#7 景色
図書館を出てすぐに右へ曲がるところまでは覚えていたけれど、似たような造りの廊下と幾つも枝分かれした道のりに、完全に自室を見失ってしまう。王宮全体を把握するのは難しいが自室から図書館までの行き方くらいは覚えたい。そんなことを思いながらコペリの後ろを歩いていたフィーユは、ふと、ここまで誰とも擦れ違っていない上に、人の気配すら感じられないことに気付く。静かすぎるこの状況についてコペリに問うたなら、前国王の葬儀が始まって王宮にいた人々は参列しているのだろうと、まるで王宮を独り占めしたような悪戯な口調で答えるから、フィーユは思わず足を止めて考え込んでしまう。
「あの…葬儀が終わるのは何時頃ですか?」
「正確な時間は分かりませんが、葬儀後の会食を含めると残り二時間程度でしょうか」
「それなら、人がいない間に行きたいところがあるんですが…」
フィーユの表情に緊張が滲んでいたこともあって、コペリはごくりと生唾を飲んだ。フィーユが王宮の財宝を狙っているとか、王宮から抜け出そうとしているなどといったことを想像していたのだろうか「温室に案内して下さい」そう告げた瞬間、彼女はあからさまに安堵した。
「温室は裏庭を進んだ先にございます。裏庭には、こちらから出ることができます」
コペリが一つひとつ説明してくれる声に耳を傾けながら、足が竦んでしまうほど長い螺旋階段を下りて、絵画や調度品が散らばった廊下を右へ左へと何度も曲がった先に、外からの光で白飛びしたガラス扉が見えてくる。扉を開けた先の景色も光でぼやけて目が慣れるまで時間を要したけれど、外の柔らかな空気はフィーユの身体をあっという間に包み込んでしまう。
「普段、温室に出入りしている方はいないんですか?」
「はい。以前は温室や図書館は外部の方も利用できるように開放されていたのですが、警備の兼ね合いにより限られた人しか利用できなくなりました」
「勿体ないですね。こんなに立派なのに…」
自然の美しさが保たれた裏庭は安らぎと厳かな雰囲気が均衡した日本庭園に近い印象を受けた。そこにドーム型の人工物が見えてきたものだから、その大きさも相まって圧倒されてしまう。ガラスのドームに閉じ込められた花の色が透けて見える光景は巨大なハーバリウムを思わせ、その鮮やかさに、中に入らずとも満足した。
「さぁ、中へどうぞ」
温室を前に立ち尽くしていたフィーユの背中を押す声が掛かる。長年、雨風に当たって建て付けが悪くなった引き戸を身体いっぱい使って開け放つと花の香りが溢れ出してきた。日差しを集めた温かな空気に引き込まれ、今度は背中を押されぬうちに歩みを進めた。小説に登場した温室を一目見たかっただけのはずが、移り変わる景色に奥へ奥へと足が向かう。
「妖精様は花がお似合いでございます。特に花の色が溶けた澄んだ羽はお美しいです」
コペリは時折、称賛の言葉を投げ掛けてくれるけれど、未だ自分のこととして受け止められないフィーユは何も答えられぬまま辺りを見回すばかりであった。とはいえ、現実の世界には存在しない花や色や香りで構成された温室に胸を高鳴らせていたのはほんの少しの間だけで、気が付けば小説に書かれていた通り、自分が此処にいるのが当たり前であるかのように華やかな空気に馴染んでいた。
「少しだけここで休ませてもらって良いですか?」
「勿論でございます。私は少し席を外しますゆえ、ゆっくり休まれてください」
一礼ののちに立ち去っていくコペリの足音が完全に聞こえなくなったところで、フィーユは傍らの大きな木に寄り掛かり、ずるずると座り込んだ。まるで小説の流れに戻そうとしているかのように、居心地の良いこの場所から動けなくなる。このまま、目を閉じてしまえば新たにページが捲られ、予期せぬ展開が繰り広げられるかもしれない。そんな恐怖が一瞬掠めるも、穏やかな空気に気を許したフィーユは眠りに落ちてしまった。
唐突に瞼の裏に浮かんだのは自分がよく知る平凡な風景だった。使い慣れたテーブルにシチューやオムライスなど自分の好物が並んでおり、家族と他愛ない会話をしながらそれを食べる。帰りたいと望む世界が当たり前にあることに安堵した。一方で、思うように動かない身体と、それに気づかず日常を演じ続ける家族の様子は異様で、これが夢であることに気づき始める。
確かめてはダメだと理解しつつ壁に掛けられた鏡へ視線を向けた。そして、そこに映った羽が生えた金髪の妖精と目が合った瞬間に日常が白く消えていく。頬に涙が伝う感覚で現実へ引き戻され、漸く身体を動かせるようになったけれど、その小さな手は涙を拭うばかりだった。
「っ、早く戻らないと…」
胸の窪みに溜まっていた涙を流し終わらぬうちに、ふやけた瞳に夕日が射す。前国王の葬儀が終わって王宮に人が戻れば何が起こるか分からない。何よりも悲劇の舞台となる温室に長居すべきではないだろう。フィーユは傍らに置いていた本を両手で抱きしめると、きっとこの本が助けになってくれることを信じて悲しみを誤魔化すと勢いよく立ち上がった。
温室には初めて来たはずだというのに、黄昏色に染まった景色はどこか懐かしさがあった。ランドセルを背負った小学生や買い物袋を両手にぶら下げた主婦が横を走り抜けていく幻覚まで見えてくるようで、現実の世界と変わらない夕日がフィーユの心から余裕を奪う。
「ねぇ、待って」
早く帰らなければという思いに急き立てられて次第に早足になっていく中で投げ掛けられた声。過ぎていく空気に紛れてしまいそうな遠慮がちな声ではあったけれど、確かに心に響いた。
「っ、何!」
声の主を視界に捉えつつも、前へ進もうとする身体を簡単に止めることができず。通り過ぎようとしたフィーユに対し、その人影はフィーユの細い腕を掴むと、いとも簡単に引き寄せてしまう。予期せぬ力が加わり、フィーユの身体は後ろへ傾く。倒れてしまいそうになって思わず目を閉じるも、しっかりとした胸板に受け止められ、想像していたほどの衝撃は感じなかった。
「ごめん!大丈夫?」
目を開けるのを躊躇っているうちに両肩に手が触れ、くるりと後ろを向かされる。手付きは強引だったけれど、その声は慌てているような、労わるような優しさを含んだものだった。肩に触れていた手はすぐに離れていったが、人の気配はすぐ目の前に感じる。フィーユが目を開けるのを待っているようで、恐る恐る瞼を持ち上げたなら、不安を滲ませた彼と目が合った。
「大丈夫?」
そう改めて尋ねられ、フィーユは自分が疲れと緊張で呼吸を乱していることに気付いた。思い出したように息苦しさに襲われ、咄嗟に座り込めば、目の前の彼も慌ててしゃがみ込んだ。心配そうに覗き込んでくる琥珀色の瞳も、傾げた顔に掛かる濃紺の髪も、整った顔に似合わない砂で汚れた作業着も、小説で読んだ通りのものだった。
「アーティーさん、ですか?」
「え、どうして俺のことを?」
「ずっと、会いたいと思っていたんです」
落ち着いていく呼吸に反して、胸の高鳴りは激しさを増していく。小説の中で優しかったアーティーはきっと味方になってくれると信じていた。だから、ずっと会いたいと思っていたはずだったが、実際に会ってみると純粋に嬉しくて、まるで一目惚れしてしまったかのような色付きを感じた。これは本来あるべき小説の展開がそうさせているのかもしれないと思えるほど不自然な感情だ。
「貴女がそう言った後で、嘘くさいって思われるかもしれないけど…昨日の追悼式で貴女を見た時も、今ここで見かけた時も、ずっと探していた人に出会えたみたいに嬉しかったんだ」
まるでこの出会いが運命であったかのような物言いに、フィーユは頬が熱くなるのを感じて、思わず目を伏せる。その様子に困らせたと思ったらしいアーティーが「変なこと言って、ごめん」そう言って眉尻を下げるから、余計に反応に困ってしまう。
「それと引き留めてごめんね。急いでいたんでしょ?」
「いえ、急いでいたわけではないんですが…ただ、日が沈む前に帰らないと」
「そっか。それじゃ、途中まで送ってあげるよ」
アーティーが水を撒いたのか、温室の草花には露が散りばめられており、その光景は明かりが灯り始める夕方の街並みのような温かさが感じられる。仕事が忙しいはずだというのにアーティーはフィーユの歩幅に合わせて歩いてくれるから、それに甘えることにした。
「また今度、ゆっくり話がしたいんだけど、会いに行っても良いかな?」
「アーティーさんはお仕事で忙しいんじゃないですか?」
「まぁ、そうなんだけど。時間を作って会いに行くよ」
「ありがとうございます…っ、あれは」
他愛ない会話を繰り返しているうちに温室の出入り口が見えてくる。そして、その手前に二つの人影があることに気付いたフィーユはアーティーとの会話も忘れ、表情を強張らせた。光が差した扉の前に立つ二人は逆光で黒く染まり、顔が見えない。無暗に人と関わるべきではないと思いつつも、ここで引き返しては不自然だろうと歩みを進めるしかできず。緊張をそのままに近づいた先で、二つの影に色が浮かび、彼らの笑いが混じった声が聞こえてくると知った人物のそれに安堵した。
「コペリさんと、エルノア国王…どうして」
思わず二人の名前を口にしたところで、挨拶もなしに失礼だっただろうかと気まずくなるも、こちらを振り向いた二人の表情はフィーユの登場を歓迎するものだった。何かを企んでいるようにも見える様子に「あの、何か?」そう尋ねる声が掠れた。
「国王様は、フィーユ様に疲れを癒してほしいとのことです」
「いえ、そうではなく…君が今日一日どう過ごしていたのか気になって様子を見に来ました」
「追悼式や葬儀にお疲れの中、着替えもせずに探して会いに来られたのですから、余程、気掛かりだったのではないですか?」
意味ありげな言葉を繰り返すコペリに決まり悪くしたエルノアが視線を鋭くするも彼女は気付かぬふりをしているのか、澄まし顔でそっぽを向いた。葬儀を終えて黒一色の装いとなっていたエルノアの威圧感に怯んでいたフィーユは気軽に話をしているコペリに感心してしまう。
そんな終わりの見えない二人の会話に入っていけずにいたところで、ふと先程まで隣にいたアーティーの姿がないことに気付く。一介の庭師が国王の前に現れるのは相応しくないと思ったのかもしれないが、一言声を掛けてくれても良いのではないかと唇を尖らせる。
「そろそろ、行きましょう」
「え?」
「散歩に付き合って下さい」
話を聞いていなかったフィーユはエルノアが唐突に手を差し出してきたことに困惑する。目をぱちくりさせるフィーユに気付いているのかいないのか、コペリは「是非、いってらっしゃいませ」そう言ってフィーユが抱えていた本を奪い取る。まるで娘をデートに送り出す母親のような満面の笑みに返す言葉もなく、エルノアの手を取ることにした。
温室の外には数人の従者が待機していた。既に見慣れた顔ぶれではあったが、彼らが妖精に対し警戒を解かないのと同じように、フィーユの中にある感情の見えない彼らへの不信感が薄れることはなかった。
「いつも、こんなに大勢を連れて歩かれるんですか?」
「昨日今日と客人が多いので警備を強化しているだけで。普段はエレンタンと手前の騎士二人が付く程度です」
「そういえば、エレンタンさんの姿が見えませんが」
「僕が休んでいる分、働いてくれています。自分が大変になると分かっていながら、僕に喪に服せと言って仕事を取り上げるので困った人です」
不満そうに言いつつも、エレンタンの気遣いが嬉しいと顔に書いてある。いくら国王であるとはいえ、父親が亡くなったのだから公務から解放されたいのは当然であろう。納得する一方で、そんな状況下で彼はどうして自分の元へ来たのだろうと疑問が募る。
尋ねてみようと思ったけれど、口を開いた瞬間に彼がこちらを向いて「散歩ついでに王宮を案内しましょう」と声を掛けてきたため、タイミングを失う。これまでの彼の唐突な言動から察して、きっと深い意味はないのだろうと結論付けたフィーユは国王の気紛れに付き合うことにした。
続く