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嫌な奴

 食品卸売の企業に事務職として就職して五年目、同期の急な退職があった。ぎりぎりの人数でやりくりしていたので、すぐに手が回らなくなった。一刻も早く人手が欲しい、しかも即戦力になりえる人材を、と人事に申し入れて間もなく、面接に来た者を採用したと連絡が来た。

 高橋美奈子、五十五歳、女性、以前同じような職場で働いたことがあるとのことだった。みんなホッと胸を撫でおろした。特に、退職した同期と二人三脚でやってきた私は、その仕事のほとんどを請け負っていたので、安堵は深かった。しかし、課長は不安らしく、渋い顔をしていた。

「高橋さんを知っているんですか?」

「いや、知らない。採用は人事がすることだから。」

「どんな感じの人か、聞いてますか?」

「明るくて、ハキハキものを言う人だって。」

 それなら、あまり問題はないのではないかと思った。

「何か、気になることがあるんですか?」

「いや……年齢がね。五十五歳かと思って。」

 六十三歳になる課長は、笑って口ごもった。

 高橋の入職は六月一日の予定だった。その一週間前になって、彼女から電話が入った。

「足をくじいてしまって!」

 電話の向こうで、ハイテンションな声が響く。受話器を少し耳から離していても、よく聞こえる甲高い声だ。

「買い物に行こうと思って家を出たときに、階段を踏み外しちゃって、靭帯を痛めちゃったみたいなんですよ! 私って、どんくさいから。」

 そう言って、からからと明るい声で笑った。

「今日は、課長が不在なので、伝えておきます。お大事に。」

 受話器を置いて、私はしばらく茫然としていた。一週間後の入職は難しいそうだ。怪我は仕方がないにしても、悪びれる風もないその態度に、急に不安が押し寄せてきた。

「めっちゃ、声でかいね。」

 隣の席の鈴木が言った。顔には、私と同じような不安の色が浮かんでいる。

「靭帯損傷だから、一カ月はかかるかもって。」

「一カ月?」

 鈴木は眉を顰めた。私たちは、互いを慰め合うように、仕方ないという言葉を言い合った。

 翌日、課長と高橋は電話でやり取りをした。しかしその後、一カ月が経とうという頃になっても、高橋から連絡はなかった。しびれを切らした課長が電話をかけたが、繋がらない。その日の午後になって、高橋から電話があった。受けたのは私だった。

「ちょっと電話に出られなくって、ごめんなさいね。何でしょう?」

 その言い方に、私は苛立った。課長は急な来客で席を外していた。高橋から電話があれば、いつから来られるか聞いてほしいという言伝をもらっている。

「いつ頃からこられそうですか?」

「ああ。」

 高橋は、今、思い出したという調子で、

「今日もね、病院に行ってたんです。」

 と始まり、この一カ月足らずの月日について、べらべらと捲し立てるようにしゃべった。あの甲高い笑い声が響く。相手が聞いていようがいまいがお構いない。

 その時、課長が帰ってきた。受話器を差し出すと、ちょっと眉を顰めた。

「もしもし。すみませんね。ちょっと席を外していたもので。どうですか。足の方は。」

 課長は、はぁとか、ふむとか、適当な相槌を打ちながら、高橋の機関銃のようなおしゃべりを受け流している。本題を持ち出すタイミングを探っているようだ。

「何なの、あの人。」

 鈴木が、愕然とした様子で呟いた。

 高橋が出勤してきたのは、七月二十五日だった。私は彼女を指導する立場になったが、二カ月目にして、うんざりしていた。

「これ言うの、もう三度目ですよ。」

 高橋は何も言わない。ムッとしているのは雰囲気で分かった。

「お願いだから、言う通りにやってください。私がやった通りに、操作してくれれば良いんですよ?」

 私がしてみせたことと、同じことを繰り返すだけなのに、と思うと、イライラする。不貞腐れたような態度には、さらに腹が立った。

「私がいなくなったら、好きなようにしてくれて良いから、今だけは私の言う通りにしてください。」

 思わず、感情的になっていた。こんなこと言うべきではなかったし、言うつもりもなかったが、はいはい、と軽い二度返事で相槌を打つ高橋に、プレッシャーを与えてやりたいと思ってしまった。

「私は慣れてないからできないんです! そんなことを言うなんて! ひどいわ!」

 高橋が叫んだ。私はぽかんとした。ぽかんとして、すぐに、怒りや不快感が綯交ぜになった感情が、腹の中でグラグラと煮え立つのを感じた。「何なの、あの人」と言った鈴木の言葉が、鮮明によみがえった。

「そうですね。すみません。言い過ぎました。」

 痰飲下がったという表情をした高橋を見て、こんなやつ大嫌いだと、子供じみたことを考えていた。

 高橋はどうやら、色々な職場を転々としているらしい。経験者と言っても、それほど長い間勤めていたわけではなかった。前の職場では、同僚たちが厳しく、自分は女で立場が弱いのに、誰も助けてくれなかったというようなこと言った。


 一年経っても、高橋は仕事を覚えられなかった。手伝っても終わらない。とにかく、要領が悪いらしい。一つの作業をしているときに、他の事を頼むと、頭の中がごちゃごちゃになるようだ。気が付いたらどちらも中途半端なまま放り出している。

 謝ることも苦手だ。間違いを指摘すると、不機嫌になる。そうなると、返事をしなくなった。

 始めは感情が先行して怒ったが、のれんに腕押し状態だった。その内、私が黙ってさっさとやってしまうようになった。

「仕事の覚えが悪いのは仕方ないよ。五十歳を超えると、ほんと、記憶力が落ちるんだよ。若い君には、まだ分からないだろうけど。」

 課長にはこう諭されたが、逆に怒りが湧いた。五十代でも、きちんと仕事ができる人たちはいる。私だけが悪いと言われているような気がした。

 高橋には、少々無神経といえるところがあった。

 女性社員用の休憩室にテレビが置いてあるのだが、休憩中は、見ていようといまいと、常に電源が入れられている。この時、テレビには昼の情報番組がかかっていて、ある芸能人の不倫騒動を放送していた。妻も芸能人で、しかも、不倫相手は複数人いたというから、かなりセンセーショナルに取り上げられていた。

「あんな綺麗な奥さんがいるのに、信じられない。」

 何となく、口をついて出た言葉だった。

「ほんとね。」

 と相槌を打った同僚に交じって、高橋は穏やかな笑みを浮かべて言った。

「あなたも、結婚したら分かるかもね。」

 私はあいまいに笑った。私以外、その場にいた同僚たちは、みんな既婚者だった。

 他部所に、一七〇センチのほっそりとしたモデル体型の子がいた。今年大学を卒業したばかりの若い女の子で、コピーをとっていた時、高橋と軽くぶつかったらしい。

「あら、こんなところに、大きな壁があった。」

 高橋はそう言って、甲高い声で笑った。

 また、休憩中に、体格の良い女性社員の弁当箱をみて、

「すごい量を食べるのね! 感心するわぁ。」

 と言った。また、あの笑い声付きである。本人としては、コミュニケーションのつもりらしい。私はますます、高橋のことが嫌いになっていった。彼女と距離を置くようになり、仕事以外ではほとんど口をきかなくなった。


 ある日の休憩上がり、私は最後に休憩室を出た。その時ふと、バイブ音がした。高橋がいた机の上に、一台のアイフォンが転がっている。置き忘れたようだ。液晶を下にして、こちらに向けられていたのは、カバーのついた裏側だった。そこに、メモが張り付けられている。透明のカバーとアイフォンの間に入れているらしい。

「お母さんへ」

 子供の字で書かれたそれに、思わず目を止めた。そういえば、彼女の娘は今年高校生になったはずだ。先月の誕生日を娘が祝ってくれたと言っていた。こちらが聞きもしないことをまた一人でしゃべっている、と思った。

「お母さんへ、いつもありがとう。元気で優しいお母さんが大好きです。ユリ」

 私は息をつめた。下手糞な文字だった。そ知らぬふりで、足早にその場を離れた。喉元から、何かがせりあがってくるような気がした。

 仕事に戻って、パソコンを前にしても、あの拙い文字が蘇ってくる。

 私はユリという少女を知らない。これから先だって、知ることはないだろう。高橋のことだって嫌い続けるし、できるだけ関わらないことを望んでいる。

 ふいに、高橋とは似ても似つかないはずの、離れて暮らす母の姿が過ぎった。

 私は自分を、嫌なやつだと、思った。

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