牙を折り、爪を切る
初の通院日から一週間が経った。DNAの鑑定結果で無事に血縁認定され、今日で通院も終わる。研究に必要なデータはとれたようだ。津摘さんの様子からして残念ながら寄生虫自体の発見はできなかったようだが、話を聞く限り寄生虫の遺骸から出る物質は採取できたらしい。
研究に協力したことで少しの報酬を得られたのもラッキーだった。(三分の一が服や下着で吹っ飛んでいったが。)今日は学校で校長や担任に話を通す日だ。会話の内容がないようなので信用度の観点から津摘さんが同行してくれることは心強い。
事前に卸したブレザーを着て、家の前に停まった黒塗りのプリウスに乗る。いつもより足を上げなければいかず小学生時の近くの山へ遠足に行った時のことを思い出す。調子こいて大股で階段を上がったのが仇となり、頂上近くでばててしまったのが忘れられない。
そういえば今日の津摘さんの服装がしっかりとしている。シワ一つないスーツにライトブルーでストライプの柄をしたネクタイもまっすぐつけられている。
「露さん、なんか引っかかることでもあるのか?」
「いや、いつもより身だしなみが整ってるなと思いまして。」
「俺をなんだと思ってるんだ、これでも一端の社会人だからな。外行く時ぐらいはちゃんとしてるつもりだ。最近は急に研究が進むようになってだな……。」
「俺のせいですかそうですか。」
軽く返事を返すとそこから学校まで一切会話はなく、いつもの電車通学より十数分ほど早く着いた。教員用(来客用を兼ねている。)の玄関のインターホンを結がプッシュする。少し待つとすぐに女性の教員が迎えてくれる。よく知っている女教師——端咲純菜。露のクラスを持つ担任教師で請け負う教科は古典。職員室でたまたま耳にした時に得た情報からすると5月3日生まれの27いや、もう誕生日は過ぎているから28歳か。競技カルタ部の顧問をしているがもう一人の顧問が主に顔を出しているらしく、本人はあまり関わっていないようである。
「丹生くん……でいいのね。」
「はい、間違い無いです。」
「お姉さんからは発熱って聞いてたんだけど。」
いつもの冷徹な声でこちらを振り返りもせずに呟く。端咲先生は俺のことを元からあまり気に入っていない様子である。
人との接触を最低限に抑えるところからして俺と同族だと思うのだが同族嫌悪というやつだろうか。多分、彼女は自身の方が上だと思っている。自分より下の相手には容赦ないのだ。……いや、お局か!
「端咲さん、女になったから休むと言っても誰も信じないと思いますよ。ただでさえお姉さんにさえ信じなかったんですから、先生になら尚更です。」
「あなたには言ってません。私は丹生くんに——。」
「——津摘さんは俺の返答を代弁してくれただけです。別に言って悪くはないのではないでしょうか。それに彼の方が信用できると思います。」
端咲先生に反論するといつも明るい生徒に話しかけられた時みたいに口篭ってしまう。
こうして見てみると説教を食らった餓鬼みたいである。別に説教を垂らすつもりはないのだけれど。
端咲は木目の重そうな扉の前で足を止める。扉を叩くと軽く心地よい音が鳴りそれに反応して向こうから落ち着いた返事が返ってきた。
「どうぞ入ってください。」
入室するとそこには還暦をとうに越した老人二人と見知った顔の男がいた。校長と教頭、それに男子バレー部の顧問である珠木剛太だ。
「どうぞ、お掛けください。」
教師陣と露、結そして津摘が向かい合って並び座る。とりあえず名前だけの自己紹介を済ませて事の経緯を露が自身で話し、続いて隣に座るスーツの男が染色体性性転換症について説明をする。それだけで四十五分も食ってしまった。
「血液検査と今回露さんが患った病気についての実験です。本来、マウスが性転換することはないですがこの物質が血漿を通じて細胞に作用すると、このように雄が雌に変わりました。……信用してくださいますか?」
「はい。それはわかったのですが、戸籍や契約については……。」
小太りした男は右手に常備しているハンカチで額を拭いながら資料を読んでいる。どうやら俺の不幸に手を焼いてるのではなく俺の処理の方法に頭を悩ませることが問題らしい。
「そちらは国の方が特別に処理してくれます。戸籍はあなた方への説明の後に私に任せてくれれば二日から三日で済ませられますので安心してください。」
「それならよかったです。」
「では、今日はこの辺りで失礼させていただきます。露さんはどうしますか?」
「俺は珠木先生に用があるので先に戻って大丈夫です。」
津摘さんには先に車に戻ってもらう事にしてもらった。彼にも連絡する用事が残っているらしいので一度別れたのである。
「それで、私に用とはなんだ?随分と可愛くなって……。」
「俺じゃなかったらセクハラですよ。、ちょっとは気をつけた方がよろしいかと。用というのは……。」
頑固親父みたいな風貌をした珠木は今までとは違って見下ろすように俺と視線を交わしている。つくづく現実は俺に完全変態を突きつけてくる。
露は早速スポーツ会社のロゴが入ったバッグから男子バレーボール部のユニフォームを取り出す。
「これ、返しに来ました。俺はもうあそこにはいられないので古川か保住にでも渡してください。」
「お前はどうなんだ。」
どうとはなんだ、これ以上できることはないだろう。飛ぶ鳥跡を濁さず、未練があれど資格がなければ巣になど留まっていることもできない。この世には例外が山ほどあるがこれほど異質な例外は排他されざるを得ない。もし俺が同じ状況で他の部員が女になってしまったら咎めざるを得ない。
そんな状況で咎めないと判断するのは自分が今女になるという状況に直面しているからで自分に甘いと言わざるを得ない。
「正直未練たらたらですが俺はこれが最善策だと考えていて、これ以上のことはできないと思っています。短い期間でしたがご鞭撻ありがとうございました。機会があればまたお願いします。」
「はぁ、ここまで潔いと逆に未練は感じられんなぁ。別に咎めようとか説教をしようとかそういうことじゃない、確かにお前の考えも一理ある。」
「そんな体で続けるなんて部員に失礼だ、とか思ってるだろうな。一割ぐらいは辛い練習抜けれてラッキーとも思ってるかもしれない。」
露は小さくなった頭を縦に揺らす。それを目視した珠木は呼応するように頷いて話を再開させる。
「でも、もっと足掻いていいと思うぞ、俺は。時代錯誤も甚だしいだろうが、お前の雑草根性はこんなものじゃないはずだ。
「これまでもそうだったろう。そのユニフォームもその腐った根性ゆえに掴めたものだ。本人が言うんだから間違いない。」
珠木は12という数字に指を差す。露はユニフォームをくっしゃくしゃになるぐらい力を込めて握りしめる。
「でも、今の状況じゃそれはダメだと思うんです。なんでしょう、五つ星レストランのシェフにパイ投げするみたいな、ボディービル大会の優勝者に週二しかトレーニングしてないサラリーマンが筋トレの指導をするみたいな感じがするんです。」
「別にいいんじゃないか?それでも。」
露は思わず息を呑んで目を丸くする。まさに通りすがりの主婦にボディーブローをかまされたような衝撃。
「素人に何か言われてもいいだろう。参考にならない野次は無視すればいい。小耳に挟んで何か閃くようなものだったら使わせて貰えばいいだろ。まあ、露目線のスタンスじゃないけど。」
「そんなことで好きなこと諦めるなよ。」
何かが体の中に落ちていく音がした。今の状態が“そんなこと”で終わるとは思えないけど、好きなことはやめてたくない。
「だから、女子の方に——」
「——いえ、それは嫌です。俺はあいつらとしたいんです。」
俺の食い気味の返答に珠木が口角を上げる。
「わかった、監督には私から伝えとくよ。後、何かあるか?」
いつもと違う不快な違和感が露の鼻を貫く。どう考えてもそれは珠木の服から臭うものである。
そういえば、同学年のマネージャーである冬里透璃が後輩と世間話をしているときに「珠木はタバコの臭いがキツい」と言っていた。当時はあまり気にするようなものじゃないと思っていたがわかった。女は臭いに敏感である。
「タバコ臭いので禁煙したらどうでしょうか、お子さんいるんでしょう?」
結局、退部することはできなかった。車内でやることもなくやるせなく指を眺めていると爪がかなり伸びてしまっているのに気づいてしまった。白い指に尖った爪が映えるのか容易に視線を外せない。
「あぁ爪、切らないとな。」