086 決壊 (下)
「どういうことだ?」
”子ども”という単語に、エミリアは目を細めた。
「あまり、いい気がしないが。」
「ああ。ちょっとややこしいんだが、順を追って説明する。
俺はヒュンドラに、そこの嬢ちゃんが持っている指輪をもってこいと言われた。俺はそこの嬢ちゃんごと指輪を婆の前にもってきたが、結局あの婆はその指輪を手に取らなかった。」
Oの切り出した話題に、少女は全身の毛が逆立つのを感じた。
この話題は、ダメだ、と。
「あ、あの!」
「──!」
その叫び声は、男を正気に戻した。
「──どうしたんだ?フレイヤ。」
「ええと、それは、わ、わたしが話すわ!」
「?」
「ひゅ、ヒュンドラは──ううん、ちがうの。わたし、その、指輪を渡すことができなくて──え、ええと、その──」
「フレイヤ?」
コウスケとエミリアは右に左に視線を泳がせ、落ち着かない少女に首を傾げた。
「どうした?」
「いや、その、だから──」
「……弟の話で、交渉が決裂したって言ったろ?その交渉の失敗の発端は、俺の交渉術が下手だったわけでも、そこの嬢ちゃんが指輪を渡さなかったことでもねぇんだよ。」
「なら、なぜだ?」
「O、まって──」
フレイヤの言葉を遮り、少年は話をつづけた。
「嬢ちゃんが、代わりのものを渡してしまったからだ。」
「!!」
その言葉に、フレイヤの心臓は委縮した。椅子の上で寝ているガラスの少年の、もうない腕に視線が移る。
己の失敗、己の過ちが、否応なしに突き刺さる。心臓は破裂しそうなほど早くうち、その鼓動のせいで体が揺れる。視界が回り、己を責める言葉が耳の奥で鳴り響く。
そうして発狂しそうになったその時、少女の中で誰かが叫ぶ。
いやだ、と。
それを認識したとたん、少女はわけが分からなくなった。どうしてそんなことを思ったのか、分からなかった。何を心の中で口走ったのかと、己を責めた。
そうしてゆっくりと自分が視線をある人物に向けていることに、どうしてと、疑問を抱かずにはいられなかった。
「……」
どんな顔をしているのだろうかと、少女は思った。
どんな顔をされてしまうのだろうかと、少女は思った。
自分の過ちを聞いて、この人は、どうするのだろうかと、そう思った。
そうやってコウスケを見上げている自分に、彼女は説明がつかなかった。
理由が、あまりにもはっきりしていたからだ。
なぜ気になったかは、はっきりとしていた。
わからないのは、どうしてそう思ってしまったのか。
彼女は思った。
彼女は願った。
この人には、怒られたくないと。
そのあまりにもはっきりしている理由を、どうして抱いてしまったのかが、少女には、全く分からなかった。
「──代わりのもの、だと?」
「なんだい、それは。」
コウスケたちの問いにOは一瞬口をつぐみ、少女の目を見た。黄金色に輝くうるんだ瞳を見て顔をしかめ、それから湿ったため息交じりに、その問いに答えた。
「……涙だよ。」
「なんだと!?」
その顔は愕然とするだけではなく、恐怖すら抱いているようだと、少女は思った。
男は開いた口がふさがらず、言葉を失ってその場に立ち尽くしていた。
そしてそれは、エミリアも同じだった。
「ふ、フレイヤ、あんた──」
「ご、ごめんなさい!!!」
フレイヤはエミリアの顔が、コウスケの顔が自身を向く前に頭を下げた。
「わ、わたし、どうしてもできなくて!指輪をわたすことなんてできなくて──だ、だから、だから!!」
「──ッ!」
そのあとは、少女にとって予想外だった。
怒られると思った。強い言葉で、非難されると思った。
何しろ、一人の少年が腕を失い、もう一人の少年は殺されかけた。
仲間ではない、敵にも等しい人物ではあったが、殺してしまいそうだった。
それは悪いことだ。すくなくとも、少女にとってはそうだった。
それに、涙を渡すことは、止められていた。
だから、渡すことは悪いことだ。
だから──怒られる。
そう、思った。
ゆえに、分からなかった。なぜ、エミリアが自分を抱きしめたのか。
「もっと、自分を大事にしてくれ──!」
少女は、分からなかった。なぜ、その理由で自分に怒ったのか。
悪いことをしたから怒られたのではない、そのことが、不可解だった。
けれど──
「────」
以前にもあったこの状況に、彼女は耐えきれなかった。
そのぬくもりに、耐えきれなかったのだ。
胸の奥から混みあがった感情は濁流となって喉に押し寄せ、口はそれをせき止めることはできなかった。
説明のつかない感情は言葉にならない声になって口を出て、その瞳から大粒の涙を流していった。




