#1 淡雪
最後の花弁が風に攫われるかのように呆気なく最期の時は訪れた。前国王の死に慌てる人々を横目に、妖精は動かなくなった人間を見て死ぬことの意味を知った。温もりを失くしていく手に触れても握り返してはくれない。瞼は固く閉じられ、目が合って笑いかけてくれることもない。穏やかな声で名前を呼ばれることは二度とないのだと悟って、胸の奥から込み上げてくる感情が悲しみというにはあまりに単純な言葉に思えた。
「どうして、妖精がここに…」
前国王の寝室を訪れるにしては騒々しすぎる客人の正体は現国王エルノア・ドリュー・エドアール。前国王であり父でもあるドネヘシルの死に悲しみを見せたのは一瞬で、ふと視線を逸らした先にあった妖精の存在が気に食わなかったのか険しい表情を浮かべる。
妖精が人間の言葉を持っていたならばこの状況はドネヘシルが望んだことであると釈明もできただろうが、妖精は人間と意思疎通する術を持ち合わせていない。事情を知る従女から長年病気に苦しんでいた前国王が妖精の力で苦痛を和らげていたと説明されたところで、自分の知らない事実に戸惑い怒るエルノアには届かない。
「…暫く前国王と二人にして下さい」
現国王の言葉に従うことしかできない彼らはエルノアに労りの言葉一つ掛けることもできぬまま、状況が飲み込めず怯えていた妖精を強引に連れ出すのだった。その後、王宮内は追悼式や葬儀の準備に慌ただしさを増し、厄介者である妖精はエルノアの指示で王宮の外れにある温室へ追いやられることとなる。
元々、自然の中で生きる妖精にとって美しい植物に囲まれた温室は恵まれた環境だったが退屈でもあった。そんな中で唯一の楽しみが王宮庭師のアーティー・クレリアが朝と夕に温室の手入れの為にやってくることだった。
「こんにちは。今日も変わりない?僕は庭園を粗方回った後で、もうクタクタ」
アーティーは妖精が人間の言葉を理解できないことも気にせず、色々な話をした。妖精は彼の感情で色付いた声を聴いて過ごす時間が好きだった。そうして日々を過ごしているうちに二人は惹かれ合い、愛が芽生えた温室は一層美しい空間となった。
しかし、幸せな日々はそう長くは続かず。日が沈み、アーティーが帰った後の温室で事件が起こる。温室の中心にある大木の下でいつものように眠りについた妖精だったが、ふと感じた焦げ臭さと熱い空気に目を覚まし、辺りが灰色に霞んでいることに気付く。そして、何が起こっているのか理解する間も与えられぬまま、目の前におどろおどろしい炎の波が迫ってきたのだ。
妖精は火の気のないほうを目指して走るも既に辺りを取り囲まれており逃げ場がない。充満している煙のせいで上手く息が吸えず、眩暈がし始めたことに危機感を覚えた妖精は最後の力を振り絞り、背中の羽を広げるとガラス天井を目掛けて飛び立った。白く透けた羽に火が燃え移り、熱さを感じながらガラスに向かって体当たりしたなら全身に衝撃が走り、飛び散ったガラス片で白い肌が裂けてしまう。激しい痛みに意識が遠退いていく中、最後に見えたのは泣きたくなるほど美しい満月だった。
「お客さん。申し訳ないけど、そろそろ店を閉めても?」
鮮明に聞こえてきた声に驚いて読んでいた本から視線を上げると眉尻を下げた喫茶店のマスターの存在に気付き、出島ユキは現実へと引き戻された。本を読んでいると周りが見えなくなるのはよくあることであったが、自分以外の客がいない店内と冷めた珈琲に、随分とこの本に夢中になっていたのだと知る。
「すみません…この本が面白くて、つい。珈琲を飲んだらすぐに帰ります」
勢いよくカップを傾けて流し込んだ珈琲は程よい苦味と酸味で急いで飲んでしまうのは勿体ないと思わせた。珈琲の味もさることながらマスターの趣味で揃えられ店内に並べられた本もユキが好むものばかりで、ここに来るといつも時間があっという間に過ぎてしまう。
「私もその本は気に入りで。最後には思わぬ展開が…」
「まさか、国王と結ばれるなんてことはないですよね?」
「結末をお話しても?」
「聞きたいです!続きが気になって今夜は眠れそうにないので…」
栞は三分の一を過ぎたところに挟んでいる。言葉を話すことができず、火災に巻き込まれ傷ついた妖精がどうなってしまうのか、結末は目の前の本を捲った先にあるというのに、すぐには行き着かないことがもどかしい。ユキは前のめりになってマスターの言葉を待った。
「そうですねぇ。折角なら最後まで通して読んで頂きたい…宜しければ特別に本をお貸ししますが?」
「良いんですか?」
申し訳なさそうにしながらも、ユキの両手は既にその本を大事に抱きしめている。その姿にマスターは笑いを堪えながら「構いませんよ。明日、持って来て頂ければ」と答えた。ユキは答えを聞くや否や、残りの珈琲を一気に飲み干して席を立つ。お金を払って店を出る直前、振り返ってマスターにお礼を言ったなら、彼は丁寧にお辞儀して「またのご来店をお待ちしております」そう声を掛けてくれた。
日が沈んで一層寒さを増した冬の道、胸に大事に抱いた本は珈琲の香りを纏っており、胸を温かくした。何よりも家に帰れば温かな夕食が用意され、家族が自分の帰りを待っていることが嬉しくて足取りが軽くなる。
「急がないと」
ユキは目の前で閉まった踏切が開くのを待っている時間も惜しくて、いつもは使わない歩道橋の階段を上ることを選んだ。カンカンっと耳に響く踏切の音、電車が近づいてくる振動に一層急かされて早足に進んでいたところ、ふと頬に冷たい何かが触れる。雨かと思って空を見上げると夜に映える真っ白な雪が見えた。
急いでいたはずなのに足を止めて見つめていると雪の中に混ざって白い光があることに気付く。風に揺れながらこちらに落ちてくる光は雪とは違って温かく。現実にあるはずのない不思議なそれに思わず手を伸ばした。触れた瞬間、光は大きく膨らんで身体を包み込んだ。眩しさに思わず目を閉じれば先程まで感じていた冬の冷たい空気も踏切や電車の音も消えてなくなってしまう。恐怖を感じる間もなく、ユキは意識を失った。
遠い意識の向こうで穏やかな老爺の声が聞こえた。ユウリイという女性を心から愛していたこと。彼女の妊娠を機に平穏な日々が失われてしまったこと。息子が生まれてからも自分が生きることに必死で、最期まで父親として接することができなかった後悔を聞きながら、出島ユキとは別の記憶が脳や心に流れ込んでくるのを感じた。
「後は頼んだよ。フィーユ」
名前を呼ばれた瞬間、妖精になってしまったのだと理解した。慣れない身体を恐る恐る動かして確認すれば、白く細い手と腕、顔に掛かる金色の長い髪、ガラスのように煌めく背中の羽が自分のものになったことが分かる。
小説の世界に憧れていたとはいえ、受け入れられるものではなく、今すぐに現実の世界に戻りたいと思うのは当然であった。そのため、永遠の眠りについたドネヘシル前国王と、慌ただしく部屋から出て行く従女を前にしても呆然と立ち尽くすばかり。しかし、小説の通り、エルノア国王が現れてしまってはいつまでも傍観者のままではいられない。温室に閉じ込められ、火の海の飲み込まれる展開を避けなければと思ったユキは一瞬にして小説の主人公であるフィーユとなった。
「どうして、妖精がここに…」
それは小説を読んで想像したよりももっと低く威圧するような声だった。黒髪の向こうに覗く濃紺の瞳で、値踏みするように頭から足先まで視線を向けられたフィーユは僅かに後ずさる。しかし、怯えて何も言えないままでは小説と何も変わらないと自分に言い聞かせ、慣れない身体を動かして頭を下げた。
「お初にお目にかかります。ドネヘシル前国王にお仕えしておりましたフィーユと申します」
無邪気に笑んで鳥の囀りのような甘く優しい声で言葉を紡げば、エルノアとその側近は戸惑いの色を見せた。まさか、妖精が人間の言葉を話すなど思ってもいなかったのだろう。幽霊や宇宙人に向けられるような好奇の目にフィーユは居心地を悪くするも、人間の言葉を持つ妖精は利用価値があるはずだと小説とは違う展開を期待した。
「…僕が国王であることも理解しているようですね」
その正体を探ろうと誰よりもフィーユに鋭い視線を向けていたエルノアが口を開いたなら、側近らも国王に対し無礼な態度をとらないか僅かに緊張を滲ませながら妖精の答えを待った。フィーユは試されていることを感じて震える手を強く握ると「はい」と答えた。
「ドネヘシル前国王がよくエルノア国王のことをお話しして下さいました」
「…この人が?」
「息子が立派な国王となって嬉しい、それは息子の努力によるものだと誇らしく思う、と。その一方でご自身は父親らしいことが何もできなかったと悔やんでいるようでした…」
きっとエルノアは父親としてのドネヘシルの言葉を聞いたことがなかったのだろう。張り詰めていた空気が涙でふやけるみたいに優しく溶けていく。悲しみを滲ませたエルノアを見ているとフィーユ自身もつられてしまいそうで視線を落としたなら「分かりました…暫く父と二人きりにして下さい」という言葉が聞こえてきた。フィーユはこれで何かが変わっただろうかと一抹の不安を抱えたまま、自ら部屋を後にするのだった。
その後、フィーユは侍女の案内で別室へと案内された。そこへ向かう間もずっと不安を抱えていたのだが、上質な家具や調度品が揃えられた客間に通されると邪険に扱われているわけではないことを察して安堵する。腰掛けたソファは羽毛のように柔らかく疲れた身体を包み込み、目の前にある大きな窓の向こうには赤い絨毯が敷かれたようなバラ園が広がっており心を癒してくれる。
「フィーユ様。事態が落ち着きましたら、エルノア国王様がお話をされたいとのことです。暫くこちらでお待ちください」
「話ですか?」
「はい。エルノア国王様からは上客として持て成すよう仰せつかっております。ご用がありましたら何なりとお申し付けくださいませ」
息継ぎする間もなく説明口調で告げた侍女は一礼すると呆気なく部屋から出て行ってしまった。一人になるとあまりの静けさに現実であることを疑いたくなる。この世界に迷い込んでしまったのは小説を抱いていたせいか、それとも謎の光に触れたせいか、などと冷静に考える自分がいる一方で、現実の世界に戻ることができなかったら、家族に会えなくなってしまったら、という不安に身体が震えてしまう。
「帰りたい…」
弱々しく呟きながらも、きっと現実の世界に戻る方法があるはずだと信じていた。その術を探すためにも小説のような展開になるわけにはいかない。妖精フィーユとなったユキは鮮明に残っている本の内容を書き換えるかのように今後の展開を思い描くのだった。
続く