私の可愛いシャルロッテ
色鮮やかな花々の咲き乱れる中庭。その少し奥に行ったところ。
乱立する広葉樹が強い陽射しを遮るように、その葉を広げ風に揺られている。
降り注ぐ木漏れ日の下、太い幹に凭れ居眠りする幼い少女と、その少女の頭を撫で髪を梳く幼い少年がいた。
――ああ、私の可愛いシャルロッテ。
いつか私達は、この温かく幼き日々を忘れてしまうのだろうか。
君が大人の女性になったとき、君の側にいるのが私ではないのだと言うのなら、今ここで時を止めてしまいたい。
少年の名前はヨハン。
フェーゲル帝国皇帝陛下の弟、レーヴェンヘルツ大公閣下の嫡男だ。
ヨハンは従妹のシャルロッテ皇女をとても大切に思っていた。シャルロッテも三つ年上の従兄であるヨハンを、兄のように慕っている。
「ヨハンおにいさま!」
シャルロッテが笑顔で駆け寄ってくるので、ヨハンもまた笑ってシャルロッテに両腕を広げる。
花冠を手にしたシャルロッテは、勢いよくヨハンの胸に飛び込み、ヨハンはその勢いに押されてシャルロッテと共に草むらに倒れた。
「やあ、ロッテ。可愛いお姫様。今日はどうしたんだい?」
うふふ、と笑いながらシャルロッテは手にした花冠をそっとヨハンの頭にのせる。
「聞いてくださる? わたくしね、わたくし……」
シャルロッテは両手で口元を覆い、くふふ、と笑いを堪えている。
そんな愛らしいシャルロッテの様子に目を細め、ヨハンはシャルロッテの頭を撫でた。
「うん? どうやら楽しいことでもあったようだね」
「そうなの! ねえ、ヨハンおにいさま、わたくし……」
その後に続くシャルロッテの言葉によって、ヨハンは地獄に落とされた。
シャルロッテはフェーゲル帝国の第二皇女だ。
従兄妹であるヨハンは、自分こそがこの皇女の将来の伴侶だと疑うことはなかった。
シャルロッテの父である現皇帝と、ヨハンの父である大公の仲は良好であったし、シャルロッテの生誕以来ずっと、ヨハンはシャルロッテと共にあったようなものだった。
それこそ、シャルロッテの兄皇子、姉皇女よりずっと、ヨハンの方がシャルロッテを知っている自負がある。
それなのに。
「わたくしね、お隣のアステア王国王太子様のお嫁さんになるのですって! わたくし、王妃様になるのですわ」
「……え?」
ヨハンは喜色満面のシャルロッテを前に、息を呑んだ。
「ヨハンおにいさまは、いつもわたくしに教えてくださったでしょう」
シャルロッテが小首を傾げる。
「『ロッテ、可愛いお姫様。大きくなったら、君は私の女王様になってね』って!」
シャルロッテは得意満面にヨハンに詰め寄る。ぎゅっと握られた手を、ヨハンは振り払うことができない。
鼻先まで無防備に近づくシャルロッテに、口づけをすることだってできない。
昨日までなら、ヨハンは迷いなく、シャルロッテの手を優しく振りほどき、ヨハンの頬にシャルロッテの白金の髪が掠めるくらい身を乗り出してきた、その赤い唇に、甘い口づけを落としたに違いないのに。
ヨハンは柔らかく小さなシャルロッテの手に、自身の手を包まれたまま微笑んだ。
「そうだね、ロッテ。君こそ女王様に相応しい」
ヨハンの女王様は、いつでもシャルロッテただ一人。
◇
美しいドレスに身を包んだシャルロッテは、蒼白な顔をして佇んでいる。
そしてヨハンはそんなシャルロッテの肩を背後からそっと抱えた。
「……愛していたの……」
「うん」
「彼を救いたかったの……」
「わかっているよ」
シャルロッテとヨハンの前には、血濡れた一人の男が倒れていた。
倒れた男は、紺地に唐草模様の金の刺繍が施された、他に類を見ない素晴らしい出来のジュストコールにクラバット、といった豪奢な装いに身を包んでいる。
生気のなく蝋のように白い顔は、額に穴があき血に濡れ、艶のある薄紫色の巻き髪に囲われて、その表情はわからない。
ぴくりとも動かないその手には、回転式小銃があり、反対の手の先には純金製の王印が転がっている。
震えるシャルロッテの手には小型拳銃が握りしめられていた。
3.3インチバレルの携帯性に優れ、グリップセイフティを装備した、シャルロッテの細く小さな手でも扱える護身用の銃。装弾数は八発で、十分なストッピングパワーを有し、反動は少ない。
「ロッテ、これは私が」
トリガーに指をかけたまま固まっているシャルロッテの手。ヨハンは丁寧にほどき、凶器からそっと離した。
それから倒れた男に近寄り、その手の先にある金印を拾い上げる。ジレの胸ポケットからシルクのハンカチーフを取り出して、ヨハンはそれを丁重に包んだ。
ハンカチで包んだ金印を左ポケットに仕舞うと、ヨハンは再びシャルロッテの方へと戻ってくる。
その様子をぼんやりと眺めていたシャルロッテは、ヨハンが銃を自身の内ポケットに仕舞うのを目にすると、途端、弾けるようにヨハンのジュストコールを掴んだ。
「だめ! だめよ、ヨハンお兄様! 何をしていらっしゃるの!」
ヨハンは穏やかに微笑み、蒼白なシャルロッテの頬を撫でた。
「大丈夫。ロッテは何も心配しなくていい。この男が何をしようとしていたか、私が皇帝陛下に諫言するから」
シャルロッテは必死になって、ヨハンに言い募る。
「違いますわ! そういうことではなく! その銃はわたくしのものです! わたくしが、その銃で彼を――」
「ロッテ」
ヨハンがシャルロッテの唇を指で押しとどめる。
「いいかい? ロッテ。君は今晩、具合が悪いと休憩室に下がったパートナーが心配になり、夜会を抜け出した。しかし控室にも応接室にも、ましてや彼に与えられた客室にも、彼の姿はない。どこに行ったのだろうと、彷徨ううち、君は私に出会った」
「ちが……っ」
ヨハンが首を振る。
「パートナーの行方を捜していると聞いた私は、君と共に彼を探すことにした。私達は城の皇族居住区域にまで足を伸ばした。行き詰った私たちは、一度外の空気を吸おうと近場のバルコニーに出ることにした。そしてそこで驚くことに、君の探し求めていた彼、アステア王国の王太子殿下は皇帝陛下の金印を間諜の手に堕とそうとしていた」
シャルロッテはその大きな瞳に涙を湛えて、ヨハンに縋る。
「王太子の裏切りを目の当たりにした君は、動転して悲鳴を上げた」
「ヨハンお兄様……!」
「己の所業を知られたと悟った王太子は、君に銃を突きつけた」
ヨハンは笑みを深め、シャルロッテの震える手を取り、口づけを落とした。
「私は君を守ろうと、咄嗟に君のドレスのポケットにある小型銃を奪い、彼を撃った」
ヨハンは肩を竦める。
「生憎今日の夜会参加に銃の携帯は認められていなかったし、私は君の幼馴染で、昔から誰より君の近くにいた。君がいつも、どこに護身用の銃を隠しているかなんてことは、当然知っている」
シャルロッテの流れ落ちる涙を指で拭うと、ヨハンはそのままシャルロッテのつるりと陶器のような頬に手を置く。
「私は銃の名手だ。アステア王国の王太子が懐に手をかけるのを目にしてすぐに君のドレスから銃を奪えば、彼より先にトリガーを引いてその額に命中させることなど、造作もない」
頬に置かれたヨハンの手をシャルロッテが自身の手で包み込む。
「わたくしの方が、ヨハンお兄様より小型拳銃の腕は上です」
ヨハンは笑った。
「そうだね、ロッテ。君のピストルの腕は帝国一だ。だけど、君は実戦で人を撃ったことはない」
「先ほどわたくしは……!」
「ないんだよ、ロッテ」
ヨハンは愛おし気な慈愛に満ちた目でシャルロッテに微笑みかける。
「大丈夫。私が彼を撃ったことは正当防衛だ。何も疚しいことはない。私の次期大公としての地位が揺らぐこともないし、アステア王国の奸計から帝国と皇女殿下をお守りした勲章を賜りこそすれ、その逆は決してない」
逆に、シャルロッテが王太子を撃っていたなら。
それがたとえ正当防衛だろうと、シャルロッテは確実に離宮に閉じ込められるだろう。女が男を、ましてや婚約者を撃つなどあってはならない。それも一国の王太子。
属国であったアステア王国の裏切りが背景にあったのだとしても、シャルロッテが女だてらに王太子を撃ち命を奪ったと、アステア王国はシャルロッテが魔女だと糾弾し、王国の罪を軽減しようと、もしかすれば全てが魔女であるシャルロッテの謀であったと言い逃れる手に出るかもしれない。
そうなれば帝国の正当性を各国に示すのに、障害が生じる。
この大陸で女性の地位はとても低く、帝国皇女であろうと例外ではない。
女は男の所有物であり、決して男に逆らってはならない。王侯貴族であればなおのこと。
平民であれば、妻が夫の尻を叩くことはあるかもしれない。
だがシャルロッテは数多の属国を束ねる大帝国の皇女で、平民ではない。
「ロッテ、私の可愛いお姫様。君は私の女王様になるんだ」
ヨハンはシャルロッテを抱きしめる。
バルコニーに降り注ぐ月光が、抱き合う二人と、息絶えた男を照らしていた。
◇
ヨハンはシャルロッテの婚約が決まってすぐ、相手となる王太子フレデリックは勿論のこと、アステア王国とその王侯貴族達を調べることにした。
するとアステア王国の抱える事情が浮かび上がってくる。
アステア王国は長くフェーゲル帝国の属国であった。
だが数年前、アステア王国で巨大金鉱山が見つかる。近年、各国の金鉱は採掘され尽し、閉山が相次いでいた。需要と供給の均衡が崩れ始め、金の価格は高騰した。そんな中での巨大金鉱発見。
アステア王国は沸いた。
これまでアステア王国はフェーゲル帝国の属国の中でも下位に位置する小国で、国土は狭く、険しい山脈が聳え立ち、気候も厳しく、特筆する産業も軍事力もなく、フェーゲル帝国に付き従うだけの、発言力のない弱国だった。
それがどうだろう。
これまで歯牙にもかけられなかったはずの帝国から、皇女殿下を嫁がせようと打診された。
アステア王国国王に王国貴族、それから国民まで、全王国民が歓喜した。
この時、アステア王国の誰も、宗主国である帝国に背こうという考えはなかっただろう。帝国皇女が王太子に嫁ぎ、アステア王国王妃となることで、帝国から齎されるだろう恩恵に胸躍らせていたに違いない。
しかし人間は欲深い生き物である。
ヨハンはフェーゲル帝国の属国であるレーヴェンヘルツ大公国の大公令息として、アステア王国へ交流に度々出向いた。
同年代のアステア王国王太子フレデリックと親しくなるのに、さして時間はかからず、二人は国を越えた友情を結ぶことになる。
互いに帝国に属する国の王位継承権第一位の身に置き、また皇女シャルロッテに近しい者であり、共通点は多く、話題に事欠かないだけでなく、互いの悩みは互いに共感できるものだった。心許せる親友として互いを尊重し、国を隔てて友情を築いていく。
ヨハンはシャルロッテをアステア王国に嫁がせるつもりなどなかった。
アステア王国に限らず、シャルロッテをどこに嫁がせることも許さない。
シャルロッテは女王様になる。
ヨハンの元で、シャルロッテは女王様になるのだ。ヨハンだけの女王様。どこかの小国の王妃ではない。
レーヴェンヘルツ大公国以外、シャルロッテが居てよい場所はない。
この大陸において、女は男の所有物でしかない。
しかし唯一、女が男の上に立てる地位がある。それは女王。
シャルロッテが男に隷属するなど許せない。他のどの王侯貴族に嫁いでも、それは逃れられないのだ。
しかしレーヴェンヘルツ大公国ならば。
ヨハンが大公となるレーヴェンヘルツ大公国は、女大公の即位が許される、大陸では珍しく女性と女系子孫の王位継承権を認めている国だ。
もちろん、シャルロッテがヨハンのもとに嫁いだとて、シャルロッテが女大公になるわけではなく、ヨハンが大公になる。名目上は、シャルロッテは大公妃となる。
しかしヨハンはシャルロッテに、男の支配下で生きて欲しくはないのだから。
大公国で自由に生きて欲しい。
ヨハンとともに大公国で生きるのならば、シャルロッテはまるで女王のように振る舞うことが許されるのだ。いや、許されるのではない。女王シャルロッテの臣下へと、喜んで下ろう。
――私の可愛いシャルロッテ。
君の望む通りの世界をあげる。ロッテに自由と幸福をあげる。
そのためならば、私はこの身のすべてを捧げよう。この命も。いや魂すら、君のものだ。愛するシャルロッテ。
◇
ヨハンは親友であるアステア王国王太子フレデリックに、シャルロッテ皇女の悪評をいかにも心苦しい、といった顔で打ち明けるようになった。
婚約者として手紙のやり取りや、年に数度、各国のパーティー等で交流し、少しずつシャルロッテとの絆と情を深めていたフレデリックは当初、ヨハンの話が信じられなかった。
フレデリックが接するシャルロッテは帝国の皇女とは思えぬほど慎ましやかで清廉とした人格であり、属国を束ねる帝国皇族としての義務を知り、皇族としての矜持も十分に持ち、民への情け深く、奢らず高ぶらず、教養高く、幼いうちから淑女と呼ぶに相応しい皇女であった。また、親しくなるにつれ、皇女として淑女たらんとする姿に、可憐で無邪気な一人の少女が隠されていることも知った。
それだから、アステア王国王太子フレデリックは、ヨハンの話す悪辣なシャルロッテ皇女像に疑問を呈した。
「シャルロッテは私の従妹だ」
「勿論知っている」
辛そうに眉根を寄せ俯くヨハンに、フレデリックは胡乱な視線を投げる。
「私の父は皇帝陛下の臣下だが、陛下にとって仲の良い弟でもあり、私は陛下の甥として目をかけていただいている」
「それで?」
「……君に密告するのは陛下への背信行為に他ならないが、だが私は、親友が帝国に裏切られ、貶められようとするのを黙って見ていることは、もはや出来ない」
「どういうことだ?」
ヨハンに不審の目を向けていたフレデリックが、身を直してヨハンに向き直る。ヨハンは内心、ほくそ笑んだ。
「帝国はシャルロッテを君に嫁がせることで、いずれアステア王国の所有する金鉱山を帝国のものにするつもりだ」
「そんなことはいかに帝国といえど……」
「できるさ。君がこのままシャルロッテに骨抜きになれば。シャルロッテはいずれアステア王国の王妃となる。国王に次ぐ権力を有するようになる」
「この大陸で、王妃といえど、女性が王宮の古狸達にどう立ち向かうんだ?」
フレデリックは半信半疑でヨハンに質す。
「シャルロッテを甘く見るなよ。彼女は帝国法を知り尽くしている。その上で女性が王宮で生き抜く手段も熟知している。彼女がアステア王国の慣習法を超える成文法を立法するのは難しいことじゃない」
フレデリックの目に軽蔑の色が浮かぶ。
「なんてふしだらな……!」
だがすぐにフレデリックは首を振った。
「しかし僕の知るシャルロッテ皇女殿下は、そのようなお人ではない。僕は人を見る目があると自負している」
ヨハンは内心で大いにせせら笑った。
――私のことも暴けないお前が?
「しかし君がシャルロッテと共にする時間は限られている。彼女の全てが信じるに足ると、どうして言えよう。そして君がそのように人を判ずるとするなら、私は君の信に足らぬということだろうか。……私もシャルロッテ同様、君と会う機会は確かに限られている」
ヨハンが眉根を寄せ、懇願するようにフレデリックを見上げる。言い募る声は哀しそうに掠れていた。
「……それは、君が彼女を誤解して……、そうだ。何か誤解の生じるようなすれ違いが重なったのだろう」
「それはない」
ヨハンはきっぱりと断言した。
「私は帝国で、おそらく最もシャルロッテの近くにいる者の一人だ。ああ、勘違いしないでくれ」
フレデリックの目に浮かぶ嫉妬の色と剣呑な眼光鋭い眼差しに、ヨハンは鷹揚に手を振った。
「近くにいるというのは、私はシャルロッテの護衛を兼ねているからに過ぎない。シャルロッテに専属の護衛騎士はもちろんいるが、従兄妹同士ということで、物理的な護衛ではなく、外交戦略における護衛として任されているんだ」
しかし疑わしそうに目を眇めるフレデリックに、ヨハンは肩を竦めた。
「君がすぐに私の言葉を信じられなくても仕方がない。何しろシャルロッテの擬態は完璧だ。しかし私はだからこそ、君に忠言する。私はシャルロッテの護衛のうち唯一、シャルロッテの外交の場で離れることなく傍につくことが出来る。これでも大公令息だからね……」
ヨハンはおどけるように両手を広げる。
「今すぐ、私の言うことを信じろとは言わない。しかし友として君に捧げた、私の言葉をどうか忘れないでくれ」
「……わかった。君の友情を忘れないでおこう」
ヨハンはフレデリックに疑惑の種を蒔くと、アステア王国を後にした。
そのあとは坂道を転がり落ちるように、ヨハンの思惑通りに物事は進んだ。
もともと帝国はアステア王国の金鉱に目をつけていた。それはヨハンの虚言ではない。勿論、金鉱が齎す富を見据えてシャルロッテを嫁がせることに決めたのだ。そしてそれはアステア王国も了承していたはずだ。
ただ、ヨハンの示唆したような、金鉱そのものを乗っ取るという意味ではなかった。それは帝国、王国双方同じく。
しかし一度根付いた疑惑は、容易には打ち消すことが難しい。
次第にフレデリックの胸中に、帝国への不信感、そしてシャルロッテへの不信感が募っていく。
疑心暗鬼になった小国の王太子は、見るもの聞くもの全てに、疑惑を呈するようになる。そうして帝国の指示やシャルロッテの振る舞いに、勝手に後ろ暗い意味を見出しては、苦悩し、葛藤する。
本来なら大したことのない、よくある小さな他愛ない不満は、やがてアステア王国王太子に大いなる反逆の意志を育てさせることとなった。
◇
シャルロッテは婚約者であるフレデリックが、いつからか自分を蔑んだ目で見てくるようになったことに気が付いた。
幼いときに婚約が決まり、離れた国に住まうため、そう頻繁に会うことは叶わなかったが、手紙や贈り物を欠かさず、たまの逢瀬では心からの思慕をフレデリックに伝え、誠心誠意、婚約者として相応しくあるよう努めていた。
婚約当初は、フレデリックもシャルロッテに好意を向けていた。
シャルロッテが微笑みかければ、フレデリックも嬉しそうに笑い、シャルロッテに手を差し出し、手を繋いで歩いたこともあるし、シャルロッテが別れを惜しんで目に涙を滲ませると、フレデリックは「また手紙を書くよ」と言って、それから恥ずかしそうにシャルロッテの頬に口づけをした。
「早く君が僕の国へ嫁いできてくれればいいのに」
そう言っていた。
シャルロッテは幼い恋心を大切に育てていた。
年に一度か二度、たまに会えるのを待ちわびて、会えない日はある日の婚約者の姿を胸に、いつか隣に立つ時、相応しくあろうと努力し、会えた日には恋心を隠すことなく正直に、しかし恥ずかしそうに精一杯愛の言葉を紡ぐ。
何がいけなかったのだろう、とシャルロッテは悩んだ。
王太子であるフレデリックに相応しくあるよう努めているつもりだったが、フレデリックの目からは、年下のシャルロッテは将来の王妃に相応しい教養がまだ身についていないように見えたのかもしれない。
帝国と王国では、習慣も礼儀作法も異なることがある。王国の作法ではみっともないと見なされる何かをしてしまったのかもしれない。
あるいは隠すことなく伝えていた思慕が、女の身でふしだらでいやらしく思われたのかもしれない。
シャルロッテは離れているからこそ、素直に伝えなければ、すれ違ってしまうと考え、恥ずかしい気持ちを飲み込み、精一杯愛を伝えていたが、それがはしたないと言われれば、確かにありのまま剝き出しの好意をぶつけるのは、淑女らしくない。
それがフレデリックの気に障ったのだろうか。
シャルロッテはフレデリックを慕っていた。
政略結婚ではあるけれど、愛し愛され、互いに尊重しあう。そんな婚姻関係を築きたいと願っていた。
夫となる王太子を王太子妃として公私ともに支え、いずれ国王となったときは王妃として隣に立つに相応しくあろう、それから夫が公務から離れたときは、妻として寄り添い、疲れを癒し、喜びも悲しみも共に分かち合う。そんな未来を夢見ていた。
しかしその思いをそのままにフレデリックに訴えることは、皇女としてはしたないというのなら、フレデリックの望むように振舞おうと、シャルロッテは婚約者としての距離を少し遠くに置くことにし、礼儀作法に則り、皇族らしく王国王太子に接することにした。
フレデリックはシャルロッテをますます疎んじるようになった。
◇
帝国建国祭は連日に渡り、各国の王侯貴族を招いて、帝国の威信を見せつけるかのように豪華絢爛に催される。
その日の夜会で、フレデリックはいつになくシャルロッテに優しかった。
ファーストダンスを終えても、フレデリックはシャルロッテの側にいてくれる。それだけでなく、前日までに各重鎮との挨拶や顔繫ぎは終えたから、と、シャルロッテを連れ回すでもなく、二人で親しく会話を楽しんでくれる。シャルロッテとのダンスが終わると同時に群がってこようとした令嬢達には「今日は久々の婚約者同士の時間を優先したいんだ」と優しく微笑みながらも、明確にシャルロッテを優先する姿勢を見せ、断ってくれる。
シャルロッテは嬉しくて幸せでたまらなかった。
まるで昔の婚約者が帰ってきたようで、シャルロッテは常は隠しているフレデリックへの思慕を言葉にのせた。
「こうしてご一緒できること、とても幸せに思います。離れている間も、殿下を思わぬ日はございません」
シャルロッテは目元を赤く染め、恥じらいながらも、フレデリックの目を真っすぐに見つめ、真摯に真心を伝えた。
「……どれが本当の君なんだ……」
フレデリックの呟きはとても小さく、シャルロッテの耳に届くまでに、夜会の喧騒に紛れてしまう。
しかし苦し気なフレデリックの表情に、シャルロッテは胸が痛む。
――わたくしの想いは殿下にご迷惑なのかしら。
今日は昔に戻ったように優しくしてくれるから。シャルロッテの手を取るフレデリックの手が優しく、いかにも婚約者の義務だと言わんばかりの、あの冷たく突き放す空気がなく、シャルロッテを見る目が温かいから。
それだから、シャルロッテは勇気を振り絞って、思慕を伝えたけれど、やはりフレデリックにとってシャルロッテは疎ましい存在なのだろうか。
シャルロッテはこれまで耐えてきたフレデリックの冷たい振る舞いと、そして久々のフレデリックの優しさに触れ再び期待し、その期待が潰えたことで、皇女として感情を抑えることが難しくなった。
「……殿下。見苦しい真似を申し訳ございません。これで最後に致しますから……」
シャルロッテは俯き、唇を噛む。シャルロッテの腰を抱くフレデリックの手が強張った。
シャルロッテはもう一度、フレデリックを見上げて、その目をまっすぐに見る。
「殿下がわたくしを疎んじておられることは存じております。けれどわたくしは、わたくしは殿下をお慕いしております。殿下のお力になることが出来たらと……」
フレデリックの目に動揺が覗き、口元に浮かべた微笑が力なく消えていく。
「殿下のお心を煩わせる何かがあるのなら、どうかわたくしにもそれらを除く助力をお許しください。どうかわたくしにも、何か願ってくださいませ。わたくしは皇女です。ですが、その前に殿下の支えでありたいのです」
シャルロッテの切実な願いに、フレデリックは顔を背けて、眉間の皺を深く刻み、瞑目した。
「……もう遅いのだ」
震えるフレデリックの手を、シャルロッテがそっと包み込む。
「そんなことはございません。わたくしが如何様にも致します」
シャルロッテは知っていた。
フレデリックが帝国に疑惑の目を向けていることを。そしてシャルロッテを信じたい、と願う一方で、疑う心を拭えず葛藤し、苦悩していたことを。
それは最近になって従兄のヨハンからシャルロッテが聞いた、それまでのフレデリックの突然の変わり身の理由だった。
そしてフレデリックの苦悩はアステア王国の王侯貴族に伝わり、アステア王国の帝国に対する不信感は募り、もはや王太子一人の力では抑えようにないほどであると。
フレデリックは決行日とされる今日、最後の最後まで、父であるアステア王国国王に反意を唱えていた。
いくら金鉱山を手にしたとて、国力のない軍事力の持たない小国のアステア王国がフェーゲル帝国に牙をむいたところで、敵うはずがないと。
しかし富を手にすると、人は変わる。
王太子フレデリックの声は届かなかった。
フレデリックは王太子として自国とともに沈む覚悟を決めた。
最早王侯貴族達を救う術はない。だがその他の民は。アステア王国の民は、どうか救ってほしい。愚かな王侯貴族の責を民に問わず、どうか帝国の自国民同様に受け入れてほしい。
フレデリックの望むものは、最早それだけだった。
フレデリックはシャルロッテの目を見つめ、哀しげに微笑んだ。
「すまぬ。許さなくてよい。私が……僕が愚かだったのだ。君を疑うなど……」
己の手を包むシャルロッテの手を、もう片方の大きな手で包んだ。
「最初から君だけを信じていれば、間違うことなどなかった。いや、間違ってもよかった」
フレデリックはシャルロッテに懺悔するように、切々と言葉を紡ぐ。シャルロッテはフレデリックの瞳だけを見つめ、一言も聞き逃さないよう、喧騒に消されそうなか細い声に耳を傾ける。
フレデリックはシャルロッテを自身の胸に寄せた。
「僕に向かう君の真っすぐな瞳と、君を想う僕の愛を。ただそれだけを信じていればよかった」
シャルロッテの背に回された腕に力が籠もり、シャルロッテはフレデリックの逞しく厚い胸に這わせていた手でトン、と一度その胸を叩いた。
「もう一度、わたくしを信じてくださいますか」
「勿論」
フレデリックが力強く頷くと、シャルロッテは輝くばかりの笑顔を浮かべ、それまでアステア王国王太子とフェーゲル帝国皇女の抱擁を遠巻きに眺めていた者達は、それまで見たこともない、あどけなく無邪気なシャルロッテ皇女の微笑みに目を奪われた。
それからしばらくして、アステア王国王太子は連日の夜会による疲労だと、一時休憩室に下がるとシャルロッテに告げ、会場を辞した。
シャルロッテはそのまま留まり、今日までに踊っていない者達からのダンスの誘いを受け、また他国の貴族達や自国の令嬢達との会話を楽しんだ。
シャルロッテ達が歓談に興じる一方、夜会にあるまじき姿を晒す大公国の貴族の姿があった。泥酔しきった男は壁に体を凭れかけ、ずるずると床に沈んでいく。夜会に集う者達は眉を顰めて、彼のこれまでの醜聞を囁き合った。
しかしフレデリックがなかなか戻ってこない。シャルロッテは令嬢達とのお喋りを切り上げ、会場入口付近に佇む赤毛の護衛騎士に声をかけた。
「殿下がいまだお戻りになられません。何事もなければよいのですが……」
シャルロッテは不安を隠しきれず、その顔が憂いに沈む。護衛騎士は婚約者を想うシャルロッテの健気な姿に心痛めた。
「殿下の御様子を伺ってきましょうか」
「よいのですか?」
「どうぞ私に御命じください」
「では、殿下の御様子見を頼みます」
「御意に」
シャルロッテは護衛騎士の後ろ姿を見送ると、自らもひっそりと会場を抜け出した。その様子をヨハンが遠くから見ていた。
◇
ヨハンもまた少し遅れて会場を抜け出し、シャルロッテを追った。
ヨハンが掴んだ情報によれば、アステア王国の間諜と王太子は、皇族居住区にあるバルコニーの何処かで落ち合うということだった。皇族居住区に絞っても、城に住まう皇族は多く、またどの部屋もバルコニーを有している。
皇帝陛下の信頼厚い大公令息という身分を盾に、皇族居住区に入り込み、各部屋部屋を護る騎士達に、シャルロッテ皇女の行方と、また不審者がいなかったかを訪ね歩いた。
すると夜会客であるらしい酔っぱらいが、皇族居住区に迷い込み、ちょっとした騒ぎが起きたことを知らされる。
それがアステア王国の間者かとヨハンは疑ったが、その場に足を運んでみれば、自国の貴族が酩酊している姿しかなかった。
その者は夜会で幾度となく酩酊した醜聞を持つことでよく知られており、今夜に限ったことではない。
大公国の面汚しめ、と苦々しく舌打ちするも、間者である可能性は低いと、ヨハンはその場から離れ、また探索を始めた。
ヨハンが最上階に辿り着くと、なぜかその階には騎士が一人しかいなかった。
ヨハンはその赤毛の騎士にも同様に問いかける。騎士はヨハンの質問に内心首を傾げながら、シャルロッテ皇女も、またそのような不審者も見かけなかったと答えた。
「そうか。なにか不審なものを見かけたら、すぐに知らせてくれ」
ヨハンがある皇族の部屋の前に佇む騎士に別れを告げ、次の部屋へ移ろうとしたとき、突然銃声が響いた。
――近い!
ヨハンは弾かれたように駆け出し、音のした部屋へ走りこむ。
勢いのまま乱暴に扉を開けると、バルコニーへと続く窓が大きく放たれ、白いカーテンを風が弄んでいた。そしてその隙間から月夜に照らされた少女の、ほっそりと華奢でたおやかな後ろ姿が見える。
「ロッテ!」
ヨハンが駆け寄ると、シャルロッテは全身を震わせ、今にも倒れそうな真っ青な顔で、ある一点を見つめていた。
シャルロッテは両手を前に突き出している。その手には小型拳銃があり、月の明るく照らす薄闇の中、白い硝煙がゆらゆらと立ち上っていた。
美しい薄紫色のドレスに身を包んだシャルロッテは、ヨハンの声に振り向かず、腕を下すこともなく、ただ一人の男を見つめ続ける。
ヨハンは沈痛な面持ちでシャルロッテにゆっくりと歩み寄り、その肩を抱いた。
「……愛していたの……」
「うん」
「彼を救いたかったの……」
「わかっているよ」
シャルロッテはフレデリックを救った。
その死によって、フレデリックの苦悩を終わらせたのだ。
しかし人を撃ったことは、心優しいシャルロッテの大きな傷になってしまっただろう。
シャルロッテの傷ついた心を思うと、ヨハンは予定より到着の遅れた自分の過失を悔いた。
ヨハンはシャルロッテが夜会を抜け出すとは予想していなかった。
シャルロッテを危険な目に遭わせるわけにはいかない。
あの時、シャルロッテ夜会を抜け出したのを目にしたヨハンは、今にも走り出し、シャルロッテを保護しなければと気ばかりが急いた。
だがすぐにシャルロッテを追って自分も会場を抜け出せば、醜聞の元になりかねない。だから今すぐにでも飛び出したいのをなんとか堪え、しばし時間をおき、それから慌ててフレデリックを探した。
――こんなことなら、自ら功労を挙げてロッテを娶る権利を得ようなど欲をかかず、皇帝陛下に諫言して包囲網を組めばよかったのだ。
だが、シャルロッテを娶る交渉をする上で、有利になったということもまた事実だ。
シャルロッテがアステア王国王太子フレデリックを撃ったことは、ヨハンと、また例の護衛騎士だけが知る。護衛騎士には皇帝が緘口令を敷くだろう。
ヨハンはシャルロッテを守り、また帝国の正当性を守るために、自身が制裁を下したと皇帝に告げればいい。勿論、真実はシャルロッテの手によるものであることも知らせねばならない。
ヨハンの他に真実を知る護衛騎士の存在がある。ヨハンの一存で皇族の部屋付き護衛騎士をどうにかするのは、後々障害になりかねない。
そして何より。
シャルロッテの隠匿すべき秘密を知るヨハン以外に、シャルロッテが嫁ぐ先はなくなった。
これでヨハンは大手をふるってシャルロッテを娶ることができる。
ヨハンはフェーゲル帝国と帝国皇女をアステア王国の奸計から救った英雄として讃えられ、その褒美として皇女を下賜される。
ヨハンは震えるシャルロッテを彼女の侍女を呼び出して委ね、自らは皇帝の元へ向かった。
フレデリックの遺体は、ヨハンより遅れて部屋に到着した護衛騎士に見張らせた。
◇
ヨハンは夜会会場に戻り、急ぎ皇帝の元に向かう。
次期大公であるヨハンと繋がりを持ちたい者は多い。ヨハンは鬱陶しい挨拶に、微笑みを返しつつも手早く切り上げ、人込みを掻き分けていく。
ヨハンの心情としては、グラスを片手にあちらこちらで空虚で軽薄な談話に耽り、表情を隠して足を引っ張りあう愚か者たちを薙ぎ倒し、走り出したい思いだったが、そこは努めて貴族然と振る舞い、微笑を浮かべながら足早に皇帝の鎮座する会場最奥へと歩を進める。
しかし、ヨハンが皇帝の元へ辿り着くかと思われたそのとき、何やら大きなどよめきが起こった。
会場入り口が騒々しい。
それまでヨハンが懸命にかき分けてきた人込みは、今や左右に分かたれ、皇帝の元へと一筋の道が出来ていた。
そこへ一人の騎士が息せき切って転がりこんでくる。
異常事態だ。
典雅な夜会の最中、一人の騎士が血相を変え、大声を張り上げる。
「畏れながら、皇帝陛下に申し上げたきことがございます!」
会場に集う者達の目が赤毛の騎士の一身に浴びせられる。
ヨハンは皇帝の足元に寄り、皇帝はヨハンを一瞥したのち、騎士の発言を許した。
「申せ」
ヨハンが怪訝そうに騎士の様子を伺うと、騎士の唇は戦慄いていた。
「畏れながら、まずは皇帝陛下の御耳にのみお伝えしたく……」
騎士はそれ以上の言葉を口にせず、頭を垂れたままその視線を皇帝の足元へと彷徨わせた。
皇帝は眉根を寄せ、ヨハンに一瞥をくれた。ヨハンは頷き、騎士の元へと寄る。
そして衆目の元に立たされた騎士に小さく耳打ちする。
「何があった」
騎士はごくりと唾を飲み込んだ。
「第二皇女シャルロッテ殿下が……」
ヨハンが目を剥く。
――シャルロッテ?
ロッテがなんだというのだ。
「……回転式小銃で自決なされました」
ヨハンは膝から崩れ落ちた。
◇
アステア王国王太子の遺体を見張らせていた騎士によると、フレデリックを撃ったシャルロッテは、倒れたフレデリックの側まで寄ると、顔を伏して涙を溢したという。
愛する婚約者の裏切りと、またその者を手にかけてしまった苦しみと、シャルロッテの哀しみは計り知れない。騎士はその悲愴な姿を見続けることが出来ず、俯いてシャルロッテの後ろに控えていた。
そしてシャルロッテはその隙をついて、いつの間にかフレデリックの手にあった回転式小型銃を手にし、バルコニーの先まで歩いていったらしい。
騎士がはっと我に返り、シャルロッテを呼び止めるも、シャルロッテは振り返ることなく自らの頭を撃ち抜いた。
シャルロッテはそのままバルコニーから墜落し、城の周囲を取り囲む堀にその身を沈めたのだ。
シャルロッテに付き従っていたはずの侍女の姿は、シャルロッテの自決に慌てた護衛騎士の監視の目から外れ、その行方は知れない。
シャルロッテの身が堀に落ちるまで、バルコニーで騎士と侍女は絶望とともにそれを見送ったそうだ。
主のあとを追ったのか。
城内は混乱を極めていたため、侍女に限らず、その日行方の知れない者が数人いる。
数日後に堀から引き上げられたシャルロッテの遺体は損傷が激しく、最早人の形をなんとか留めたに過ぎず、ヨハンは呆然とした。
ヨハンは自決したと聞いても、堀に落ちたと聞いても、どこかでシャルロッテの無事を願っていた。
しかし、目の前に横たわるシャルロッテだったものに、命の欠片も見出すことが出来ない。
美しかった白金の髪も、エメラルドのような煌めく瞳も、陶器のような白皙の肌も。
全てが失われた。
長い間堀に沈み、水に晒され続けてブヨブヨと膨張しきったシャルロッテの遺体。その身に纏う薄汚れた、ところどころ破れた薄紫色の、アステア王国王太子の髪色のドレスと、首元に残された砕けた首飾りの残骸だけが、その遺体がシャルロッテであることを示していた。
ヨハンは大公国に篭もり、その後二度と帝国へと足を踏み入れなかった。
ヨハンは自室でシャルロッテの肖像画の前に立ち、涙を流す。
――ロッテ。君はそんなにまであの男を愛していたのか。
愛していた。
ヨハンは他の誰でもなく、シャルロッテだけを狂おしいほど愛していた。
シャルロッテがヨハンのことを兄のようにしか見ていないことは知っていた。
フレデリックがシャルロッテを疎んじるようになっても、シャルロッテの愛はフレデリックにのみ捧げられ、ヨハンが寄り添っても、決して顧みられぬ恋の辛さをヨハンに打ち明けることはなかった。
ヨハンがどんなに優しく声をかけても、シャルロッテはフレデリックへの恋慕のみ口にし、不満を口にすることはなかった。
それがどれだけ悔しかったか。
ヨハンの虚言に踊らされ、シャルロッテに不審の目を向け裏切った男が、なぜシャルロッテに愛されるのか。
しかし、ヨハンの図り事によって、シャルロッテは永遠に喪われてしまった。
ヨハンの愛するシャルロッテは、もう二度と戻ってはこない。
――ロッテ。私の可愛いお姫様。君のいない世界で生きていたくなどない。
ヨハンはシャルロッテの命を奪った回転式小型銃で自らの頭を撃ち抜いた。
その銃はシャルロッテの形見としてヨハンが譲り受けたものだった。
シャルロッテが常に忍ばせていた護身用の小型拳銃は、シャルロッテの父である皇帝が、若くして逝ってしまった娘の形見として、懐に忍ばせている。
ヨハンの命を散らしたのは、アステア王国王太子の遺体が握っていた銃だった。
◇
「シャリー!」
珍しい薄紫色の髪を短く刈った美丈夫が、少女の肩に自身の大きな手を置く。
振り返った少女は、エメラルドのような煌めく瞳を輝かせ、その美しい顔は幸せそうにほころんだ。
「まぁ、フレッド。今日は大漁ね」
シャリーと呼ばれた少女は、青年の抱える魚籠を覗き込む。
魚籠の中にはビチビチと数匹の魚が飛び跳ねていた。
フレッドは情けなさそうに眉尻を下げる。
「シャリーは意地悪だな」
「だって、フレッドったら、いつまで経ってもわたくしのことを働きに出してくださらないんだもの」
フレッドはその逞しい体を竦ませる。
「シャリーを働きに出すなんて、できるものか。君は僕の女王様なのだから、僕が君の手となり足となって働くんだ。いつでも僕に命令してくれ」
シャリーは心底嫌そうに顔を顰める。
「わたくし、フレッドの女王様になんてなりたくありません。わたくしはフレッドを支える妻でありたいだけです」
昔からずっと。
シャリーは真摯にフレッドの瞳を見つめて告げる。
フレッドは頬を赤らめ、咳払いをした。
「シャリー、君の真っ直ぐな言葉は、昔から変わらないな」
シャリーは微笑む。
「当然ですわ。わたくしはフレッドにお会いしたその時から、貴方の虜です」
シャリーがフレッドの虜なのだ。
フレッドの女王様ではない。それはシャリーの役割ではない。
シャリーに、否、シャルロッテに女王であれと言ったのは、ヨハンだから。
◇
シャルロッテは決して許さなかった。
兄のように慕っていたその人は、自分に女王になれと言ったのに、主であるシャルロッテを裏切った。
臣下の裏切りを容易に許すことはできない。シャルロッテは皇女なのだ。
しかしヨハンのことは兄のように、従兄として愛していた。
それは異性への愛ではない。婚約者であるアステア王国王太子フレデリックへの愛とは違う。
ヨハンの裏切りをシャルロッテは嘆き、どうにかヨハンを救えないかと模索した。
しかしヨハンはシャルロッテの愛するフレッドを手にかけることを選んだ。
もはや救うことは出来ない。
そしてシャルロッテは、ヨハンと通じていた己の侍女もまた許さなかった。
あろう事か、主であるシャルロッテではなく、シャルロッテが臣下として愛していたヨハンに忠誠を誓い、愛を捧げるなど。
侍女はヨハンに促されるまま、婚約者の逢瀬の度にシャルロッテの不在を狙って、フレデリックに己の主の非情さ、悪辣さ、醜悪さを挙げ連ねて泣きついた。
曰くシャルロッテが些細なことで激昂し、鞭打ちするだとか。曰く理不尽な理由で数多の使用人の首が飛んだとか。曰く見目麗しい令息や騎士に媚態を示すとか。曰く皇女教育は滞っており、公に聞かれるシャルロッテの評判は偽りだとか。曰く民を蔑ろにし、民の命は守るに値しないと公言するとか。曰く際限なく湯水のように浪費しては他令嬢達を嘲るとか。
――曰く、アステア王国の金鉱山から採掘される金で金細工を山程作らせようと目論んでいるとか。
シャルロッテは臣下を愛するし、情けもかける慈悲深い皇女だ。
しかしそれは、シャルロッテを裏切り、シャルロッテの大切な宝物を破壊し尽くして、己の享楽に耽る者に与えることは出来ない。
侍女がヨハンに愛されるシャルロッテに嫉妬し、またフレデリックに袖にされるシャルロッテを嘲笑っていたことを、シャルロッテは知っている。
それだけならまだ許せた。
侍女の裏切ったのが、シャルロッテだけだったのならば。しかし侍女は愛するフレデリックを貶めた。だから許せなかった。
シャルロッテは慈悲深い皇女だ。
シャルロッテを信じず、ヨハンに惑わされたフレデリックを深い愛で赦した。
しかし愛するフレデリックが反意を唱え、最後まで謀反を取りやめるよう訴えたにも関わらず、富に奢り、王族としての判断を誤り、自国の民を破滅の道へと導き、シャルロッテの愛するフレデリックに自国と己の滅亡を決意させたアステア王国国王も、その国王が放った間諜も許すことは出来なかった。
あの日、バルコニーに倒れていたのは、フレデリックではない。
フレデリックの双子の弟であり、その身を世間から隠された第二王子であった、アステア国王の間諜。そしてアステア国王の右腕。
アステア国王が近いうち、フレデリックを密かに処し、新たなフレデリックとして立てようとしていた男。
シャルロッテはフレデリックと共に間諜の手引きする予定であったバルコニーに忍び込んだ。
皇族居住区の各部屋ごとを守る護衛騎士達は、先に走らせた一人の護衛騎士によって、騒ぎを起こさせ、事を起こす階から遠ざけた。
そしてフレデリックが先にバルコニーに立ち、それを受けて姿を表した間諜の弟王子をシャルロッテはすぐさま小型拳銃で撃ち抜いた。
護身用に持ち歩いている愛用の小型拳銃。
シャルロッテのピストルの腕は、嘘偽りなく帝国一だ。
世に隠され続けたフレデリックの弟王子の額を、正確に撃ち抜いた。
フレデリックは深く眉間に皺を刻み、爪が肉に突き刺さるまで、その大きな拳をきつく握りしめ、凶弾に倒れた双子の弟を見た。弟は忍び込んだ先、万が一誰かと遭遇した際、フレデリックを装ってその場を誤魔化すために、フレデリックと全く同じ装いをしていた。
弟は最期までフレデリックの影でしかなかった。
フレデリックは目の前で途絶えた、弟の哀れな人生を思い、どうにもやり切れなくなった。
しかしフレデリックは目に強い光を宿し、すぐさま、バルコニーの端に身を寄せる。
フレデリックの命は、シャルロッテが犠牲を払って救い、繋いでくれた命だ。身を守らなければ、隠れなければならない。
銃声を聞きつけた誰かの駆け付ける足音が近づいてくる。
荒々しく部屋の扉を明け、バルコニーに飛び込んできたその人は、ヨハンだった。
フレデリックはヨハンがシャルロッテにそっと忍び寄るのを、月明かりの届かない闇に隠れて見送る。
ヨハンがシャルロッテの呟きに答え、それからシャルロッテの肩を抱いた。
フレデリックは己の中に、かつて感じたことのない激しい怒りが渦巻くのを止められなかった。
ヨハンが己を親友と嘯き、その友情を破り、薄汚い計略に陥れた上で、まるで褒賞を得たかのように勝利に酔ってシャルロッテの華奢な体を抱くのを目の当たりにし、ヨハンへの憎悪が燃え上がる。
人の好いフレデリックは、ヨハンがシャルロッテに抱く恋慕を知り、裏切られたことを許そうと思っていた。
浅慮でヨハンに踊らされ、シャルロッテを信じきれなかった己が悪かったのだと自分を責めた。
そしてシャルロッテを愛するヨハンの前で、シャルロッテを疎んじるような振る舞いをしたことにフレデリックは申し訳なく、悔恨の念があった。
しかしシャルロッテによって撃ち抜かれたフレデリックの死体を満足気に見下すヨハンの瞳に、愉悦の色が浮かぶのを見て、フレデリックはヨハンへの怒りを堪えきれなくなった。
そこに倒れるのは、ヨハンの図り事のせいで命を落とした、己の血を分けた弟だ。
確かに弟は父である国王の命によって、近々フレデリックを害すだろうことは知っていた。だが弟は長らく存在を隠され、フレデリックの影として生きてきた。
それならば、これからは弟が日の下で堂々と生きていけばいいと思った。これまでフレデリックが享受してきたものは全て、弟の犠牲の上に成り立っていたから。
それならば未来を弟に返す。
滅亡する以外にないアステア王国から弟を逃がし、フレデリックは王国と共に沈む。そのつもりだった。
その弟が銃弾に倒れた姿を見て、ヨハンは嘲笑っている。己が私欲のために、弟の未来を奪った。
フレデリックはヨハンとの友情を捨て去った。
シャルロッテを失ったヨハンがどうなろうと、フレデリックの知るところではない。
そうしてフレデリックはヨハンの愛人である、シャルロッテの侍女を撃った。
シャルロッテに忠誠を誓う赤毛の護衛騎士に護られ、フレデリックとシャルロッテの二人は城を抜けた。
そして護衛騎士は夜会会場へと急いで舞い戻り、茶番を始めた。
護衛騎士はシャルロッテの遺体捜索の混乱に乗じて城を抜け、フレデリックとシャルロッテを追った。
◇
「姫様。只今戻りました」
シャリーの元に、大柄な体躯を持つフレッドより、更に一回り大きい赤毛の男が膝をついた。
「ご苦労さまでした。貴方の忠義に心より感謝致します」
シャリーが赤毛の大男に手を差し伸べると、男はシャリーの手を取り、恭しく口づけを落とした。
「恐悦至極に存じます。姫様もご無事で何よりです」
シャリーは頭を垂れたまま、自身の手をなかなか離そうとしない大男に、困ったように眉尻を下げる。
その隣でフレッドが眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げ、肩を怒らせている。口を挟まないものの、フレッドの不機嫌な様は、背後からシャリーもヒシヒシと痛いほど感じている。
「さあ、貴方の御役目はこれで終わりました。わたくしから解放致します」
シャリーがそう口にした途端、大男は慌てて飛び上がった。
「そんな! 私は、姫様の騎士となってから、姫様にこの命を捧げると心に決めたのです! どうか騎士の誓いをお受け取りください」
立ち上がった大男が、その大きな体躯でシャリーに覆い被さるようにシャリーへと迫り、シャリーの小さな手を男の大きな両手が包み込むのを見て、とうとうフレッドが声を上げた。
「君には感謝しているが、しかし、シャリーからもう少し離れてくれないか」
大男はシャリーから手を離さず、距離も取らずそのままで、視線だけフレッドに投げた。
フレッドの眉間の皺がますます深くなる。
「君がシャリーの騎士だというのなら、その距離は従者として許されざるものではないのか」
大男はフレッドに冷たい一瞥を投げると、捨てられた子犬のような目でシャリーに縋った。
「姫様、どうぞ御慈悲をお与えください。私の忠義は姫様のもの。如何様にもお使いください。必ず役に立ってみせます」
シャリーはフレッドへと振り返り、眉尻を下げた。
「フレッド、わたくしの愛はあなたに捧げております。ですからこの者へ慈悲を与えることを許してくれませんか」
「む……」
フレッドは言葉に詰まった。
もともと一度はシャリーを信じきることができず、裏切った身。それなのにシャリーはフレッドを赦してくれた。
そのシャリーがフレッドに許しを乞うている。
「それは……」
しかしフレッドは目にしてしまった。
シャリーの小さな愛らしい手を、大男が自身の大きな手でくるみ、そしてフレッドを見下しきった顔をして鼻で笑ったのを。
フレッドの頬がピクピクと痙攣する。
しかしフレッドは額に手を当て、目を瞑り、深く息を吸った。
平民として市井に降りてから、フレッドは感情を顔に露わさない王族としての振る舞いから遠ざかっていたため、とても難儀した。
「許す。いや、本当は僕の許可などいらないんだ」
フレッドは大男からシャリーをベリッと引き剥がすと、己の腕の中にシャリーを閉じ込めた。
「シャリー。僕の愛も忠義も命も、全て君に捧げる」
シャリーは眉を顰めた。
「わたくしはフレッドの女王様にはなりませんよ?」
フレッドは笑った。
「わかっている。君は僕の可愛いお姫様だよ、シャリー」
フレッドの言葉に、シャリーは目を見開いた。
そして唇が戦慄き、みるみるうちに顔が青褪める。
「どうした?! シャリー、気分でも悪いのか?」
シャリーは幼子のようにイヤイヤ、と首を振り、大きなエメラルドの瞳から、涙を溢した。
「ちが……違うのです……。どこも、悪く、あ、ありません……」
そう言ったきり、シャリーはフレッドの胸に顔を埋めて、声を押し殺し、肩を震わせた。
フレッドが大男に鋭い視線を投げると、大男は小さく頷き、口を開いた。
大男は声を出さず、唇だけを動かして、フレッドに伝える。
「ヨハン様がよく、『私の可愛いお姫様』と、姫様を呼ばれたのです」
フレッドは己の胸で体を震わせるシャリーを強く抱きしめた。
声を殺そうとしながらも、堪えきれない嗚咽を漏らし、激しく肩を震わせて、小さな体いっぱいに悲しみを溢れさせている。
フレッドは腰に回した手とは逆の手で、シャリーの頭をかき抱き、シャリーの艶やかな白金の髪に口づけを落とす。
シャリーの悲しみがフレッドの体に伝わってくる。
二人は互いの悲しみを抱き合うことで分かち合った。
シャルロッテとフレデリックの二人を城から逃した赤毛の護衛騎士は、帝国を抜け、二人の元に辿り着く道中で、アステア王国の滅亡を耳にした。
アステア王国国土の一部は、王国の謀叛を未然に防いだとされる大公令息の功労を称え、レーヴェンヘルツ大公国の所領となった。
しかし当の大公令息に勲章を与えるその前に、大公令息は世を儚み、亡くなった皇女シャルロッテの形見を手に、自決してしまった。
亡国の裏切りから始まった、この一連の悲劇は、大陸中に伝わった。
これを題材とした劇作家達がこぞってペンを取る。そうして国を問わず、あちこちの劇場で演じられた。
故人アステア王国王太子は軽薄で悪辣な浮気性の王子として描かれた。
シャルロッテ皇女はそんな王子の所業に胸を痛めながらも、幼き日に王子とかわした愛の誓いを信じ続ける。
そんな健気なシャルロッテ皇女を支えるのが、麗人ヨハン大公令息。
シャルロッテ皇女を励まし、守り、慈しむヨハン大公令息は、いつしか年下の従妹を女性として愛するようになる。
シャルロッテ皇女もヨハン大公令息の愛に気が付き、ヨハン大公令息を愛するようになる。
だが、裏切り者の婚約者、フレデリック王子が二人を引き裂こうと邪魔をする。
そして物語は佳境を迎える。
ヨハン大公令息に心を移したシャルロッテ皇女が許せないフレデリック王子は、口論の末にシャルロッテ皇女を撃ってしまう。
一足遅く、間に合わなかったヨハン大公令息は、フレデリック王子をその手にかけると、倒れたシャルロッテ皇女を震える手で抱き上げる。
ヨハン大公令息がシャルロッテ皇女の頬に手を伸ばすと、シャルロッテ皇女は微笑み、最期の力を振り絞って、ヨハン大公令息に愛を告げる。
『ヨハン、愛しています。貴方を救いたかった』と。
そしてそのままシャルロッテ皇女はヨハン大公令息の腕の中で息を引き取る。
ヨハン大公令息は慟哭し、愛しいシャルロッテ皇女を胸に抱えたまま、涙を流す。
ひとしきり嘆いたヨハン大公令息が顔をあげる。
彼は天を仰ぎ、涙にぬれた頬で微笑むのだ。
『ロッテ、私の可愛いお姫様。今から、君の元へ向かうよ』
そうして幕は降りる。
カーテンコールは大喝采に包まれる。
◇
シャルロッテはヨハンを愛していた。
シャルロッテはヨハンを救いたかった。
可愛いお姫様、とシャルロッテを愛おしんでくれた、シャルロッテの従兄。
シャルロッテに女王たれと言った臣下。
シャルロッテは本当に心から、ヨハンを愛していた。
真実、救いたかった。
――私の可愛いシャルロッテ。
ヨハンの声を、シャリーはもう聞くことが出来ない。
シャリーの脳裏に、ヨハンとの思い出が鮮やかに蘇る。
シャリーを慈しんでくれた、優しく麗しいヨハン。
かつて側にあった、シャリーにだけ向けられた、一途で狂おしいほどの愛を想う。
シャリーがヨハンに思いを馳せ、涙を溢すと、フレッドが、シャリーの名を呼んだ。
僕の可愛いシャリー、と。
(「私の可愛いシャルロッテ」 了)
評価やブックマークなどしていただけますと、とても嬉しいです。励みになります。
※ もし金鉱が見つからなかったら、もしフレデリックが国王になっていたら、などの仮定は活動報告に移動しました。