#25 願い事
N35番街は店なのか家なのかも分からない建物が並ぶばかりの薄暗い場所であった。馬車が通ることができない細い道であるため、エルノアと肩を並べて歩きながら目的の喫茶店を探していたフィーユは、現実の世界で最後に立ち寄った喫茶店もこんな人通りのない寂れた道沿いにあったことを思い返していた。
「余白という看板。この店で間違いないようですね」
「この店…やっぱり一緒」
辿り着いた喫茶店・余白の外観には見覚えがあった。窓から中を覗いてみても温かみのある木製のカウンターやその奥に並んだ沢山の本は記憶の中にあるそれと完全に一致する。緊張から中々動き出せずにいたところ「入らないのですか?」とエルノアに急かされ、フィーユはごくりと息を飲んでドアノブに手を伸ばした。
「おや、これは珍しいお客さんで…」
外に兵士を残して店内に入った二人をカランカランッとドアベルの音が出迎える。その音に気付いてカウンターの奥から顔を覗かせた喫茶店のマスターは思わぬ来客に驚いたようで、ぽつりと呟いたきり接客を忘れてしまっている。フィーユも同様に、見覚えのあるマスターの顔に言葉を失っていた。
「フィーユ。まずは飲み物を頂きましょう」
「あ、はい。じゃあ、私はコーヒーを下さい」
「僕も同じものを」
店内に戸惑いが立ち込める中、唯一エルノアだけが自然な流れでカウンター席へ歩みを進める。そして、フィーユの為に椅子を引いてくれるから、一先ず歩き疲れた身体を休めることにした。注文したコーヒーが出てくるまでの間、店内を見渡して記憶の中にある景色と照らし合わせてみる。さすがに棚に並んだ本のタイトルまで同じというわけではなかったが、窓際で目を光らせる猫の置物や店の隅で永い時を刻む柱時計、夕日色の温かな間接照明まで全てが完璧だった。
「お待たせしました」
コーヒーの香りに我に返ったフィーユは目の前に置かれたカップの中で揺れる黒い水面に2、3度息を吹きかけたのち恐る恐る口付けた。流れ込んでくるコーヒーの熱さに僅かに顔を顰めるも、後に残る苦味と酸味が絶妙なそれに口角が上がる。
「それで、国王様と巷で話題の妖精様が、一体どうして此処へ?」
マスターから話を切り出してもらえたのは好都合だった。エルノアが隣にいるため、現実の世界について話すことができないのはもどかしいが、まずはこの喫茶店を知る切っ掛けとなった楽譜について尋ねることにする。
「楽譜ですか…あれは店の前に置かれていたものなので、私も詳しくは…」
「店の前にですか?」
「私が本好きだと知っている誰かが厚意で置いていくようで。たまにあるんです」
「そうですか…それじゃあ、もう一つ。日本や東京という言葉に心当たりはないですか?」
この場所は現実の世界、東京にあった喫茶店と関係していると思い、最後の望みを込めて問うもマスターは顔を顰めるばかり。困らせてしまったことを察したフィーユが慌てて謝るも、彼は腕組みをして黙りこくってしまう。
「フィーユ。トウキョウという言葉を僕も初めて聞きましたが、どういう意味ですか?」
「あ、えと…町の、名前です」
「響きからして、リュウ国周辺にある町でしょうか…」
好奇心で輝く瞳で見つめられ、どうしたものかと困っていたところ、何やら深く考え込んでいたマスターが「そういえば…」と口を開いた。新たな情報を期待させるそれにフィーユとエルノアが揃って視線を向けたところ、彼はその続きを発することなく店の奥へと姿を消してしまい、残された二人の間に気まずい空気が流れる。
とはいえ、店のマスターである彼はきっとすぐに戻って来るだろうと思っていた。それまで何の会話もないまま、コーヒーを飲んで間を持たせるばかり。そうしているうちに10分以上が経過し、テーブルをコツコツと指で叩くエルノアに苛立ちが見え始める。
「すみません。奥に仕舞っていたもので…」
マスターが戻ってきたのはエルノアが席を立とうと腰を浮かせた瞬間だった。彼は両手に一冊の本を抱えており、それに興味を持ったエルノアが何事もなかったかのように椅子に座り直すから、早速本題に入るべくフィーユは本について問うた。
「これは例の楽譜と一緒に拾った写真集で。ほら、ここにTOKYOの文字が」
カウンターの上に置かれた本をエルノアと揃って覗き込めば、そこには確かに東京と書かれていた。何より驚くのは表紙にライトアップされた東京タワーが堂々と映る写真が使われていたという点だ。エルノアとマスターはこの世界に存在しない東京タワーと周辺に散らばるビル群の光を作りものであると捉えているようであった。
その一方でフィーユは久しぶりに触れた現実の世界に密かに涙を浮かべる。震える手で恐る恐るページを捲っていけば東京駅にスクランブル交差点、浅草の雷門まで、その写真集には東京の全てが詰まっていた。
「スカイツリーがあるってことは、そこまで昔の写真ではないはず」
美しく描かれた小説の世界と比べて、無秩序で無機質な現実。けれど、音や匂い、そして時の流れを感じさせるから、今にも動き出しそうな景色を一つひとつ大事に追っていく。そんな中で辿り着いた一枚にフィーユは「この景色…」そうぽつりと呟いた。それは他の写真と比べて突出したものなどない、日常のワンシーンを切り取っただけの写真だが、フィーユにとっては強く脳裏に焼き付いた景色であった。
「同じ、どうして…?」
夜に混ざることのない白い雪が歩道橋に舞い落ちる。その下では踏切の赤いランプが不気味に光り、何とも不穏な空気を漂わせている。今、目の前にある写真は確かに出島ユキが最後に見た景色と同じだった。あの時、ユキが喫茶店で借りた小説を持っていたのと同じように、この写真集を手にすることができたならピースの一つとなる気がした。
「あの…無理なお願いだとは思いますが、この写真集を譲って頂けませんか?」
あまりに唐突な願いにマスターはあんぐりと口を開けた。のちに、フィーユが何故そのようなことを言うのか探るように鋭く細めた目で見つめられるから、居心地悪くなるけれどフィーユは決して彼から目を逸らさなかった。
「申し訳ないのですが、この本は私の気に入りで…」
「そう、ですよね…」
本当は店の奥から大事に抱えて持ってくる姿を見た時から分かっていた答えであった。それでも、現実の世界に帰りたい一心でここまで頑張ってきたフィーユにとって漸く見つけたピースにしがみ付きたかった。
「幾らであれば、譲って頂けますか?」
少しの間、借りられるかどうか確かめてみようか。それとも、同じ写真集がこの世界のどこかにあることを信じて探してみようか。断られたショックの中で考えていたフィーユに聞こえてきた声は力強く、フィーユの願いを叶えるためという思いが伝わってくるものだった。驚いてエルノアのほうを向けば、幾つもの難題を乗り越えてきた国王らしい凛々しい眼差しに、不覚にもドキリとしてしまう。
「私はこの本を手にした瞬間、こことは違う世界が見え、平凡で退屈だった日々に花が咲いたような気分になりました。きっとそれはお金では買えない特別な感情ではないでしょうか」
「…つまり、幾ら積まれても譲れないと?」
「エルノア国王様のご期待に沿えず、申し訳ないのですが…」
自分のせいで始まった二人の遣り取りをフィーユは冷や冷やしながら聞いていた。国王に対しNOという答えを返すのは相当の勇気がいったはずだ。それでも、譲れない思いがそこにあるのなら諦めるより他ないのかもしれない。フィーユがそう感じたようにエルノアも同じ結論に至るだろうと思われた。しかし、次の瞬間に「それでは、この本を超えるものを持ってくれば考えてもらえますか?」そんなことを言い出すものだから、驚いてしまう。
「エルノア国王。私の為に…そこまでしなくても。もう諦めましょう」
「いえ。君がそこまで必死な姿を見せたのですから、叶えてあげたいと思うのは当然です」
「っ、ですが…」
「それに、これは僕の我儘でもあります。僕は君の涙を見たくないというね」
そう言ってエルノアがフィーユの目の縁をなぞると、そこに溜まっていた涙が指先に落ちる。そこで漸く自分の涙が溢れ出しそうであったことに気付いたフィーユは顔を真っ赤にした。そんな二人のやり取りを見ていたマスターもまた、何か思うところがあったらしい。あれほど強い意志を感じられた彼の瞳が揺らいだように見える。
「そうですね…エルノア国王様がそこまで言って下さるのでしたら、私にも一つ叶えて頂きたい願いがあります」
「願いですか?」
国王に対して失礼を承知で乞うのだから、余程大きな願いなのだろう。余計なことに巻き込んでしまったという罪悪感が掠めたフィーユがちらりとエルノアを見やれば、意外にも彼はどんな願いでも叶えてやると言わんばかりの堂々とした面持ちだった。エルノアがいてくれて良かった。そう思ったのはこの世界に来て何度目だろう。こんなにも頼もしい彼がいてくれたなら、全てが上手くいきそうな気がしてしまう。
「馬車の窓の向こうに貴方の香りを見つけた。それだけで宝物に触れたような、思い出に浸るような、貴方に抱きしめられているような幸福を感じる。貴方も寂しくなったら深呼吸をして、きっと傍にあるはずだから」
マスターが口にしたのは願いではなく愛する誰かに向けて紡がれた詩であった。唐突なそれに戸惑う二人に対し、マスターは続けて「この詩が載っている詩集を探してほしい」と願った。詳しく話を聞いたところによると、この詩は彼の亡き妻であるリコが好きな詩で、よくメロディにのせて口にしていたのだという。
「奥様はご病気か何かで…?」
「いえ。10年前、火災に巻き込まれて…なので、彼女が普段身に付けていたものも、詩集も燃えてなくなってしまいました」
「そうだったんですか」
「ちなみに、その本のタイトルや作者はご存じですか?」
「残念ながら…覚えているのは、その詩だけで」
情報は少なかったが、フィーユには詩集を見つけ出すための手掛かりがあった。そしてそれはエルノアも同じだったようで、次にこの店を訪れる際には必ず詩集を持ってくることを約束した。それまで写真集が手に入らないことをもどかしく思うフィーユであったが、暫しの別れであると自分に言い聞かせながら席を立った。
「王宮に戻ったら、すぐにリーヴァの元へ行きましょう」
喫茶店を出たところでエルノアは自信ありげに言った。王宮の図書館にある膨大な数の書物を把握している人だから、詩について知っていることがあるかもしれない。全く同じことを考えていたフィーユが力強く頷いたのを合図に二人は馬車へ戻るべく急ぎ足で路地を抜ける。
「私が無理を言ったせいで、すみません」
「素敵な詩だと思いませんか?」
「え?」
「馬車の窓の向こうに貴方の香りを見つけた。それだけで宝物に触れたような、思い出に浸るような、貴方に抱きしめられているような幸福を感じる…拙い文章ではありますが、誰もが共感できる詩だと思います」
エルノアはそこに誰の名前を当てはめて、どんな香りを想像して、そんなことを言ったのだろう。疑問に思ったのは一瞬で、ふとリズメリーのことが頭を過ると何故か憂鬱な気分になってしまった。
一方で、妖精の為に行動した結果、現実の世界への手掛かりが得られたことは喜ぶべきことであった。エルノアに協力するという答えを出したことによりマダム・ビターのドレスと出会い、会見を行って言ノ葉の関心を惹くことができたために喫茶店に行き着いた。予感が確信に変わったフィーユは妖精の差別解消については二の次だという考えを一掃し、写真集を手に入れた後に自分がどう行動すべきかを考えていた。
続く




