12 女と笛とシチュー
目の前に出された物を見て燈香はこう言った。
「カレー?」
そう目の前には燈香の知る白いシチューはなかった。代わりにカレーのように見えるビーフシチューなるものが置かれている。
「ビーフシチュー!」
「いやだって色が違うじゃんカレーだよ。断じてシチューじゃない」
「だったら、食べてみてよ。ほら、あーん」
「あーん?」
芽依のスプーンに乗ったジャガイモや牛肉が口の中に投下された。
あれ?辛くない。滑らかな舌触りに酸味のような旨味。そして口の中でほどけて消えてなくなる牛肉。歯が要らないとも思えるようにホクホクのジャガイモ。シチューにしては味が濃くそして深い。
「ものすごく、うまい」
「フフッ、ありがとう」
「でも、シチューではない」
「もっと見識を広げてみよう!」
燈香の知るものではなかったが非常に満足した食事だった。
その後、風呂に入ることを進められお言葉に甘え入浴した。天岩戸のように温泉にあるような湯船の大きさでは無かったが一般的な感覚からすれば広いといえるだろう。そしてこの浴場も広さの割りにちょこんと幾つかシャンプーが置いてある程度でやはり物が少なかった。
実際はゆっくりと堪能していたいところだったがよくよく考えたら帰宅しないといけないし、他人の家で長風呂というのも如何なものかと思い少し早めに切り上げた。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「えっ、泊まっていくんじゃないの?」
「ごめん、それは初耳」
どうやら泊まる体で話を進めていたらしい。
「それに親御さんに悪いし、ついでに僕の心臓にも悪いから」
「大丈夫。二人ともぐっすりだし、そんな心臓に悪いことは起こらないから」
「ご両親が居た時点で既に心臓は止まりそうだよ!」
「燈香くん。あんまり、女に恥をかかせるもんじゃないよ」
と言うことで渋々泊まることが決定した。そう、渋々だ。決して邪な考えなんてこれっぽっちもない。同じベッドで寝ることなんて全く想像していない。
その後一応天岩戸に連絡したあと時間が有ったので芽依が笛を見せてくれる事になった。一階の家の中心付近にある一室に入ると様々な笛が壁に飾られていた。
金銀に光輝くものから、木製のもの、更には奇抜な形状の民族楽器のようなものまであった。ちなみにそのすべては笛である。
「すごい。これ何本あるの?」
「この部屋に在るのが27本。家全体だと普段持ち歩いているのも含めて31本」
「へー」
一人でこれだけのの笛を所有し、管理していると言うことから彼女の笛に対する思いが並々ならぬと感じる。
すると芽依は壁にかけられた一つを手に取った。ひときわ小さく半円のような形をした銀色の笛だ。
「モスキート音って知ってる?」
「そのぐらいなら。たしか大人には聞こえない位の高い音だっけ」
「大体そう。ちなみに大人でも聞こえる人は結構いるよ」
「ふーむ。なるほど、じゃあ今からどの音まで聞こえるかチャレンジするってところかな」
「…そう」
ワンテンポ遅れて返ってきた言葉は少しキーが低く感じた。
「本当にやりたい?」
「面白そうだしやろうよ」
芽依は分かったと小さく頷き笛を構える。
「まずは、普通のモスキート音から」
「いや、最初から難易度高いよ!」
そうは言ったものの返り人になった燈香にとってこのレベルは意識せずとも聞き取れる。
「ものすごく高くて、細い音だね」
「うん。次常人じゃ聞こえないレベル」
押さえられた指が一本外された。また同じように音色が響く。硬いものを繊細に引っ掻いたような音がした。
「あんまり、好きじゃないかな」
「私も」
そして、彼女は笛を下ろした。
「はい、ここまで」
「あれっ?てっきりもう一本の指も離して吹くものかと思ったよ」
「一応その音もあるにはあるらしいけど吹いている私にも聞こえない。ちゃんと吹いている手応えはあるんだけどそれでも聞こえない。ちなみに今まで聞こえたって言ってる人は一人だけいるけどただの強がりか聞き間違えだと私は思ってる」
そう言われると余計にやりたくなるのが男のさがってやつだ。
「やるだけやらせて」
「いいけど、今のまま満足して終わった方がいいと思う」
聞く耳を持たずに期待の眼差しを向ける。熱意が伝わったのかはたまた呆れられたのかは分からないが最後の指を外し構え、そして息を吹き込んだ。
キュィーン。
何度も近づいたり遠ざかったりするように音域が絶えず変わりながら異様な音が聞こえた。特段聴こえにくい訳でもない音が何故聴こえないのか僅かに疑問が残った。
「聞こえた?」
「うん、聞こえた。そんなに聞きづらい音では無かったよ。あんまり聞いてて気持ちのいい物でもなかったけど」
すると彼女は顔をしかめた。どうやら今の感想に不服でもあったようだ。
「本当に?」
「あんまりいい言葉は思い付かなかったけど確かにそんな感じに聞こえたよ」
そう言うと芽依は少し考え込んだあと、急に立ち上がり別の笛を取った。それは球体のような形で下半分が大きく欠けた形をしている。
「口直しというよりは耳直しかな。耳直しに一曲演奏させて」
「それはいいね。演奏会も良かったけどもっと間近で聞いていたかったから」
そう言うとまた一瞬固まった。しかしすぐに笛を構えようと口元に近付ける。笛に口が触れる瞬間が物凄くゆっくりに感じた。
そしてゆっくりと行きが吹き込まれる。それに合わせ指も滑らかにとてもゆっくりと動き出す。一見高く淡白に聞こえる音色がゆっくりと燈香の胸に染み込んでゆく。からだの奥に深く沈んでいくような感覚。
あれ?なんか眠いな。
燈香はみるみるうちに姿勢が崩れ床に倒れこんだ。心地よい音色に包まれながら燈香は眠りに落ちていった。
眠る前に僅かに開いた瞼のしたからひどく悲しい顔をした芽依が見えた気がした。




