記憶 ―十五年前―
学校の帰り道、まりかは見知らぬ少女に話しかけられた。
そのヘアピンかわいいね。何の花?
戸惑いを興奮が上回ったのは、彼女が並外れて美しかったからだ。同じ年頃なのにまるで別の生き物のよう。そんな子に衒いなく褒められて、まりかはすっかり舞い上がった。
ありがとう。ジャスミンだよ。
ジャスミンは漢字で茉莉と書く。ジャスミンを愛した母が、茉莉花の名に合わせてくれたプレゼントだ。白い清楚な花が二つ配われたヘアピンはまりかも大のお気に入りで、自身を褒められたように嬉しくなった。
ランドセル、おそろだね。
平凡なまりかと美少女、二人の共通点は白いランドセルだ。これもジャスミン由来で、眩いばかりの彼女が急に近しく思われた。出会って間もない二人は何年もそうしてきたように、取り留めない会話に興じながら家路を辿った。
まりかちゃんのこと、もっと聞きたいな。
問われるまま、まりかは答え続ける。家は一軒家で自室は二階にあること。母は料理が得意で、よくお菓子を作ること。父は海外勤務で、たまにしか帰らないこと。二つ下の弟が生意気なこと。
ちょっと家、寄ってかない?
そう誘ったのは、彼女のことをもっと知りたかったからだ。聞き上手な彼女に話すのは自分ばかり。少女の名前もまだ聞けていない。美しい友人を母に見せたい下心もあった。うなずく彼女に達成感まで覚えた。
あら、お友達を連れて来たの?
玄関に入ると、香ばしい焼き菓子の匂い。母は料理中らしく、出迎えは声だけだ。「そうだよ!」と応じたのは彼女の方だった。驚くまりかを置いて先に階段を上がっていく。断りなく家に上がる彼女に、わずかな違和感を覚えた。
自室の扉を開けた時、違和感は戸惑いに転じた。
少女がベッドに寝転がり、勝手に漫画を読んでいたからだ。知り合って間もない友人に対するマナーではない。まりかは急に不安になった。自慢の友人を得た高揚は萎み、早めに帰って欲しいとさえ思い始めた。
おやつ、持って来たわよ。
母が現れる前にベッドを降りた彼女に胸を撫でおろす。大皿のマカロンに定番のジャスミンティー。強い芳香はまりかにとって家庭の香りだ。来客用のティーカップを、母はまりかに、そして彼女の前に並べた。
マカロン美味しいね。どうやって作るの?
菓子を摘まみながら、彼女が母に話しかける。気安い口調が母の機嫌を損ねないか、まりかの心配は杞憂だった。聞き上手な彼女は母とすぐに打ち解けた。まりかが口を挿む必要もないほどだった。
そう言えば、お友達のお名前は?
母の問いは、まりかも知りたかったものだ。視線を集めた彼女の答えに、まりかは唖然とした。
少女は「茉莉花」と名乗ったのだ。
まりかちゃんの名前は知ってるわよ。
えー、そう?
そうじゃなくて、お友達のよ。
理解不能なやり取りだった。まりかは自分だ。ジャスミン好きの母が愛娘につけてくれた名前。それを彼女が名乗り、母が受け入れている。ならばここにいる自分はいったい誰なのか?
さっき知り合ったから、まだ名前知らないの。
あら、そうなの。じゃあ、お名前教えてくれる?
二人に見つめられ、答えに窮した。
「まりかはわたし」そう言えばいいだけのはず。けれど曇りなき母の瞳に自信は陰った。縊られたように声が出ない。まりかはわたしのはずなのに。息が吸えない。心臓が動かない。
わたしの名前はママがつけてくれたの。
ジャスミンは漢字で茉莉なんだよ。
そうよ。このヘアピンもジャスミンなの。
母の手が白い花の髪留めを撫ぜる。思わず自分の髪に手をやった。
ない。いつのまにかヘアピンが消え、少女の髪に飾られている。
涙が溢れ出た。それだけは許せなかった。
混濁する視界の中、気がつけば、まりかは跳び掛かっていた。倒れた茶器からジャスミンティーがこぼれ、テーブルに広がる。立ち昇る強い芳香の中、少女を組み伏せた。泣き喚きながらヘアピンを取り戻そうとした。
金切り声とともに突き飛ばされ、まりかは呆然となった。少女を抱きしめた母が、憎悪を込めた眼差しを向けていた。口から漏れ出る呪詛は、聞いたこともないものだった。
そして見た――母の腕の中で、少女が確かに嗤ったのを。
錯乱する母は別人のようで、まりかは自分が誰なのか、すっかりわからなくなってしまった。
その後のことは、記憶に定かではない。
まりかのはずの少女は家を追い出され、当所なく歩き始めた。抜け殻と化して町を彷徨う彼女を警察が保護したのは夜明け前。連絡を受けた母親はすぐに迎えに来た。
まりか、一体どうしたの?
泣きながら抱きしめる母に総毛立った。母は何も覚えていなかった。自分を追い出したことも、まりかと呼んだあの少女のことも。
家に帰ると、少女の姿はどこにもなかった。
全てが一夜の夢のようだったが、ジャスミンの花のヘアピンは最後まで見つからなかった。