#10 深々
食事を終え、エレンタンが去った後もエルノアは戻ってこないまま。室内に流れていたレコードの音楽が終わると暖炉の炎が大きくなったように感じた。暖かな空気に混ざったパチパチと薪が弾ける音は眠気を誘い、眠ってしまう前に自室へ戻ったほうが良いと理解しつつもソファに沈んだ身体は思うように動かぬまま、意識は遠退いてしまった。
「寛げているようで良かった」
「食事も気に入って頂けたようで、肉料理とスイーツをよくお召し上がりになられ、アイスクリームは特に好まれておりました」
「料理長にもその旨伝えておいてくれ」
夢も見えない白く霞んだ意識の中で妙に鮮明な声が聞こえてきた。フィーユの存在を無視して交わされる会話に距離を感じつつも、その声がエルノアとエレンタンのものであることはすぐに分かった。目を開けて、身体を起こして、挨拶をしなければと思うけれど、身体はまだ起きたくないと駄々をこねる。
「フィーユ様を部屋にお連れしましょうか?」
「…よく眠っているようだから、そのままにしてやってくれ。起きた頃に僕が連れて行こう」
「エルノア様はまだお休みになられないのですか?」
「仕事をしなくても良いとはいえ、眠れそうにない。エレンタンこそ僕の分まで働いて疲れているだろうし、今日はもう休んでくれ」
再び流れ始めたレコードの音楽と混ざり合った二人の会話を聞いているうちにすっかり覚醒したフィーユは焦っていた。エレンタンが去ってエルノアと二人きりになることは避けたかったが、今ここで起き上がっては不自然だ。誰かが大きなくしゃみでもしてくれたなら、飛び起きる演技もできたが、そんなタイミングもないうちにエレンタンの足音は遠ざかり、無情にも扉が閉まる音がした。
二人きりとなった空間でいっそのこと本当に眠ってしまおうかと強く目を瞑るも、部屋の中央にいた彼が窓際まで歩き、自身の椅子に腰かけて一息吐く、その気配が気になって仕方がない。
「こうして静かな空間にいると父の死を痛感します。悲しくもあり、常に見張られているようなプレッシャーがなくなって楽になった気もします」
突然、聞こえてきたその声はフィーユに投げ掛けられているようで、呼吸が止まる。寝たふりに気付かれていることを悟ったフィーユが恐る恐る瞼を持ち上げたなら「気にせず、そのまま横になっていて下さい」と続けて声が掛けられる。それに対し返事をしないわけにはいかず、喉の奥に溜まった生唾を飲み込んで口を開く。
「気付いていたんですか」
「そう身構えないで。ただ、エレンタンと君を帰すのが惜しくて気付かぬふりをしただけです」
エルノアが何を思ってそんなことを言っているのか探るにはこの部屋は暗すぎた。しかし、彼の声に笑みが含まれていたことから察するに寝たふりをしていたフィーユを咎めるつもりはないらしい。そのことに安堵すると同時に、ずっと同じ姿勢でいたせいで強張った身体を漸く崩すことができた。
「エレンタンに僕の過去を聞いたそうですね」
「はい…私が聞いて良い話なのかとも思ったんですが」
「君がこの事実を誰これ構わず言いふらすようなことはしないと分かっています。それに君が過去を知ったと聞いて、重荷を分け合ったように心が少し軽くなった気がします。エレンタンもきっと同じ気持ちだったと思います」
エルノアはいつもフィーユを困らせる。彼がどんな気持ちでいるのか、どんな返答を望んでいるのか、一向に見えてこないから気になって近付きすぎてしまう。エルノアがもっと感情を表に出す我儘な国王だったなら、自分は国王に仕えるだけだと割り切ることができた。しかし、彼は一人で何もかも背負い込んでいるように見えるから、力になりたいと思ってしまうのだ。
「すっかり起こしてしまいましたね…そろそろ、部屋まで送りましょう」
「…エルノア国王は大丈夫ですか?」
「え?」
「眠れない夜を一人で過ごすのは辛くないですか?」
口にした後で自分はまた余計なことを言ってしまったと後悔が掠めた。折角、彼のほうから部屋に戻るよう勧めてくれたというのに、まるで自分ではない誰が言葉を操っているようだ。エルノアも予期せぬ問いに驚いたのか、息をのむのが伝わった。
「僕は普段からこの部屋に一人で…夜中も仕事して疲れたら君が今使っているソファで休む程度です。なので、気にしないで君は休んで下さい」
優雅な国王のイメージとは異なる日常に驚いたのは勿論であるが、今自分が横になっているソファに彼が寝ているという事実に慌てた。そんな話を聞いてしまっては、頬を付けたそこから甘い香りを感じてしまうし、昨晩の温もりが残っているような気さえする。知りたくなかった事実に飛び起きると、薄明かりの中でこちらを見て柔らかに笑んでいるエルノアと視線が絡む。
「余計な心配をする前に、自分の部屋に戻れば良かったです…」
「僕は嬉しかったですよ。追悼式に葬儀に、全て終わった夜は寂しいものですから」
「…はい」
「ユウリィを亡くして哀しむ父が君に救われた気持ちが今なら分かります」
妖精は人を癒すというが、その力のお陰なのだろうか。フィーユは既に自分のもののように馴染んだ身体に視線を落として、まだ分からないことばかりであることをもどかしく思った。
「エルノア国王にお願いがあるんですが…」
「お願いですか?」
「私は他の妖精と関わったことがないですし、自分が持つ力についてもよく分かっていません。妖精に詳しい方にお話を聞かせてもらいたいんです」
「なるほど…確か、慈善事業団体が妖精の保護活動をしていたので、当たってみましょう」
エルノアの口ぶりから察するに王族やその関係者は妖精との縁が薄いらしい。これほど広い王宮で多くの人が働いているのだから、該当する人物が一人くらいいるだろうと思っていたため、驚いた。同時に国王の手を煩わせてしまうこととなって申し訳なく思っているとエルノアは昔から妖精は神族が管理していたのだと教えてくれた。
「王族は国民に影響力のある神族を疎ましく思っていましたし、神族も王族を敵対視していたので親交もなく。自然と王族は妖精との関わりが希薄になってしまいました」
「今は、神族の力は弱まったと聞いていますが」
「僕は今後、王族と神族で手を取り合うべきだと考えていますが、向こうが頭でっかちで話が進みません。王族一強では誰も王族に逆らえず、諦めが蔓延した国は停滞してしまいます。何よりも神族には妖精保護を頼みたいところですが…現状では難しいでしょう」
難しい歴史の授業を受けているような話に瞼が重くなってくる。それでも必死に目を凝らして話を聞いていると、不意にエルノアが立ち上がり近付いてきた。彼に危害を加える意思はないと分かりつつも身を強張らせていると、目の前に手を差し出される。
「君と過ごす時間は楽しいですが、そろそろ送りましょう」
「はい…ありがとうございます」
慣れないエスコートに戸惑いつつも差し出された手を取って立ち上がったなら、頭一つ分以上も上から見下ろされ、思わず目を瞬かせる。女性は上から、男性は下から見ると魅力的に映るというが、唐突にときめいてしまったのはそのせいだろうか。触れた手が熱くなるのを感じて慌てて引っ込めたフィーユは何かを誤魔化すように一足先に歩き出した。
「静かですね」
執務室を出ると一人の騎士が扉の前に待機していただけで、昼間に大勢いた側近の姿はなくなっていた。薄暗い廊下を歩いている最中も誰とも擦れ違うことはなく、足音が響くばかりで不気味だ。堪らず口を開くも、その声はあっという間に静寂に飲み込まれ、虚しさが増す。
「王宮の朝は早いです。夜勤者を除く全ての者は22時を迎えれば必ず業務を終了しなければならない決まりがあります。まぁ、行事ごとの際など例外はありますが」
「エルノア国王は遅くまで働いているのに、ですか?」
「僕は好きでやっていることですから。それに何かあれば対応してくれる夜勤者がいるので問題ありません」
フィーユの部屋にも金色の紐があるはずだから、昼夜構わず従者を呼びたいときは紐を引いてベルを鳴らすよう教えられる。今から部屋に帰って寝るまで、着替えもしたいし入浴もしたい。温かなミルクを飲んで、柔らかなベッドに沈み込んだなら、今夜もゆっくり眠れそうだ。
「送って下さり、ありがとうございました」
「僕の方こそ遅くまで付き合わせて、すみません。ゆっくり休んで下さい」
労わりを込めて告げたのち歩き出そうとするエルノアだったが、何かを思い出したのか唐突に振り返り「コペリには伝えたのですが…明日の10時頃に執務室に来てください」と言う。詳しい説明もないまま去っていく後ろ姿にすっかり眠気が覚めたフィーユは、暫く部屋の前で考え込んでしまうのだった。
続く




