077 マフラーと悪夢(中)
「くっそ。ソルゲイルの体を硝子にしたのはソウル・マジックだってことは分かったが、肝心の戻し方が分からねぇ。やっぱり、『アンドヴァラホルス』の蔵にもう一度忍び込むしかない。」
あれから、俺は一人でソルゲイルの体を元に戻す方法を探した。隠れ家には戻らず、顔バレしてからつくった街中のあばら家に籠っていたのは、あの顔を見たくなかったからだ。彼女を見れば、きっと次は殴ってしまう。そんなことをしても何の生産性もない。ただでさえ限界が近い肉体に、無駄な体力を消費するのは愚策だ。
「戻らないのは……ただの、愚策だからだ。」
俺の脳裏に、唇を固く閉ざし、泣きそうな顔で俯く彼女の姿が甦る。
「……なんだってんだよ。」
俺は足元のゴミ箱を蹴っ飛ばし、大きなため息をついた。
「──それに、俺はこれから再び『アンドヴァラホルス』に忍び込むつもりでいるんだ。隠れ家に戻ってしまったら、奴らにあの隠れ家を突き止められる恐れがある。戻るわけにはいかない。」
そうやって、俺はゴミのような言い訳を汚い部屋にまき散らした。
「だが、あの一件以来組織の警戒レベルは跳ね上がっている。忍び込むのは何とかできそうだが……」
問題は対侵入者用警備魔法だった。事前に登録していない者が敷地内に侵入すると、多種多様な罠魔法が問答無用で発動する仕掛けになっている訳だが、その中でも呪いや精神系統の魔法が厄介だ。
俺は体に包帯状の魔法防具を巻きつけている。暴力が支配する【掃溜めの街】で生き抜くために手に入れたものだが、こいつは物理攻撃に特化しているせいで精神攻撃系の魔法には耐性がない。つまるところ、手持ちの装備では『アンドヴァラホルス』の蔵に侵入するには足りないのだ。
「さて、どうするか……」
そう言いつつも、俺はその足りないものを補う最も愚かな方法を知っていた。そして俺は、いくつかある選択肢の中から、迷うことなくその方法を選び出した
「あのマフラー……」
◆◇
皮肉な話だ。
あのマフラーのせいで彼女は生死を彷徨い、俺の素性は組織にばれ、弟はガラスになった。それでも手放さないフライヤに俺は腹を立て、一人隠れ家を後にした。
なのに、捨てろと言ったそのアイテムを、今俺は欲している。
「……まさか自分の家に泥棒に入る羽目になるとはな。」
音など立つはずがない。勝手知ったる我が家だ。どこの床板を踏めば音もなく進めるかくらい把握している。俺は迷うことなく蛇のようにブツのある場所へと忍び寄った。そして――
「?」
寝ている彼女の首に手を伸ばそうとして、俺は気が付いた。彼女の首に、あのマフラーがない。あれだけ手放すことを嫌がり、肌身離さずつけていたあのマフラーを、彼女はつけていなかった。
「……」
彼女の枕元に、深紅の布が丁寧に折りたたまれている。
目立つ。
明らかにわざとここに置いている、泥棒の勘はそう告げた。しかし、それは同時に罠ではないということも俺は感じ取った。
「お前……」
彼女は眠っている。リズムの良い寝息を立てながら、白雪のような瞼が凛とした瞳を覆っている。穏やかな寝顔ではなかった。寝ているくせに、覚悟を決めたような雰囲気を漂わせていた。
「お前、起き──」
俺はその先を言うのを止めた。フライヤがここにマフラーを置いているのは、おそらく今日だけではないのだろう。
彼女は俺が今日ここに盗みに戻ってくることは知らないはずだった。ただ、ソルゲイルを通して俺が『アンドヴァラホルス』の蔵に忍び込もうとしていることは、知っている可能性があった。ソルゲイルには、俺は定期的に連絡を取っていたからだ。嘘の下手な弟から真実を見抜くなど、彼女にとっては朝飯前だ。それに、俺に魔法を教えたのはフライヤだ。俺が蔵に忍び込もうとした際に何が障壁となり、何を俺が欲するのか、それを想像するのは容易だったのだろう。
俺がソルゲイルにもう一度蔵に忍び込もうとしていると連絡を取ったのは2週間前。おそらく彼女は、その時からマフラーを手放す覚悟を決めているのだ。
「…………」
しばらく俺は彼女の決意に満ちた寝顔を眺め、そして――
「……朝には、帰る。」
そのマフラーを、手に取った。
そしてそれが、俺が彼女にかけた、最後の言葉になった。
◆◇
「――――」
俺は、マフラーを落とした。何が起きたのかさっぱり分からなかった。
アンドヴァラホルスの蔵に忍び込み、手に入れるべき情報を手に入れた。そして、その足で隠れ家に戻ってきた。
その間、およそ2時間。
たった、2時間だ。
その短い間に、一体何があったというのだ。
「……どういう、ことだよ。」
視界が揺らぐ。目の前にあるものを、理解することができない。俺は膝をつき、震える手をもう一度ベッドに横たわる少女へと伸ばした。
「……なんで、だよ…………」
冷たい。まるで氷に触れているみたいだ。
「……おい。起きろよ。」
返事はない。幽かな吐息すら出さないその体を、俺はゆする。
「何、黙っているんだよ……もう、おわったぞ?」
けれど、決意を固めたその表情は、いつまでたっても、笑顔にはならなかった。
◆◇
「ソルゲイル。何があったんだ?」
俺は床で両膝を抱える弟に尋ねた。だが、弟はすすり泣き、首を横に振るだけだ。弟もまた、何が起きたのか理解できないでいたのだ。
だが、俺は落ち着いてなど居られなかった。
「ソルゲイル!!」
弟と同じ視線で、弟の目を見て俺は尋ねた。
「何があった!!」
「わかんないよ、兄さん!!」
弟は泣きながら首を横に振る。
「音がしたんだ、変な、虫が飛ぶような音。」
「虫?」
「それで、なんか変だなって思ってフライヤの様子をみに行ったら、もう──」
「……」
何がいけなかった?何を間違えたのか?
計画は完璧だった。警備の目をかいくぐり、魔法の全てを解除して、最短で得るべきものを得た。ソルゲイルを救う手がかりを得たのだ。追手だって来てはいない。
なのに──
それなのに、なぜ、お前が死ぬ?
ただ寝ていただけの、お前が、死ななきゃいけないんだ?
「お前が死んでしまったら意味がないんだよ!」
俺がかつてフライヤに言った言葉が、俺の耳の中でこだまする。
ああ。
そうだ。お前が死んでしまったら──俺は何のために生きればいい?
この腐りきった【掃溜めの街】で、何のために生きていけばいい?
家の中には、カップがあった。
「ほら、缶より陶器の方が、使いやすいでしょう?」
家の中には、毛布があった。
「麻の布団だけじゃ、寒すぎるわ。」
家の中には、椅子があった。
「いつまでも切り株じゃ、背を預けて話をすることもできないじゃない。」
変なんだよ。お前が来てから、余計なものが家の中にある。スラムじゃ生きていくのに最低限のものさえあればいいんだよ。そんなものを持っているくらいなら、売ってしまえばいい。そうすれば、もう一枚のパンが食えるんだから。普通の家にあるような、普通の家族が持っているようなものなんか、いらないんだ。
なのに──
「ね?いいでしょ?こういうの。」
「まぁ、お前がそう言うのなら──」
悪くはないな、と、思ってしまった。普通の家にあるようなものがある生活が、“普通の家族”のような生活を、悪くないと思ってしまった。その瞬間に、“生きる”だけが目的だったはずのこの人生に、別の目的が生まれてしまった。
「ねぇ、オッタル。わたし夢があるの。」
「夢だぁ?そんなもの持ったって……いや、一応聞いとく。どんな夢だ?」
「いつかスラムから抜け出して、普通のおうちで、三人一緒に暮らしたいの!」
「なんだそりゃ。今だって──」
「オッタルは嫌?」
「それは──」
「それは?」
「──まぁ、悪くない、かな。」




