもやらないよ」
「そんな!」
解決策が見えた気がしたのに一瞬で取り上げられ、ローズマリーは絶望に目の前が真っ暗になるのを感じた。
ふらり、と倒れそうになるローズマリーを支えながら、エリザベートが困ったように眉を下げる。
「もうリリス、可愛いローズにあまり意地悪をしないでちょうだい。限界だからこそここに連れてきたのよ?」
「意地悪のつもりはなかったんだが……。まぁいい。薬の準備はすぐ出来るから、エリザベートが説明しておいてくれるかい」
「えぇ、よろしくてよ」
エリザベートが頷いたのを見て、リリスは部屋の奥にある棚に向かった。その棚だけは綺麗に整理されていて、ガラス瓶に入った液体達が並べられている。
エリザベートはローズマリーを近くのソファに座らせ、優しく背を撫でた。
「ねぇローズ、貴女を苦しめる恋心は、何故苦しいのだと思う?」
「私が至らないからです」
「もう、そうじゃなくてよ。大事な質問だからちゃんと答えて。本当は、わかっているのでしょう?」
俯くローズマリーを覗き込んだエリザベートの瞳は偽りを許さない、王妃の瞳だった。
ローズマリーは無意識に手を握り視線を彷徨わせたが、やがて観念したように息を吐いた。
「……私が一方的に想うだけだから、です。エドガー様は私のことなど見てもないとわかっているのに。それでも、想いを返していただけないから、苦しいのです」
もしエドガーが想いを返してくれていたら、ここまで苦しむことはなかっただろう。
ローズマリーの頑張りを想いを認め、同じように返してもらえたなら、どんなに幸せだっただろうか。だが、エドガーは別の人と恋に落ちた。報われない恋心が暴れるまま嫉妬に狂ったローズマリーはずっと苦しかったのだ。
「そうよローズマリー。愛してくれない人に捧げる愛程、無駄なものはなくてよ。でも恋する人は自分で選べない。不自由だと思わなくて?」
「……はい」
「もし自由に出来るなら、それはとても素晴らしいことだと思わない?」
「…………はい」
こくりと頷いたローズマリーに、いつの間にか寄ってきたリリスが小瓶を手渡す。
中にはキラキラ輝きながら次々と色を変える、不思議な液体が入っていた。ローズマリーは魅入られたようにその小瓶を見つめる。
「エリザベートは話が迂遠すぎるね。もう出来ちまったよ」
「心外だわ。心の準備には必要なことよ」
ため息をつくリリスに、エリザベートは少し拗ねた顔をしてみせる。
その顔を見て再度息を吐き、リリスは小瓶を見つめ続けるローズマリーに向き直った。
「まぁいい。話の流れでわかっているかもしれないが、それは恋する相手を変えられる薬さね。変えたい相手を思い浮かべて飲むんだよ」
ローズマリーはぼんやりと小瓶を眺める。
キラキラキラキラ、輝きながらその色を青から赤、紫から緑へと変え続ける薬にそんな効果があるなんてとても信じられなかった。
美しいその薬を見てエリザベートは懐かしそうに目を細める。
「効果は私が保障します。飲めば少しだけ眠ってしまうけれど、起きた後はまるで生まれ変わったような心地になってよ」
エリザベートはローズマリーの耳元で、とっておきの秘密を告げるように囁いた。
「……私は想う相手を自分に変えたわ。想いの分だけ返してくれるし、自分を磨けば磨くほど、想い人が輝くのですもの。とてもやりがいがあって、楽しくてよ」
「エリザベートも情が深いからね。相手に尽くすタチだから、ぴたりとはまったんだろうよ」
エリザベートの美貌の秘密はそこにあったのか、とローズマリーは驚いて顔をあげた。
目が合ったエリザベートが微笑む。その笑みには愛し愛される輝きが確かに宿っていて、自信に満ちていた。
エリザベートは恋心の使い方が間違っていると言っていた。きっと彼女は恋心を使い自らの価値をあげることを選んだのだろう。実際彼女はその美貌とセンスから国民人気も高く、貴族からの支持も厚い。特に同世代やその上の世代からは絶大な人気を誇り、中には女神のごとく崇める者までいるほどだ。
ローズマリーはぼんやりと考える。自分の中にある恋心は確かに凄まじい熱量を秘めている。今まで身につけたことも、思えば原動力としてエドガーへの恋心があったものばかりだ。上手く使えばエリザベートのように自分を磨き上げる力ともなれるだろう。
「お嬢さんの恋心はエリザベートより激しい。相手は慎重に決めることだね」
リリスに言われ、ローズマリーはゆっくりと考える。
確かに、ローズマリーの恋心は自分でも制御できない程激しいものだ。もし返してくれない相手に向ければ、また同じことの繰り返しになるだろう。
エリザベートのように絶対に返してくれる存在を選ばなければならない。
エリザベートもリリスも急かさずローズマリーの答えを待ってくれた。ローズマリーはじっくりと考え、そして、躊躇いなく薬を口にした。
(さようならエドガー様。本当に、心から愛しておりました……)
ある日の昼休み、少年は学園の廊下を大荷物を抱えて歩いていた。
課題の提出が遅れたペナルティとして、次の授業で使う教材の運搬を任されたのだ。
重い物ではないのだが、なんせ嵩張る。視界のほとんどを塞がれていて歩きにくいことこの上ない。
薄情な友人たちは彼を置いて食事に行ってしまった。早く終わらせないと昼食を食いっぱぐれてしまうと一気に持ってきてしまったが、二回に分けた方がよかったかもしれない。
内心後悔している彼に、鈴を振るような愛らしい声がかけられた。
「もし、お困りのようですね。よろしければお手伝いさせていただきますわ」
「え、あ、ありがとうございます!?」
突然のことに彼は飛び上がる程驚いた。
声をかけてくれたのは、声の感じからして女生徒、中でも恐らく高位のご令嬢と呼ばれるような人物だろう。親切に声をかけてくれたのを断る方が失礼にあたる。最低限自分の視界が確保できるくらいの量を慌てて取り分け渡そうとして、初めて相手の事を確認した彼は驚きすぎて一瞬固まった。
「ろ、ローズマリー様ぁ!?」
そこに居たのは王太子殿下の婚約者にして、公爵家令嬢であるローズマリーだったのだ。雲の上の人だから関わることはなかったが、その評判は聞いたことがあった。王太子殿下の思い人を虐める悪女ということだったが、柔らかく微笑みながら手を差し伸べる姿からはそんな人には見えなかった。
慌てふためく彼に困ったように笑うと、ローズマリーはそっと彼が持ったままだった教材を受けとった。
「こちらダニエル先生の教材ね? 1年C組にお運びしたらよろしいかしら」
「あ、や、そんな、ローズマリー様のお手を煩わせるわけには……。てか、ぇ、僕がC組だってなんで知って……?」
「学友の皆様のことは一通り把握しておりますの。ふふ、せっかく同じ学園に通っているのですもの。何か役に立つこともあるかと思いまして。今のように、ね?」
ぱちりとウインクしてみせる姿は茶目っ気があり、冷たい印象を受けるローズマリーがするとギャップもあり大変愛らしい。少年は耳まで熱くなるのを感じた。
その後一緒に談笑しながら教室まで教材を運び、恐縮しながらお礼をいう少年に、困った人を助けるのは当然だと言ってローズマリーは笑顔で去っていった。
ぼんやり夢心地のまま余韻に浸っていた少年は友達に揺り起こされるまでその場に突っ立っていて、無事に昼食を摂り損ねた。だが、そんなことは些事だった。
「ローズマリー様、お優しくて可愛かったなぁ……。僕みたいなのまで覚えててくださるなんて……。やっぱり、噂ってあてにならないな」
彼はその後自身に起きた出来事を友人知人に広めた。
誰かに酷い噂を流されているローズマリーの力になりたかったのだ。
そういった人は少年だけではなく、徐々にローズマリーの評判は変わっていく。それはエドガーの耳にまで届くほどだった。
(ローズマリーの様子がおかしい)
今まで鬱陶しいくらいにエドガーにひっついていたローズマリーだったが、カナリアを虐げたのを怒った時から目線が合う事すらなくなった。近くを通れば王太子に対する礼はするが、それだけだ。
別にそれはいい。邪魔者がいなくなって快適になったくらいだ。周りの者達も刺々しい態度で接してくるローズマリーがいなくなったことで雰囲気が明るくなり、エドガーとしては喜ばしい変化と受け取っていた。
だが、それと同時にローズマリーの評判が良くなっているのは都合が悪かった。
いずれ王妃になるローズマリーの評判はいつか改善しなければいけないが、今ではない。
エドガーはもうカナリアと離れることなど考えられなかった。それほど夢中になっていたのだ。
だが、いくら本人が優秀でも、男爵令嬢であるカナリアの立場は弱く、娶ることへの旨味はないに等しい。ローズマリーに完璧でいてもらってはさらにカナリアを娶るのは難しくなってしまう。王妃に相応しい素晴らしい令嬢がすでにいるのに、結婚前から寵姫を求めるとなれば周囲の目も厳しくなるからだ。
物語のヒロイン役にカナリア、悪役令嬢役にローズマリーが当て嵌められているこの状況は、エドガーにとって非常に都合がよかった。
嫉妬も露わにエドガーの周りを攻撃するローズマリーを見る目は冷ややかだ。エドガーには同情が集まり、あんな婚約者では癒しを求めるのも無理はないと囁かれている。まだカナリアを本格的に寵姫にという話は出てきていないが、エドガーの働きかけもあり今一歩というところなのだ。
カナリアを寵姫にするためにも、ローズマリーは問題がある令嬢であってもらわなければならない。
(……仕方ない。ローズマリーと一度話をするか)
今は取り繕っていても、ローズマリーがエドガーの事を愛している事実は変わらない。少しでもエドガーが関心を見せれば化けの皮が剝がれて暴走するだろう。
……いつからだろうか。ローズマリーが差し出してくる愛が疎ましくなったのは。
出会った時はなんて可愛い子だろうと感動した。
サラサラの銀髪に、冬のよく晴れた空を思わせる薄い青の瞳は一見冷たい印象だが、手をつないだだけで真っ赤になってはにかむのがとても可愛かったのを覚えている。
自分より幼いのにマナーも素晴らしく、褒めると嬉しそうに笑った顔があどけなくて愛らしかった。
元々同年代の子どもと関わる機会は少なく、異性はローズマリーだけだった。それもあり、可愛らしい少女と遊ぶのは新鮮で楽しかったのだ。ローズマリーが来るのを心待ちにして、いつ来るのかと何度も周囲に聞いて困らせたくらいだ。
……だが、それも物心つくまでだった。
ローズマリーは優秀だった。エドガーが必死に習得したことをローズマリーは何の苦も無く身につけてしまうのだ。エドガーが一を覚える間にローズマリーは十を覚えた。それはローズマリーが文字通り血が滲むような努力で身につけたものだということを、エドガーは知らなかった。
有名な詩を諳んじてみせた時にローズマリーにこっそり間違いを指摘され、恥ずかしさのあまり握ったこぶしに爪が食い込んで血が滲んだのを覚えている。
周囲の人間もローズマリーの優秀さを褒め、彼女がお妃様なら将来安泰だとささやきあった。
エドガーがいくら努力してもローズマリーには追いつけない。
エドガーを優秀だと褒める人々は、王太子という立場におもねっているだけだと気付ける程度には優秀だったのも良くなかった。
エドガーを心から慕い、褒めてくれるのは、ただ一人 ローズマリーだけだった。皮肉な話だ。劣等感を植え付けてくる元凶だけが、心からエドガーを褒め称え、純粋な好意を向けてくるのだ。
無邪気に捧げられる心が、誰もが褒め称えるだろう成果を惜しげもなく渡してくるのが、エドガーではとても抱えきれない程重くて、潰れてしまいそうだった。
学園に入った時は、久しぶりに息が出来た気がした。
側近候補だけではなく学友達と触れ合い、今までいかに自分の世界が閉じていたのか思い知った。初めての経験だらけで、毎日が楽しかった。
エドガーは世間からしたら十分すぎる程優秀だった。入学してから首席の座から落ちたことはなく、運動も騎士を目指すような者とも張り合えるくらいに出来た。だがそれに驕らず気さくな態度で接するエドガーはあっという間に人気者になった。
エドガーは皆純粋な賞賛を向けてくれるのがたまらなく嬉しくて、だからこそローズマリーが入学してくるのが心底恐ろしかった。
今はローズマリーがいないから、比較されないからこそ皆がエドガーを褒め称えている。だが、ローズマリーが入ってくれば彼女はすぐ頭角を現すはずだ。
そうなれば今の居心地のいい環境がどうなるかなんて考えるまでもない。
またローズマリーのオマケの王子様へ逆戻りだ。
だが、どれほど嫌でも時を止める手段などあるわけがない。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、ローズマリーが入学してきた。
久しぶりに会うローズマリーは嬉しそうに色々と話しかけてきたが、上の空のまま相槌だけ打つ。頭の中はこれから地獄のようになるだろう学園生活のことでいっぱいだった。
そんな中、出会ったのがカナリアだった。
最初はあまりの儚さ、美しさに花の妖精が迷い込んできてしまったのかと思った。
サラサラと風に流れる髪が美しく、目が離せない。
ふとこちらを向いた彼女と目が合った瞬間、全身に電流が走るような衝撃を受けた。周りの雑音がすべて消えていき、まるで世界に二人きりになったようだった。
気付けばその髪についた花びらをとり、微笑みかけていた。カナリアは微笑み返してくれて、その愛らしさに胸が高鳴った。
そのままカナリアをエスコートし会話を楽しんだ。愛らしい声と笑顔に夢中になって、ローズマリーのことはすっかり頭から抜け落ちていた。
ローズマリーのことを思い出したのはカナリアと別れ、しばらく経った後だった。
幸せだったのに冷や水を浴びせられたようだったが、悪いのは自分だとはわかっていたから渋々ながら迎えに行くことにする。
誤算だったのは、カナリアがローズマリーと同じクラスだったことだ。
思いがけず会ったカナリアに目が吸い寄せられ思わずそちらに向かうと、嬉しそうにはにかんだカナリアはすぐに顔色を悪くした。
目線の先を辿ればローズマリーが恐ろしい形相でカナリアを睨みつけていたので、間に立ってカナリアを背に庇った。思えば、ローズマリーが失態をみせたのはこれが初めてだったと思う。
だが、エドガーもひどい失態をみせてしまった。婚約者より他の女を優先するなど、あってはならないことだ。明日以降の学園生活が憂鬱になったが、それは元からだったか、と苦く笑った。
しかし、事態は思わぬ方向に動いた。
噂はローズマリーに不利な方向で囁かれていた。
考えてみれば、エドガーは既に人望厚いのに対して、ローズマリーはほとんど知られていない。あれが初めての失態だなど知る者はいないのだ。
(これは、チャンスじゃないか……?)
エドガー様の婚約者様は随分狭量だと、そう囁かれてるのを耳にして、本当は未来の自分の伴侶となるローズマリーを護らなければいけないのに、エドガーは心が沸き立つのを止められなかった。
ローズマリーと結婚する未来は変えられない。だが、完璧な王妃として立つローズマリーの横で劣等感にまみれ続けるのは耐え難い。せめて心の支えが欲しかった。
カナリアは優しく可愛らしい、初めて自分の心を震わせてくれた女性だ。彼女がいてくれるなら、それはとても幸せなことだと思えた。
カナリアに声をかければ、彼女は嬉しそうに応じてくれた。
もとより周囲との交流を大切にしていたのもあり、エドガーが気になった者に声をかけるのはよくあることだった。そのため周囲も微笑ましい目で受け止めてくれた。
だが、ローズマリーは激怒した。カナリアにも再三脅しのようなことを言い、エドガーにも前にも増して縋りつき、言葉を尽くして自分を優先するよう主張した。
その必死な姿は嘲笑の的となり、エドガーとカナリアには同情と憧れが寄せられた。
そしてついにはローズマリーはカナリアに公衆の面前で手を上げた。
もう学内でのローズマリーの評判は底辺だ。もう一歩で望んだ未来が手に入ると、そう思っていたのに。
思えばローズマリーが急に変わったのは王妃とのお茶会の後だ。何か入れ知恵でもされたのだろう。
なら、外面が繕えなくなるほどまたエドガーへの愛で暴走させればいい。
そう思って放課後空き教室に呼び出すと、ローズマリーは素直にやってきた。
「エドガー様、ご機嫌うるわしゅう。御用があるとのことでしたので罷り越しましたわ」
「あ、あぁ……。よく来てくれた」
一分の隙もないカーテシーをしてみせたローズマリーに気圧され、エドガーの声は少し震えていた。
しっかり対峙したのは久しぶりだったが、それでも気付くほどに雰囲気が違う。
前はエドガーを見つめる瞳はあまりに熱すぎて、燃やし尽くすつもりなのかと問い詰めたくなるほどの熱量に溢れていたのに、今は凪いでいる。むしろ、興味のないものを見る目に見えてしまうほど。
「……随分、外面を繕うのが上手くなったな」
「まぁ、お褒めいただき恐縮ですわ。エリザベート様のご指導のおかげですわね」
ふわり、と花が綻ぶように微笑んだローズマリーは恐ろしく可憐だった。エドガーは束の間見惚れ、慌てて目を逸らした。
「今回呼んだのは、最近の態度を謝るためだ。あー、少し君をないがしろにしすぎたと思う。すまない。これからは君との時間を増やすようにするよ」
「とんでもないことですわ。どうぞ、エドガー様は学友とのお時間をお過ごしくださいませ」
「は……?」
にこりと貴族令嬢らしく微笑んでみせたローズマリーは本心からそう言っているようだ。
おかしい。ローズマリーなら一も二もなく飛び付くはずで、こんな慎ましやかに拒否するわけがない。
エドガーは大きすぎる違和感に気分が悪くなった。こんなのローズマリーのはずがない。別人が中身を乗っ取ったと言われても信じられる程だ。
「そうだわ。エドガー様、私からもお話ししたいことがあるのです。カナリア様のことなんですが……」
「! はっ、なんだ、言ってみろ」
エドガーは余裕を取り戻した。
やはり、ローズマリーの中身は変わっていない。カナリアの話を出したのがその証拠だ。取り繕うのが上手くなっただけだろう。
「私、今までのことを謝罪させていただきましたの。寵姫となられる方と王妃の不仲はよくありませんもの。カナリア様も快く許してくださいました」
「はぁ?」
「つきましては、私もカナリア様が無事寵姫になられるよう微力を尽くさせていただきます。ただ、エドガー様には申し訳ないのですが、やはり私との子を成してからでないとお迎えするのが難しそうですの。ですからそれまでカナリア様にはお待ちいただく形となりますわ」
「ま、待て。待ってくれ。君がカナリアに協力すると? 何を言っているんだ?」
「申し訳ございません。わかりにくかったでしょうか……」
エドガーには訳が分からなかった。
ローズマリーがエドガーが自分以外に目を向けるなど許すわけがない。
なのに、謝って、あまつさえ寵姫として迎えるために動く? なんの冗談だ。
ちらりとローズマリーを窺えば、おとなしくエドガーが何を言うか待っている。その凪いだ瞳が途方もなく不気味で、エドガーは恐怖を感じた。ローズマリーがエドガーを見る瞳はこんなのではなかった。
これでは、まるで、エドガーなんてどうでもいいようではないか。
おかしい。絶対におかしかった。
「君が寵姫を認めるなんて、何を企んでいるんだ?」
「……。エドガー様はやはり鋭いですわ。わかってしまいますわよね」
そっと目を伏せたローズマリーに、エドガーは少し安心した。
やはり、何か企み事があってこんなことを言い出したのだ。当然だ。ローズマリーはエドガーを愛している。何もなくカナリアに協力するなんて言うわけがない。
「私、結婚してお世継ぎを産んだ後は国政に尽力したいと思っているのです。嫁ぐ用の姫が必要であれば、カナリア様に産んでいただきたくて。その為にも出来ればカナリア様には寵姫ではなく側妃になっていただきたく、その教育も受けていただければと考えてますの」
「……は?」
「妊娠期間は動きづらくなりますので出来れば世継ぎもカナリア様にと考えたのですが、流石にエリザベート様に怒られてしまいましたの……。でも、ご安心下さいませ。エリザベート様も御使用になられたお薬さえあれば、初夜の一度で男子が出来るそうですの。エドガー様にはその一回だけご辛抱いただきますが、その後は外せない公務以外は私の事は放っておいていただいて結構ですわ」
「……どういう、ことだ」
放っておいていい? 鬱陶しい位にエドガーの愛を求めていたのに、どんな心変わりをしたらそうなるのだ。
血の気が引いているのが自分でもわかるのに、ローズマリーはエドガーに心配の声すらかけない。エドガー自身が気付いていない不調にも気付いてすぐに休ませようとしてきたはずなのに、どうして。
縋るように見つめるが、ローズマリーはおとなしくエドガーの言葉を待っているだけだ。
その後のことはよく覚えていない。気付けばエドガーは自室で呆然としていた。
ローズマリーの変わりようは明らかにおかしかった。
エドガーに誰かが、それこそ同性が近付くだけでも嫌がって嫌がって、なりふり構わずエドガーの心を求めていたというのに、今のローズマリーは心の底からエドガーに興味がないようだった。
嫌われてすらいない。ただただ無関心だった。
ローズマリーがそんな態度をとるなんて、あり得ない。あってはならないことだ。
「そうだ、母上……!」
エリザベートなら、何か知っているかもしれない。いや、間違いなく知っているだろう。
ローズマリーとエリザベートは仲が良い。ローズマリーはエリザベートの言うことならその通りに従うだろう。
それに、ローズマリーがおかしくなったのはエリザベートと会ってからだ。何も知らないはずがない。
慌てて従者を通して面会を申し込むと、運良くすぐに会うことが出来た。
「母上、ローズマリーに何をしたんですか!?」
「落ち着きなさい、エドガー。王太子たる貴方らしくもない。まずはお座りなさいな」
優雅にソファーで寛ぐエリザベートに咎められ、エドガーは渋々対面のソファーに座る。
すぐにお茶とお菓子が運ばれる。侍女達はエリザベートの目配せを受け素早く部屋から下がり、護衛の騎士だけが残った。ちらりと見たが、エリザベートに騎士を下げる気はなさそうだ。
ゆっくりお茶を嗜むエリザベートをイライラしながら見ていると、可笑しそうに笑われた。
「あらあら、随分余裕がなさそうだこと。ローズマリーのことは嫌っていたのではなくて? 少し冷たくされただけで慌てるなんて、ふふ、おかしいことね」
「……やはり、ローズマリーが変わった事はご存知なのですね」
エドガーの言葉に、エリザベートは鷹揚に頷いてみせる。
「当然でしょう。私が可愛いローズのことで知らないことなどなくってよ」
「ローズマリーに、何をしたんですか?」
「まぁ、私疑われているのかしら。ふふ、恐ろしい目だこと。嫌いな相手がどうなろうと、関係ないでしょうに」
「私がどう思っていようと、ローズマリーは未来の伴侶、王妃になる人間です! 何かあったら気にするのは王太子の務めでしょう!?」
楽しげに微笑んでいたエリザベートの目が、ふと冷たくなる。エドガーは背筋が凍るような感覚を感じた。
「ローズマリーに問題がないことは私が保証します。王妃になるためには、王への愛など必要ないのです。このままで、何も不都合はなくってよ」
「そんなはずがないでしょう!? こんな、人格が変わったようになるなんて、問題ないはずないでしょう」
「あら、ローズマリーの人格は変わっていなくてよ。変わったのは、愛の対象だけ」
「愛……?」
「ええそう。愛する相手を貴方から、国民に変えただけよ」
「は?」
意味がわからず聞き返すエドガーに、エリザベートは簡単に魔女の薬の事を話す。
話を聞くにつれどんどん青ざめていくエドガーの顔を、エリザベートは冷たい表情で見ていた。
「言っておくけど、薬を飲まなかった方が酷いことになっていてよ?」
「どういう、ことですか」
「可愛いローズは、もう限界だったの。貴方が追い詰めたせいよ。あのままいったら、そうね……。貴方に危害は加えられないでしょうから、自殺か、貴方の思い人を殺すかかしら?」
確かに、ローズマリーは思い詰めた顔をしていた。窶れ、余裕のない表情ばかり浮かべていたように思う。
だが、流石にそんな短絡的なことはしないだろうと思ったが、エリザベートの顔は真剣だった。エドガーよりもしっかりとローズマリーに向き合っていたエリザベートの言うことなら、本当なのかもしれない。
「王妃候補が自殺するのも、人を殺すのも、恐ろしい醜聞になるのはわかるでしょう? だから、私の方で対処したわ。……あの子の愛を受け止める気がない貴方より、国に捧げる判断をしたのはローズマリーよ。流石私の可愛い子、正しい判断だったわ」
「ローズマリーが、選んだ?」
「えぇ、強制は出来ないもの。貴方を大好きで大好きで、報われない愛に疲れてしまっていた可哀想なローズマリーはもういないの」
その言葉は、エドガーに深く突き刺さった。
不意に幼いローズマリーの笑顔が頭に浮かぶ。可愛いと、大切だと思っていた時もあったのだ。
エドガーの前でだけ頬を染めるのが可愛かった。信頼と愛情がいっぱいに籠ったキラキラ光る瞳が眩しかった。自分に全身全霊の愛を捧げる姿が、いじらしかった。
それらすべてを失ったことを、エリザベートの言葉で理解してしまった。自分を強固に支えてくれていた支柱がなくなったようで、どうやって立っていたのかわからなくなってしまう。
「こうなった以上、貴方の愛する相手を寵姫、いえ、側妃にすることは認めてあげる。私の信奉者で養子にしてくれる家は見つけてあるから、早く教育を始めなさい。そうね、ローズマリーの教師陣をつけましょう。もうあの子に教育は必要ないからちょうど良いわね」
スラスラと紡がれた言葉が頭に入ってこない。
顔面蒼白でふらつくエドガーを見ているはずなのに、エリザベートは気にも止めていないようだった。
「最近は側妃がいなかったから、心構えを教えられる教師はまだいるかしら……。すぐに探さなくてはね。あぁ、お相手には貴方から話をなさいな。とりあえず早急に王城に呼びなさい。私が直に見て、今後のことを考えます」
「…………もと、に……」
「なぁに?」
「ローズマリーを、もとに、もどせますか?」
虚を衝かれたように目を見張った後、エリザベートはコロコロと笑った。
「まぁ、何を言ってるのエドガー。貴方の望んだ通り、恋した相手を迎えられて鬱陶しい婚約者は貴方に興味を失くしたのよ? 元に戻す必要なんてどこにもなくてよ」
「私は別に、ローズマリーを失うつもりはなかったんです。ただ、カナリアを迎えたかっただけで」
「――本気で言ってるの?」
エリザベートの顔から表情が消える。
冷たい目で見つめられ、エドガーは視線をさ迷わせた。
都合のいいことを言っているのはわかる。だが、エドガーにとってローズマリーの愛はあって当たり前のものだった。自分の心はカナリアに捧げていても、ローズマリーの心はエドガーだけのものだと、そう思っていたのだ。
「さっき言ったでしょう? ローズマリーは限界だったのよ。もし戻せたとして、またローズマリーを追い詰めるつもり?」
「いえ……。今度はちゃんと気にかけるつもりです」
「ふふ、馬鹿な事を言わないで。貴方、愛する相手も諦めるつもりはないのでしょう? たとえ少しローズマリーの事を見たとしても、あの子は満足なんか出来ないわ。わかっているでしょう?」
「……」
答えにつまるエドガーを見て、エリザベートは深々とため息をついた。
「考えが甘いわ。貴方も教育が足りていないわね。まぁ、この段階でわかってまだよかったかしら。まとめて手配しておきます」
そう言って、エリザベートはお茶を飲み干した。
エドガーが返事もせずただ座っているのをしばし眺め、また息を吐いた。
「ふぅ……。やることが増えてしまったわ。時間がないから、今日はここまででいいかしら。次は私の方から教育のことで呼び出すわね」
「は、母上! 返事がまだです!」
立ち去ろうとするエリザベートを慌てて引き留めるエドガー。
ドアに向かっていたエリザベートは足をとめ、あぁ、と思い出したように頷いた。
「戻せるか、ね。そうね、もう一度薬を飲めば可能だとは思うけど、ローズマリーが貴方一人に愛を捧げたいと心から望む必要があるわ。
ねぇ、エドガー。貴方に恋をしていたローズマリーと、今のローズマリー。どちらの方が幸せそうに見える?」
答えられないエドガーに冷笑を向けると、エリザベートは今度こそ部屋から出ていった。
取り残されたエドガーはただ呆然としていた。
望んだ通りカナリアを側妃に迎えられるというのに、喜びはどこにもなく、ただ思い出すのはローズマリーとの思い出ばかりだった。
ローズマリーは毎日がとても楽しかった。
出会う人誰も彼もが愛おしい。ちょっとしたお手伝いで喜んでくれるととても嬉しいし、何かしてもらったら嬉しさで心が躍る。
カナリアや公爵家の人々など、一部愛せない人もいるが、関わりを減らしてしまえばどうということもない。エリザベートから王城に住む許可はもらったし、学園は飛び級で卒業予定だからもう少しの辛抱だ。
というか、エドガーへの愛をもってしても愛せない人がいることが驚きだった。自分の中に嫌いという感情があったことはローズマリーにとって新鮮だった。心のほとんどを埋めている恋心以外は認識すら出来ていなかったのだ。
「あぁ、でも王城にいくとエドガー様とお会いする機会が増えるわね……」
以前であれば天に上る程の喜びだったであろうそれは、今のローズマリーにとってはただただ鬱陶しいだけだった。
ローズマリーが魔女の薬で愛する相手をエドガーからすべての国民に変えた後は、エドガーはどうでもいい相手と成り果てた。もう、エドガー相手に感情が動くことはない。
それなのにやたらと接触されるようになり、無駄に時間をとられるのだ。鬱陶しいことこの上なかった。
だが、考えてみれば以前のローズマリーも似たようなことをやっていた。それなら、罪滅ぼしと思って付き合うべきだろうか。
「思えば、前の私の方が鬱陶しかったですものね……」
すべての国民に分け与えても、ローズマリーは確かに相手を愛しいと感じられるのだ。そんな熱量をただ一人に向けるなんて、正気の沙汰ではなかった。エドガーもいい迷惑だっただろう。
本当に、リリスの薬のおかげだ。これがなければどうなっていたかなんて、考えたくもない。
「うふふ、恩返しのためにもしっかり働きましょう」
ローズマリーが愛しい国民のために何が出来るか考えない時はない。いくつか政策も思い付いたので、次の登城でエリザベートに相談するつもりだ。
視察にもいきたい。まずは城下町を視察し、ゆくゆくは国内全土を視察して国民の生活を感じるのが今のローズマリーの夢だった。出来れば身軽な今のうちにやっておきたい。
今後の予定を考えるローズマリーの頭からはエドガーのことなどすっかり抜け落ちていたが、気付くことはなかった。
今までの生涯で今が一番充実してて幸せだと自信を持って言える。ローズマリーの未来は、とても明るいものだった。
王妃となったローズマリーは、国民の生活をよくするための施策を次々と打ち出し、歴代の王妃の中でも一二を争う人気となった。
一方王であるエドガーは、何人も側妃を娶り一部からは好色王と噂されたが、全般としては優秀な王妃であるローズマリーの影に隠れ、ほとんどなにも成せないまま終わった。子も、側妃が大量にいた割にはローズマリーが産んだ王子一人だったという。
恋心の対象を変えられたら面白そうだよね、位の気持ちだったのにあれよあれよという間に話が膨らんでしまいました。
こんなに長いのにお読みいただきありがとうございます。
以下ちょっと設定
ローズマリー
滅茶苦茶愛が重い。全国民にまんべんなく愛を振り撒いても皆愛しいと思える程度には重い。
エドガー至上主義で彼の為ならなんでも出来た。エドガーが正攻法でカナリアを迎えたいと言ったら苦しんで苦しんで苦しんで、でも多分受け入れた。その後あまりの苦しみで狂う。
ローズマリーとしては今がトゥルーエンド。王妃の仕事遣り甲斐あって本当に楽しい。子どもも国民なので愛せた。
エドガー
超愛の重いローズマリーのことを受け入れられなかったが、いつの間にか支えになってたので失くなって慌てたがもうどうしようもない。
カナリアに恋をしていたが、ローズマリーに愛されているのが前提で当て付け半分の恋だったので、その後ギクシャクしたが、側妃に迎える流れは止められなかった。
優秀な王妃が自分を立ててはくれるが、皆王妃の成果だと知っているのでほとんどお飾り。生涯劣等感にまみれて生きる。
カナリア
王子様との物語のような恋に浮かれて、側妃に迎えられるとなって有頂天になった。
だが、側妃教育は大変だし、エドガーはローズマリーのことばかり見ているしで思い描いていた幸せとはほぼ遠い生活になる。こんなはずではと嘆いたがカナリアが流れを止められるはずもなく、子どもも産めなかったため一生肩身の狭い思いで生きていく。
公爵家の人々
ローズマリーの愛の対象ではないので全く優遇されることもなく、それどころか他の愛する国民の為の政策の範囲から外れているためじわじわ力を落としていった。
王妃となったローズマリーの方が立場が上なので言うことをきかせることもできず、少しづつ落ちぶれていくことになる。
エリザベート
愛した人は自分を省みない。
必死に努力しても駄目で心が折れたので、似たような立場のローズマリーはどうなるのかじっと観察していた。
ローズマリーも折れたので、実は内心喜んでいた。
そうよね、どれだけ愛していても返ってこないなら折れても仕方ないわよね!
本心からローズマリーのことを愛して可愛がってはいる。それはそれとして折れた後のローズマリーは同じ立場なのでますます可愛いし嬉しい。
リリス
魔女は魔力が凝って自然に産まれる。
産まれた直後に初代国王に拾われ育ててもらった。ちなみに初代国王はハーレム主人公みたいな感じ。
初代国王に恋をしたが、彼からはよくて妹位にしか思われてなかったので伝えることはなかった。
子孫を見守ってほしいと言われたのでずっと見守っているが、初代国王以外愛するつもりはないので接触はしない。
王妃の相談役をしているのは同じように厄介な相手に惚れた女達に同情してるから。