087 炎の瞳(前編)
「落ち着いたかい?」
「ええ……」
ひとしきりフレイヤが泣いた後、エミリアはそっと彼女の頭をなでる。
「もう、自分の体を傷つけたりするんじゃないよ。」
「うん……」
「ああ、いい子だ。」
「まぁ、その、なんだ。」
フレイヤが落ち着いたのを見届けてから、少年は口を開いた。
「その嬢ちゃんの涙を見たとき、ヒュンドラは言ったんだ。”これが、本当にほしかったもの”だってな。」
「……フレイヤの涙を、だと?」
その声には、怒りがあった。拳は強く握られ、体は憤怒に震えている。
「そうだ。」
「なぜだ。」
少年の返答に、男は間髪入れずに尋ねた。
「なぜ、涙を欲する!?」
「それは分からない。けれど、俺はそれこそがグルヴェイグがフライヤを狙っていた理由なんじゃないかって、そう思ったんだ。」
「──まさか、フライヤも、なのか!?」
ヴェルンドの声に、少年は首を振る。
「この考えには、根拠がない。なぜならあいつは、一度も泣かなかったからだ。あいつは、俺たちと過ごした2年間、ただの一度も、涙を流すことはなかったんだ。死を覚悟していたあの夜ですら、な。」
「……」
「けど、あいつが泣きそうになったことが、一度だけあるんだ。──俺があいつを拒絶してしまった時に。」
少年の脳裏に、最も醜い愚行がよみがえる。冷酷で残酷な落胆の言葉を浴びせた記憶が、ありありと蘇る。
「──俺は、あの顔を忘れられない。あの金の瞳を、忘れることができない。あれは俺にとって、人生最大の過ちの瞬間だ。あいつに死を決意させるきっかけをつくっただけじゃねぇ。家族を突き放した。それが──」
そこまで言って、少年は重いため息をこぼした。
「だめだな。さっきから、妙に感情的になって話が逸れる。もう少し、理知的にならねーとな。」
その言葉は、子供には似つかわしくないものだった。彼の言動はそのすべてが常人のそれではないが、その湿った言葉だけはひどく悲しく、そして耳に張り付いた。
「フライヤは、緑の瞳を持っていた。それがあの時、金色に輝いていた。だから、あいつももしかすると、金の涙を流すのかもしれない。
……それで、フライヤと嬢ちゃんには、アクア連邦の呪いという共通点もある。だったなら、そういう共通点を持っている子供には何か秘密があって、それを理由にグルヴェイグは狙っているんじゃないかって思ったんだ。」
「秘密、か……」
コウスケは怒りの中で、気を静まらせる。己が何を目的として旅をし、何の責務を負っているのかを思い出す。そうして、彼は静かに口を開いた。
「彼女は、『セイズの一族』でもある。フライヤは、その一族だったのか?」
「いや。俺は『セイズの一族』について詳しく知らねぇが、フライヤは俺たちにいくつもの魔法を教えた。魔法の使用に制限がかかっているようには見えなかった。」
「違う、のか……」
「たぶんな。」
「そうか。」
「ところで──」
一人の女が、しびれを切らしたように言った。
「いろいろ話が逸れてしまっているが、この会談は取引だってこと、忘れてないだろうね。O。」
「なんだ?」
「あんたはあんたで、血反吐をはくような境遇にいたんだろう。復讐に身を焦がすほどの事情が、たしかにあったんだろう。それには、同情しなくもない。
けれどな?」
エミリアは少女を抱きしめたまま、少年をにらみつけた。
「あたしにとっては、フレイヤの安全が最優先だ。だから、その守る術を得られないなら、あんたからそのマフラーを奪い取るって手段を、あたしは迷わずとる。」
「……」
「O。あんたは、”そのマフラーがつくられた場所、手に入れる方法を教える”って言っていた。」
「……そうだな。」
「けれど、ヴェルンドはそれは存在しないはずの『神の武具』だといった。しかも、この世界にそれは槍と首巻の2つしかない。そのうちひとつをあんたが持っているなら、残りはあと一つだけだ。
そんな超貴重にして希少なアイテムを、一体どこで手に入れられるっていうんだ?」
「……おれが、嘘を言っているって、言いたいのか?」
「そうでないことを祈りたいね。
もしその槍を手に入れろなんていうのなら、世界最強にして伝説上のソウル・ブレイカー『グングニル』を探しに行くようなもんだからな。」
エミリアの視線を、少年は真っ向から迎え撃った。
「安心しろよ。流石に、そんな無茶苦茶なことは言わねぇよ。」
「なら、どうやって手に入れるんだ?」
「フライヤは、俺たちにいくつか魔法を教えた。このマフラーの使い方も含めて、な。
少し見てろ。」
少年はマフラーを腕に巻き、魔力を込めた。
ライターに火をつけたような、ガスが小さくはじけるような音。それとともに、少年の手のひらに、炎が灯った。
「それが『スルトの炎』か?。想像していたものと……すこし、違うな。」
男は、思わず言葉を漏らした。それは彼の知る”スルト”と呼ばれる存在へのイメージが、破壊と滅亡という暗いものしかなかったからだ。フレイヤが言ったように、”スルト”と言えば『おとぎ話』を終わらせる巨人の名であり、9つの世界を焼きつくす主犯の巨人であった。
だから男は、目を焼くような強烈な炎を想像した。
あらゆる平穏を飲み込むような、厄災を想像した。
悪魔のような、人の肉を焼く地獄の業火を想像した。
この世界に来るときに見たような、すべてを奪う炎を想像した。
けれど、その炎は違った。肌を焼くような熱はなく、かといって暖を取れないような弱弱しいものではない。鮮烈な光を放つことはないが、蠟燭の火ほど弱くはなく、己の影の輪郭をはっきりと浮きだたせるだけの力はあった。
それが揺らめくこともせず、ただ少年の手のひらの中で、一つの塊として存在していた。
熱すぎず、弱すぎず、それでいていつまでも燃え続けていそうな静かな炎だった。
「そんな物騒な名前なんて、俺は思わなかったんだが……まぁ、いい。」
少年は男の言葉に一瞬目を細め、それからつづけた。
「フライヤが俺に教えたのは、この炎を扱う術。その中には、この炎を”譲渡する魔法”もあった。」
「炎を、譲渡する?まさかそれは、『スルトの遺物』の魔法の譲渡ということか!?」
「ああ。」
ヴェルンドの問いに、少年はうなずく。
「”すべての魔法を焼く魔法”、これは今見せている、このマフラーから出る炎が持っている”性質”に近いらしい。いわば、魔法を燃料に燃えているらしいのさ。着火には流石に魔力がいるが、な。」
「魔法を燃料に、じゃと?まさか、そんなことが……できるのか?」
「俺は魔法に精通しているわけじゃない。生き延びるために必要な程度の知識しか持っていねぇ。知りたきゃ自分で調べてくれ。
で、要は”すべての魔法を焼く魔法”は、この炎そのものなんだ。だから、これを保管しておける魔法道具があれば、持ち運べる。」
「持ち運ぶ──『魔封じの水晶球』でもいいのか?」
エミリアの問いに、少年はうなずく。
「ああ。問題ないと思うぜ。ただし、使い方はかなり限られるし威力もかなり小さくなるがな。水晶を割って炎をまき散らして終わり、だ。」
「そんなんでいいのか?」
「魔法を焼くってだけなら、効果はある。実際試したことが一度だけあるしな。」
「……できるの、か。」
Oの言葉に懐疑的ながらも驚きを隠せなかったのは、ヴェルンドだった。
「水晶球に込められる魔法には、魔法のレベルによって限界がある。
普通、レベルの高い魔法になればなるほど高純度の魔素を溜め込める大きな水晶球がいるが、『神の武具』の魔法──いわゆる『神の魔法』と呼ばれる超級魔法にもなれば、馬車に積んでも持ち運べないほど巨大なものになる。まぁ、そもそも水晶球なんぞにそんな超級魔法は保管しないが……
Oよ。おぬしが使ったという水晶球はどの程度のものだ?」
「手のひらサイズだな。フライヤがもともと持っていた一個でしか試したことがないけどよ。」
「そのような小ささで、か……」
うなる老人をよそに、コウスケは言った。
「それでグルヴェイグに対処することは到底できない、な。」
「まぁ、そこは俺も正直否定できねーな。実際、水晶球を使ったのは殺し屋の魔法を消すためで、本当に一つの魔法を打ち消すことしかできなかったからよ。そのあとは肉弾戦だ。」
「そうか……正直武器として使えるレベルのものが欲しかったが──」
「……言っておくが、このマフラーはやらねぇし、そもそも奪い取っても使い方は俺の頭の中にしかない。あんたらが俺を拷問する時間的余裕はねぇし、力づくで得ようとするなら──」
睨みを利かせる少年に、コウスケは首を振る。
「そんなことはしない。利益がない、からな。」
「……安心したよ。」
「なにもないよりかは、いい。水晶球はあるか?」
「残念だが俺はそれを持っていない。
初級アイテムといっても、この街でそれを入手するのは難しい。『魔封じの水晶球』ってのは、中身を一度でも入れたらもう使い切るしかない消耗品だ。この街にあるのは既に中身が入っているものばかりでね。俺はフライヤの持っていたもの以外では、見たことがない。
……ほんと、もしあるんだったら、フライヤの時も、他にもいろいろやりようはあったんだが、な……」
少年は首を振り、二人の大人に言った。
「ってわけで、入れ物はそっちが用意してほしいね。」
「……コウスケ、あんた確かいくつか持っていただろう?使えるか?」
「いや、無理だ。手持ちの水晶には中身が既に詰まっている。ヴェルンド、つくれるか?」
コウスケの問いに、老人は肩を竦める。
「そんなもの、朝飯前だ。材料さえあればものの一刻程度で仕上げて見せよう。
──ただ、問題はその材料がこの街では採れないというところでな。」
「そういえば、俺があんたに作れるかって尋ねた時も、断っていたな。」
「そうだ。Oよ。あれには魔素の多い水晶が必要になるが、そのようなものはここに存在しないのだ。『アンドヴァラホルス』の蔵にあるのかどうか探ったこともあるが、粗悪なものしかない。それではつくることはできぬ。」
「なら、どうするんだ?」
エミリアの問いに、ヴェルンドはちらりとOを見る。
「……なんだ。俺はくれてやらねぇぞ?」
「そうではない。そうではないのだ。方法は……一応、ある。ただ……あまり、気分のいいものでは……」
「なんだ?なぜ俺を見るんだ?」
怪訝な顔をする少年に、老人は言った。
静かにゆっくりと、そのおぞましい考えを。
「ガラスだ。」
「は?」
「魔素を多く含むガラスは、魔法の影響を受けやすい。ゆえに、それであれば、代用が効く。」
「ちょっとまて。テメェ──」
怒りを表す少年に、老人は言った。
「そうじゃ。おぬしの弟、Sの体になら、魔法を譲渡できるだろう。」




