#2 天使
エルノアが姿を現したのは窓の外の庭園が夕日色に染まった頃だった。先程会った時よりも数年歳を取ってしまったかのような疲れた様子にフィーユは慌てて立ち上がり、気遣いの言葉を掛ける。それに対し彼は「大丈夫ですよ」と答えながらも身体は既に限界なのだろう。近くのソファに雪崩れ込むように腰掛けた。
「早速ですが、どうして君が人間の言葉を理解できるのか教えて頂けませんか?」
「人と関わっているうちに自然と、です」
「へぇ…」
妖精の中身は別の世界から来た人間であると話したところで信じてもらえないだろう。あまりに単純な答えに深く突っ込まれるのではないかと考えもしたが、答えを聞いたエルノアは興味深そうに目を瞬かせただけで、それ以上何も聞いてくることはなかった。
「もう一つ。前国王と知り合った経緯を教えて下さい」
「話せば長くなりますが…」
「構いません。追悼式で行うスピーチの参考にもしたいので」
「参考に、ですか?」
「父は過去の話を嫌い、国王として将来の話ばかりしていました。時には理想を押し付けられ…気付けば父との会話は減ってしまった」
その為、先程フィーユから聞いたドネヘシルの想いは意外なものであり、知ることができて良かったと話すエルノアに、次はどんな話をすべきか悩んだフィーユは本のページを捲るように妖精の身体に残された過去を振り返ってみる。
フィーユがドネヘシルと出会ったのは春緒草という白く可憐な花が咲き誇る川辺であった。ドネヘシルの妻であり前王妃のユウリイは春緒草が好きだったらしく二人で花見に来たのだ。川辺で暮らしていたフィーユは多くの兵を引き連れてやって来た二人に警戒しつつも、仲睦まじく花を愛でる様子を見ているうちに二人の幸せを願うようになった。
「春緒草は冬の終わりに三日間だけ咲く花です。お二人は毎年見に来られるようになりました。ですが、今から20年ほど前…多くの兵を引き連れてやって来たのはドネヘシル前国王だけでした」
「ユウリイは僕を生んですぐに亡くなったそうです。その年だったのかもしれません」
「はい。ドネヘシル前国王はひどくやつれたご様子でした。当時は前王妃を亡くした哀しみから食事も睡眠も真面にとられていなかったようです」
フィーユは虚ろな目で花の中に佇む国王を放っておくことができず人間に近づく危険を承知で彼の前に姿を現した。妖精が纏う空気は安らぎを与え、微笑みは傷を癒してくれる。その効果があったのかは分からないが、あんなにも不眠に悩まされていたドネヘシルは春緒草の絨毯に倒れこむようにして眠りに落ちた。
その後、目覚めたドネヘシルは幾分すっきりとした表情で妖精に王宮へ来るよう言った。その言葉をフィーユは理解できなかったが、悲しい色を浮かべる彼に背を向けることはできず、差し出された手を取ったのだった。
「王宮に招かれた私は何をするでもなく、ドネヘシル前国王のお傍にいました。元気を取り戻していく日々も、国の為に尽力する日々も、病床に臥せてからの日々もずっとです」
「恐ろしいと思っていた父も普通の人間だったようですね」
この身体にフィーユの記憶が残っているとはいえ、それは人間でいう幼少期の記憶のように薄らとしたもので、今話した内容の殆どは小説に書かれてあったことだ。その為、どうしても淡々とした語り口調になってしまうが、エルノアは最後まで話を聞くと「貴重な話を聞かせて頂き、感謝します」そう言ってくれるから、フィーユは緊張を僅かに解いた。
「時間をとらせてしまいましたね。昼から何も食べていないと聞いたので、少し早いですが夕食を用意させましょう」
「エルノア国王こそ、食事はとられましたか?」
「僕は…」
「食欲はないかもしれませんが、何か口にされませんか?」
言った後で余計なお世話だっただろうかと不安を滲ませるフィーユに対し、彼は特に気にする素振りを見せず「では、君と同じものを頂きます」と姿勢を崩した。それを合図に侍女がパンやサラダ、そして皿いっぱいのリルをテーブルに並べた。リルは小説の中で妖精が好んで食べるとされていたものだ。現実にはないそれに興味をそそられたフィーユが皿を覗き込めば瞳の中で鮮やかな光となって煌めいた。
「いただきます」
イチゴより少し小さいくらいのリルを摘まんで目の前に翳したなら、その透き通った色に息を呑む。サファイアのような青色は口にすることを躊躇わせるも、好奇心のほうが勝って口に放り込んだ。唇に伝わる冷たさと舌先に触れた瞬間に広がる甘さに思わず目を見開く。恐る恐る歯を立てればカリッと固い皮。砂糖でコーティングされているような食感は現実の世界で食べた林檎飴を彷彿とさせた。皮を噛み砕くのを楽しむ間もなく中から溢れ出す甘酸っぱい実は体温にトロッと溶けていく。
「美味しい…」
この美味しさは小説を読んだだけでは伝わらなかったと瞳を輝かせたなら、目の前に座るエルノアがフッと笑みを見せた。リルはどこにでもある果実だというのに、初めて食べたかのような反応を見せるフィーユが意外で面白かったのかもしれない。
エルノアは自身が笑ったことを誤魔化すように自らも手を伸ばし、リルを摘まむと呆気なく口にして噛み砕き飲み込んだ。感動するほどのものではないと澄ました顔が癪に障るフィーユだったが、今は口の中に残るリルの甘さを堪能することにした。
「先程はすみませんでした」
「え?」
「動揺していたとはいえ、君に冷たく当たってしまいました」
「お父様が亡くなられたんです。誰でも取り乱します」
「…父は病床に伏せてから、弱い姿を見せたくないと限られた人間しか部屋に入れませんでした。息子である僕にも来るなと言っておきながら、なぜ妖精がいるのかと思ってしまったのです」
小説では描かれていなかったエルノアの想いに彼の印象が変わる。小説の中でエルノアは国のために尽力する良き王であった。一方で、自身のことや王宮内部のことには無関心で、フィーユに対しても一切関わろうとはしなかった。
そんな彼が唯一、大切にしていたのが婚約者のリズメリーだ。幼い頃から親しくしている間柄であるとはいえ、彼女に向ける柔らかな笑顔は、ないがしろにされていたフィーユにとって感じの良いものではなかった。小説を読みながら、どうしてもっとフィーユに優しくしてあげないのかと怒りもしたが、今思えば人間の言葉を持たない妖精が相手では距離を置かれるのも仕方なかったのかもしれない。
「改めて、君には感謝しています。君さえ良ければこのまま王宮に留まってもらって構いません。相応の待遇を与えましょう」
「出て行けとは言わないんですか?」
小説の中でもエルノアは妖精を王宮の外へ追い出そうとはしなかった。その理由が気になって問うたなら、彼は窓の外に視線をやり「今は妖精が生きにくい世の中です」そう申し訳なさそうに答えた。
妖精は人間に安らぎを齎すとして崇拝されていた。しかし、ここ数十年の間に状況は一変し、今では利用価値のあるものとして扱われ、自然の中で生きる妖精を狩り、高値で売買する行為が日常的に行われているという。そうして、貴族や金持ちに買い取られた妖精の多くは奴隷ように働かされたり、コレクションの一部として扱われるのだそうだ。更に近頃は、妖精を痛めつけることを快楽とし、犯罪行為を繰り返す集団が問題視されているそうだ。小説に描かれていなかった事実に怯えると同時に、エルノアの優しさを知ったフィーユは現実の世界に戻る方法が見つかるまで世話になることを選んだ。
とはいえ、王宮は本当に安全なのだろうか。小説の中で起こった温室の火災を思い返してみると、普段は火の気がない場所でのそれは妖精を快く思わない誰かが火を放ったのではないかと思えてならなかった。
「妖精は自然を好むと聞いたことがありますが、君の部屋も庭園や温室のような…」
「っ、あの。できれば普通のお部屋を…狭くても汚れていても良いので」
温室に行くことだけは何としても避けたかったため、彼の話を遮って伝えたなら、エルノアは意外そうな顔をしつつ「それなら、この部屋を使って下さい」そう言ってくれた。少しずつ小説の展開から逸れていくことに安堵する一方で、こんなにも豪奢な部屋を使って良いのかと申し訳なさに眉尻が下がる。そんなフィーユに構わず、彼は更に世話役をつけようと言い出すから、何か企みがあるのではないかと疑ってしまう。
「そんなに怖い顔をしないで。僕はただ長年、前国王に仕えてくれたことに感謝しているだけです。できれば、今後は僕の下に仕えてほしいと思ってはいますが…」
「言葉を話す妖精が貴重だからですか?」
「…先程も言った通り、妖精は酷い差別を受けています。ここまで放置していた僕に責任があることは自覚していますし、僕の世代で解決したいと思っています。ただ、一度根付いてしまった差別意識を変えるのは簡単なことではありません」
「私が国王の傍にいれば、人々の意識を変えられると考えているんですか?」
あまりに都合が良すぎる話にフィーユは目の前の彼が国王であることも忘れて不機嫌を露わにした。けれど、エルノアはそれを咎めることはしなかった。国王として権力を振りかざすこともできたはずだというのに、申し訳なさそうに頭を下げる彼にフィーユは力を込めた拳を僅かに緩める。
「僕は今まで妖精が不当に扱われることを問題視していませんでした。妖精よりも人間を優先すべきであると無意識に思っていたのでしょう。ですが、君と出会って妖精が平穏に暮らせる世の中にしたいと強く思いました。正直なことを言うと…多くの妖精の為というよりは、君の為に」
決して良い国王を演じようともせず、素直に告げられた言葉が胸を打つ。出島ユキがこの世界に来た意味があるとするならば妖精たちの未来の為なのかもしれない。ここは小説の世界なのだから、進んだ先にはきっと幸せな結末があるはずだ。現実の世界に戻る方法について何の手掛かりもない現状では、全ての問題を解決すれば帰ることができるかもしれないという可能性に縋るより他ない。
「分かりました。この素敵な部屋を使わせて頂くお礼程度の協力はします」
フィーユの答えにエルノアは安堵の息を吐くと、まるで呼気と一緒に全身の力も抜けてしまったかのようにソファの背へと沈み込んだ。エルノアがフィーユの為と言ったように、フィーユ自身もこの世界を良くしたいなどという真っ直ぐな理由でなかったけれど、二人が同じ方向へ向かって進むことを選んだのは確かであり、間違いではないはずだ。
「それと、先程の世話役の件なのですが…コペリという方にお願いできませんか?」
エルノアが味方でいてくれるとはいえ、王宮での暮らしに不安があったフィーユが世話役として指名したのは、小説の中で話好きの侍女として描かれていた女性だ。彼女は読者に近い考え方を持っており、小説を読みながら思ったことを代弁してくれていた印象がある。何より彼女を選んだ一番の理由は侍女らしからぬ人脈の広さとそれ故にあらゆる情報を持っているという点だった。
「彼女と親交があったとは意外ですね」
「いえ、そうではなく。私が一方的に知っているだけです。かなりお話好きな方のようですね」
「ピーチクパーチク鳥のような女性で、僕はどうも苦手ですが…君がどうしてもと言うなら世話につかせましょう」
思い出すだけで彼女の声が聞こえてくると耳を抑えるエルノアに意外な一面を見た。その後、フィーユが正式にコペリを指名したならエルノアは諦めた様子でお喋り好きの侍女を連れてくるよう側近に命じた。コペリを待っている間「彼女に嫌気がさした時はいつでも言って下さい」と再三言って聞かせられるから、エルノアはよっぽど彼女が苦手なのだと意外な弱点に思わず笑ってしまう。
「失礼致します。国王様がお呼びだとお聞きしたのですが、どういったご用件でしょうか?妖精様もいらっしゃるということは、彼女に関することですか?それとも別の?」
「…あぁ。彼女に関して頼みたいことがある」
「ということは、妖精様のお世話をすれば宜しいのでしょうか?あぁ、ですが、私は妖精について詳しくは存じておりませんゆえ、行き届いたお世話ができるかどうか…そもそも、五十間近の私よりも適任者がいるのではないでしょうか?」
部屋に入ってきた瞬間から始まった言葉の羅列にフィーユは想像以上であると目を丸くした。その反応に気付いてか、エルノアは代えるなら今のうちだと言いたげな視線を向けてくるから一瞬悩んでしまうも他に候補がいないこともあって、にこりと微笑んで答えを返す。その後、フィーユは些か緊張した面持ちでコペリの前まで行くと「フィーユと申します。宜しくお願いします」そう言って頭を下げた。
「なんて愛らしいのでしょう。お話をされるというだけでも驚くところ、見目の良さも桁違いです。仕事柄、美しい女性を何人も見て参りましたが、群を抜いております。国王様もそうお思いに…失礼致しました。国王様はリズメリー様一筋でございますのに…」
「…それで、引き受けてくれるのか?」
「勿論、光栄にございます。ただ先程も申した通り、至らぬ点があるかもしれません。その都度、ご指導頂ければと思います」
「あぁ。分かっている」
二人の話を聞いて自分が人間ではなく妖精であるのだと改めて思い知ったフィーユは表情に影を落とす。一方で、妖精の世話役を嫌な顔一つせずに引き受けてくれたコペリに感謝し、できるだけ迷惑を掛けないようにと思うのだった。
「コペリ。早速だが、今夜の追悼式に彼女を出席させたい。早急に準備を頼む」
「それは素晴らしい案でございます。きっと今までにない式典になると思います。それでは急いでフィーユ様にピッタリのドレスをご用意しなければなりませんね」
小説の世界らしい性急な展開に慌てるも、進み始めた物語を簡単に止めることはできない。公の場で国王の傍に立てば、フィーユの存在は多くの人に知れ渡るだろう。それこそがエルノアの狙いであると理解したフィーユは拒否することもできず。王族の式典に妖精が出席するのは史上初だと息を弾ませるコペリに不安を募らせていたところ、唐突に飛び込んできたノックの音によって新たなページが捲られることとなる。
「お話し中、ごめんなさい。皆さんがそろそろエルノア様に戻ってきてほしいそうですわ」
「わざわざ、リズメリーを寄越さなくとも…」
「そうやって不機嫌になるから、私でないとダメだったのではないですか」
遠慮がちに部屋に入ってきた女性にフィーユは姿勢を正したまま固まっていたのだが、エルノアが彼女の名を呼んだ瞬間、はっと目を見開いた。エルノアの婚約者であるリズメリーは小説で描かれていたよりもずっと可憐な女性だった。優しい印象を与える栗色の長い髪も空のような澄んだ青色の瞳も彼女の内面を現しているようである。
「コペリ、ドレスの色は白で、後は彼女の好みに合わせて準備を」
早口で捲し立てたエルノアは険しい表情で立ち上がるからフィーユは思わずびくりと肩を震わせる。衣服を正した際の衣擦れの音も大股でドアのほうへと向かう足音も冷たい印象で、声を掛けることもできなかった。
「ごめんなさい。エルノア様はいつもあんなふうなのですわ。感情の切り替えが唐突というか、性急というか…」
国王のことをそんなふうに言えるのはリズメリーくらいだろうとフィーユは感心する。一方で、呆れたように言いつつも彼女の表情には愛しさが滲み出て見えるから、きっと二人は小説に描かれていた通りの間柄なのだろうと微笑ましくなる。
「申し遅れました。リズメリー・レアーズです」
「こちらこそ、ご挨拶が遅れてすみません。フィーユと申します」
「本当に凄いですわ。王宮では話ができる妖精がいると噂になっておりますのよ」
「人間は妖精のことを良く思わなとお聞きしましたが…」
「それはごく一部です。私はフィーユさんのこと、綺麗だって思いますもの」
曇りのない瞳で言い切られ、フィーユは自分の味方になってくれそうな彼女に胸を弾ませた。小説の中でもリズメリーは純粋無垢で皆から好かれる女性であった。フィーユとは違い、地位も美貌も愛も全てを手に入れた完璧な彼女を羨む気持ちが僅かに掠めるも、現実の世界に戻るまで平穏な日々であることを願うなら彼女と仲良くすべきだろう。
「あの、追悼式に参加されるのですよね?良ければ準備をお手伝いしましょうか?」
「良いんですか?」
「はい。私は準備が終わっていますから。分からないことがあれば何でも聞いてください」
準備が終わっているという言葉にフィーユは首を傾げた。追悼式というのは慎ましやかに行われるものだというイメージに反してリズメリーの装いがあまりに華やかであったからだ。シンプルではあるが眩しいくらい光沢のあるマーメイドドレスと白い肌に映える赤を基調としたメイク。それは彼女にとてもよく似合っていたが、パーティーに行くようにしか見えなかった。
「今からドレスを手配しては間に合わないと思いますから、私のドレスをお譲りしますわ。コペリ、アルマにお願いして持って来てもらって」
「国王様は白をと言われておりましたが、本当に宜しいのでしょうか?白は近親者の…」
「…エルノア様がそう言うのなら良いと思うけど。きっと、皆さん驚きますわね」
悪戯を企むような笑み交じりの会話に一抹の不安を感じつつ、もうどうにでもなれと半ば自棄になっているフィーユは慌ただしく部屋を出て行くコペリを見送った。のちにリズメリーから聞いたところによると、追悼式では近親者が白を、その他の参列者が白と黒のドレスやスーツを身に纏うそうだ。白と黒は生と死を、白一色は天の使いを意味するとのことだが、そのような場では黒装束が当然の世界に生きていたフィーユにとって、理解しがたい話であった。
「天国へと導く天の使いは華やかでなければいけませんの」
「私は具体的に何をすれば良いんですか?」
「王族の追悼式では、国民が広場に集まって、代表者が天樹といわれる木にリボンを結びます。エルノア様のスピーチの後に天樹を燃やすのですが、白い灰が天に舞う光景はとても綺麗なのですわ」
リズメリーは簡単に説明してみせたがフィーユにとっては要領を得ない話であった。具体的に自分が何をすべきか聞きたいところではあるが、ノックの音がして侍女たちがドレスを運び入れ始めると、慌ただしさにそれどころではなくなってしまう。多くの侍女が忙しなく行き交う様子を目で追っているうちに広い部屋はドレスで埋め尽くされた。並べられたのはどれも白いマーメイドドレスだが、レースや光沢の違いに目移りしてしまう。
「フィーユさんは人間と違って羽がありますから、背中があいているものが良いですわね」
今まで人間として生きていたため、妖精として扱われることにチクリと胸が痛んだ。とはいえ、目の前の鏡を見た瞬間、一番に目がいくのはどうしても背中の羽だ。一般的に妖精の羽と聞いて想像するのは蝶の羽のように二枚が対をなしたるものだろうが、フィーユの背に付いているのは鳥の羽に近く存在感があった。
「これなんてどうですか?裾のレースが可愛くて私のお気に入りです」
リズメリーが指差したドレスも着てみたいと思ったけれど、フィーユはその先の一着に目が留まって、無意識のうちに歩みを進めていた。デコルテと裾部分がシースルーになったそれは一見派手な印象ではあるが、全体に施された雪の結晶の刺繍が儚げで、フィーユの心を奪ったのだ。
「そのドレスも素敵ですわよね。気に入りましたか?」
「はい、とても…」
「それでは、これにしましょう」
リズメリーの目配せで侍女たちが一斉に動き出す。フィーユが動かずとも身体にドレスが当てられ、似合うメイクが施され、少し癖のある長い金髪は艶が出るまで梳かされた。立ち代わりやって来る侍女に目を回しているうちに準備が終わったらしく、目の前に大きな鏡が置かれるとフィーユは思わず感嘆の声を上げる。
「フィーユさん、とてもお似合いですわ」
「本当にお綺麗です。妖精や天使というよりも女神様とお呼びしたいくらいでございます」
リズメリーとコペリからの称賛に謙遜する気にもなれないほどフィーユは自分に見惚れてしまっていた。正確には自分は出島ユキで、この身体は借りているようなものだと理解しつつも頭から爪先まで自由に動かすことができるし、目尻を下げて口角を上げれば笑みを咲かせることができる為、この美しさは全て自分のものであると勘違いしてしまいそうになる。
「準備ができたそうですが…」
大勢の侍女と入れ替わるようにして部屋に入ってきたのはエルノアだった。彼もまた白の装いに様変わりしており、先程の紺を基調とした服装とは違った柔らかな雰囲気にフィーユは物珍しげに見つめてしまう。対してエルノアも華やかに着飾った妖精に思うことがあったのだろう。急ぎ足で部屋に飛び込んできたというのに何を言うこともなく立ち尽くしている。
「エルノア様。ぼーっとしている暇はないですわよ」
淡いベールに包まれ、恋の始まりを予感させるような空気を振り払ったのは不機嫌そうなリズメリーの声だった。二人揃って我に返り、何事もなかったかのように会話をするも、ぎこちなさが拭えない。それが益々リズメリーの表情を暗くしたことに気付く者はいないまま、長い夜が始まるのだった。
続く