#32 選択
布団を頭まで被れば少し息苦しいけれど、何も見えない暗闇と体温が溶け出した温もりにホッとする。それは現実の世界と変わらぬ空間で、布団から顔を出せば住み慣れた自分の部屋に戻っているのではないかと期待させるものだった。けれど、コンコンと分厚い扉をノックする音と遠慮がちに近付いてくる足音に家族のものとは違う距離を感じたフィーユはため息一つ溢すと仕方なしに布団から顔を覗かせた。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「いえ…」
夜を迎えた室内はベッドサイドのランプの明かりが揺れているだけ。色のない空間に寂しい印象を抱きつつも、エルノアの顔がぼんやりとしか見えない状況は都合が良かった。
「具合が悪いと聞いて様子を見に来ました」
ベッドの横に膝をつき、心配そうにこちらを覗き込んでくる眼差しにチクリと胸が痛む。昼間から体調が悪いと言って布団に篭っているが、実際は至って健康であった。これも全てリズメリーとの約束を果たすためなのであるが、食事も取らず寝たふりを続けていると自分は何をしているのかとバカらしくもなってくる。とはいえ、祭りの当日になって体調を崩したなどと言えば、いかにも祭りに参加したくなくて仮病を使っているようだ。
心配してくれているエルノアには申し訳ないが、頭痛がするといって苦痛に顔を歪ませて、力が入らないフリをした手足をだらしなく投げ出して、弱々しい声で返事をする。これを明日まで続ければ、エルノアのほうから一緒に祭りに行くのは諦めようと言ってくれるはずだ。
「そういえば、昼間はリズメリーが迷惑を掛けたそうですね」
「あ、いえ…それは」
「リズメリーは昔からヒステリーを起こしては周囲を困らせていました。最近は落ち着いていると思っていたのですが、本質は変わらないようですね」
従者からどういった報告を受けたのかは分からないけれど、彼の声音は怒りよりも落胆の色が強かった。以前、リズメリーが切っ掛けで長老会とフィーユが対立することがあったけれど、その時も同じ色を浮かべていたことを思い出す。二人の婚約の話が生まれる前からの決まり事であったとはいえ、リズメリーがここまでエルノアを悩ませるのであれば、もっと他に王妃の座に相応しい女性がいるのではないかと思ってしまう。そして、そんなフィーユの心情を察してかエルノアは「とはいえ…」と決まり悪そうに口を開いた。
「僕はリズメリーを簡単に見限ることはできません。彼女がこれまで王妃になるべく努力してきたことを知っていますから」
それは王宮の内情や各国の情勢について学ぶことから始まり、礼儀作法を徹底的に身に付けると同時に見聞を広め、社交界での地位を確立したことを指しているのだろう。精神面の不安定さが全てを台無しにする可能性があったとしても、エルノアはリズメリー以外の女性を考えていないらしい。
「そう思うのでしたら、もっとリズメリー様のことを考えて差し上げて下さい」
今までも何度となく言ってきた言葉であったけれど、今回のそれは強い感情が込められていた。妖精への差別が解消されてフィーユは自由の身となり、エルノアはリズメリーと結ばれる。三人が思い描くラストは同じであるはずだというのに足並みが揃わないことにフィーユは随分前から苛立ちを感じていた。そして、何よりも腹が立つのがエルノアとリズメリーの仲を取り持つことに抵抗を感じている自分自身だった。
「分かっています…なので、夜長祭ではリズメリーをパートナーにしようと思います」
「え…」
「君が体調を崩したと聞いて大方の想像はつきました。それに、途中から病気のふりが疎かになっていましたよ。演技をするなら、最後までしなければ」
全て気付かれていたのだと知り、肩の荷が下りてホッとしたのは一瞬で、エルノアを騙そうとしていたことへの罪悪感から、ベッドに横たえていた身体を恐る恐る起こして彼と向き合う。暗い室内でランプの光に浮かび上がった彼の表情はいつもと変わらなく見えたが、居心地の悪い空気は居座ったまま。
「何か言うことは、ありませんか?」
「…体調が悪いと嘘をついて、すみませんでした」
「それだけですか?」
「…はい」
フィーユの答えにエルノアの表情に影が落ちて見えたのはランプの炎が揺れたせいだろうか。それを確かめる間も与えぬうちにエルノアは立ち上がり、去っていこうとする。何かが間違っていたような気がするけれど、リズメリーとエルノアの為にもこれで良かったのだと言い聞かせるよりほかない。
「夜分遅くに長々と話し込んでしまって、すみませんでした…今夜はゆっくり休んでください」
エルノアが扉を開けると温かな廊下の光が彼の後ろ姿を照らした。そのまま、振り返ることなく去っていく彼と音もなく閉ざされる扉に、フィーユは思わず目を伏せる。エルノアとリズメリーの仲が改善されることを願っていたはずが、得体の知れない何かが胸を締め付けてくる。幾つもの感情に悩まされ本当に具合が悪くなった身体を休めるべくベッドに身を沈めるも、今夜は眠れそうになかった。
「祭りまで時間がないの。そっちは良いから手伝って」
「これはホールに、この飾りはエントランスへ」
寝不足のまま迎えた朝はいつになく慌ただしいものだった。従者らの始業時間になると同時に部屋の外を忙しなく行き交う足音と声がやけに耳につく。仮病は呆気なくバレてしまったが、とてもベッドから起き上がる気にはなれず、食事も着替えも断って布団の中に引きこもっていたフィーユは早く今日が終わることを願うばかりだった。
「失礼致します。フィーユ様、少しでもお食事を召し上がって頂きたく、勝手ながら軽食をご用意させて頂きました」
「コペリさん…申し訳ないんですが、あまり食欲がなくて」
「エルノア国王様に仰せつかっておりますゆえ、食べて頂かなければ私が叱られてしまいます。それと、この手紙を読んで頂きたいのです」
軽食がのった台車に添えられていた手紙にフィーユは仕方なく身体を起こす。淡いピンクの花があしらわれた封筒から便箋を取り出して広げると少し読みづらいとさえ感じるほど美しい文字で夜長祭について書かれていた。
まずは昨夜話した通り、リズメリーのパートナーになることを謝罪する一文から始まったそれだが、決してフィーユをないがしろにするつもりはないこと、ましてやフィーユに祭りを欠席してほしいなど望んでいないことが記されていた。会場への入退場はリズメリーをエスコートするが、フィーユには傍らにいて欲しいのだそうだ。既に祭りの参加はすべきでないとしていたフィーユにとっては気が重くなる話であった。
「フィーユ様。今から大急ぎで祭りの準備をしなくてはなりません。忙しくなりますゆえ、食事を取られておいたほうが宜しいかと」
「ま、待って下さい。私は参加するつもりなくて…それにドレスもリズメリー様に譲ってしまったので…」
「ドレスの準備はもう出来ております。リズメリー様の一件を聞いてからすぐに持ってきて頂きました。既製品ではありますが、マダム・ビターが生前にデザインされたドレスなので、気に入って頂けると思います」
マダム・ビターがデザインしたドレスであると聞いただけで、それはもう素晴らしいものであるに違いないという期待に胸が踊る。先程まで祭りには参加しないほうが良いと後ろ向きだったくせに、早く準備しなければという思いからコペリが用意してくれた食事へ手が伸びる。そんなフィーユの様子にコペリも安心したのか、ドレスはマダム・ビターの秘書のリリアナ様が持ってきてくれたのだと饒舌に語る。
「マダム・ビターさんが亡くなって、リリアナさんのことを心配していたんですが、もう仕事をされているんですね…」
「はい。マダム・ビター様には何人かの弟子がおりますゆえ、後継者を育て上げるべく意気込んでいらっしゃいました。エルノア国王様やフィーユ様には日を改めてご挨拶に来るとのことでした」
そんな話をしている間に台車の上に置かれた皿は空になり、昨日の昼から何も食べていなかったフィーユは満たされた気分でコーヒーを啜った。のちに、早速ドレスが見たいと立ち上がったなら、コペリは食器や台車を片付けるのを後回しにして、ドレスを取りに向かうのだった。
「あの、私…コペリさんが選んでくださったドレスも素敵で、嬉しくて、本当は着たかったんです」
「はい。分かっております」
「リズメリー様に譲ったことをずっと後悔していて、コペリさんにも謝りたくて…」
「大丈夫でございます。フィーユ様がお優しい方で、私は嬉しく思っておりますゆえ」
目の前に用意されたドレスはマダム・ビターの名に恥じぬ美しいものだった。けれど、それを見たフィーユは先程までの淡く色付いた感情が萎れていくのを感じた。そんなフィーユの心情をコペリも理解してくれているのだろう。穏やかに微笑んで、大丈夫だと言ってくれる彼女に幾分救われた気になる。
「若い頃に私がお仕えしていた方がよく言っておりました。家柄、パートナー、容姿、ゴシップ、そのどれか一つでも抜きに出ていたなら社交界の花になることができる、と」
「つまり、ドレスは関係ないということですか?」
「はい。少なくともフィーユ様は美しい容姿と話題性は十分にございますゆえ、自信をもって参加されてください」
「コペリさんがそう言って下さるなら、ドレスのことを引きずるのは止めにします」
フィーユがそう結論付けたところで早速、祭りの準備が進められた。コペリ以外にも何人もの侍女が部屋を出入りし、化粧にヘアセットにと慌ただしさの中心にいるフィーユは目が回りそうになる。そんな中で、周囲を囲む侍女たちがやけにフィーユに好意的であることを感じ取って、何気なくその理由を問うたなら「コペリさんが、よくフィーユ様のお話をされるものですから」という答えが返ってきた。どうやら、顔の広いコペリがフィーユの良い噂を広めてくれているらしい。更に、記者会見後に商店街で買ったものやバザーでの購入品、詩集探しのお礼、などと事あるごとにフィーユが王宮で働く者たちに差し入れをしていたことも効果的であったようだ。
侍女たちから、スキンケアやマッサージなど至れり尽くせりな待遇を受けつつ、フィーユ自身は何もせぬうちに着替えまで終えると鏡の前へ案内された。デコルテ部分は紺の生地に映える白い宝石が散りばめられ、フィッシュテールになった裾は水色のグラデーションが美しい。思わず自身に見惚れていると、コペリは満足げに微笑んだのち、部屋を暗くして見せた。すると、レースが幾つも重なったスカートは内部から光が浮かび上がりグラデーションを際立たせ、白い宝石は自ら発光して星空のように浮かび上がる。それは周囲から感嘆の声が漏れ聞こえるほどの美しさだった。
「最後の仕上げを致します。目を閉じてくださいませ」
ドレスの光だけとなった部屋に聞こえたコペリの声に従って目を閉じたなら、顔全体に霧状の液体が吹き掛けられた。ほんのり冷たいそれに驚いて目を開けると、暗闇に沈んでいた自分の顔が太陽の下にいる時と変わらぬ明るさで浮かんでいるのが見えた。これで暗闇でも相手が誰であるか一目瞭然であると納得しつつ、現実の世界にはないそれが不思議で思わず鏡に映る自分の顔に触れてしまう。
「コペリさん。その液体で私の羽を光らせることはできますか?」
「勿論でございます」
鏡を見ていて気になったのは顔とドレスの光に隠れてしまった背中の羽が暗い印象を与えていることだった。影が落ちた羽はカラスや悪魔のようなマイナスなイメージに繋がると思ったフィーユがコペリに頼んで液体をかけてもらったところ、羽は天使が持つそれのように澄んだ光を放った。どこから見ても美しいと思わせる姿に満足げに笑みを浮かべると、コペリを含めた侍女たちからも称賛の声が上がった。
「最後に、ブローチは如何なさいますか?」
コペリはまるで王妃に仕えるような姿勢で宝石箱を目の前に差し出してくる。箱の中に鎮座する4つのブローチはそれぞれ違った色の光を放ち、自らを選んでほしいと言わんばかりだ。月と猫はダンスを踊り、星とゴーストは酒を片手に語らうという説明を思い出しながら、フィーユが手に取ったのは黄色の星だった。
「星を選ばれた理由を伺っても宜しいですか?」
「本当は猫が好きなので選びたかったんですけど、ダンスは踊れないですし…男性で可愛らしいゴーストを選ぶ人は少ないと思いますし、星を選べばペアになりにくいかなと」
「確かに、毎年行われている祭りでゴーストのブローチを付けている方は稀な気が致します」
「といっても、私とお酒を飲みながら語りたいなんて人は元々いないと思いますけど」
自嘲を含んだ笑みでそう呟くも、コペリは真剣にそれを否定する。今夜の祭りでフィーユは誰よりも視線を集め、誰もが関心を寄せるだろうと。しかし、フィーユはそうなることを憂鬱に思う自分を否定できず。胸元に付けられたゴーストのブローチに夜長祭が何事もなく終わるよう祈りを込めるのであった。
続く




