076 マフラーと悪夢(上)
雨が降っていた。
数分も打たれれば肉が骨から削げ落ちそうな、槍のように鋭く痛い雨が降っていた。酒場の怒号は雨音で洗い流され、滝のような雨量に一寸先も見えやしない。
そんな日は誰も家の外になんか出てはこない。誰もかれもが窓を閉じ、暖炉の前で読書にふける。そんなときに路上にいるものは、死体かそれによく似た人生を送る負け犬だけだ。
けれどそういう日こそ、働くにはもってこいだった。
足音は雨でかき消され、物音は風と共に空気に消える。白昼堂々と人家に侵入し、ありったけの肉とパンを掻っ攫い、不審に思われない程度の貴金属をポケットにしまっても、何も気づかれることはない。豪雨ってのは、泥棒にとってはまさに天の恵みというべきものだ。
その日もいつものように、俺は家に侵入した。床の軋みが酷い、誇りと染みに塗れた薄汚い家だ。
そこにはつい最近テッラ王国から逃れてきた妙に身なりのいい家族が住んでいた。落ちぶれた貴族かそれともヤバい仕事をした商人か。真相は分からないが、いずれにしろごみ溜めの街の中では多少金をもっている奴らなのは間違いない。そう、俺の感が囁いた。
俺の目は濁っていなかった。屋根裏に隠された金貨や毒の入っていない新鮮な食料はもちろん、一見どうってこともないようなコートは売れば高値で取引される高級毛皮でできている。服の繊維には銀の糸が織り込まれ、たとえ金貨が盗られても多少は喰いつなげられるだけの工夫が施されている。一級品の亡命装備が揃った、完璧な獲物だった。
「ははっ!亡命の準備は良かったようだが、この街に俺がいることだけは調べられてなかったみたいだな。」
俺は売っても足が着かなさそうな金品を全て袋に詰め込んで、優越感に浸った声を発した。
それだ。それがいけなかった。
「誰?」
雨の音は俺の足音をかき消しても、薄汚れた声だけは洗い流してはくれなかった。その声を、よりにもよって穢れとは無縁な人物に届けてしまった。
「あなたは、誰?」
戸を開けた向こうに立っていたのは、血のように赤いマフラーを巻いた、一人の少女。真珠のような白い肌に、夕日に照らされた小麦のような鮮やかな金髪をもつ一羽の小鳥。
それが、フライヤとの出会い。
出会わなければと何度後悔したか分からない、あの雨の日のことだった。
◆◇
「じゃぁ、明日はその商人の御屋敷に忍び込むのね?」
「そうだが──」
「なら私はもう寝ようかしら。しっかり寝てないと明日に支障がでてしまうわ!」
「お前な……」
フライヤと出会って2ヶ月もしないうちに、彼女は俺達と一緒に泥棒の仕事をするようになった。彼女が泥棒に手を出した理由は単純で、やはり金銭に困窮し始めたからだった。無論、その要因の一つは俺が盗んだ金貨だったが、そうでなくてもその事態は直ぐにやってきた。父親は病に倒れ、母親は街のゴロツキに殺され、彼女はこの街に来て1か月で孤児となった。
残酷と言うつもりはない。普通のことだ。この【掃溜めの街】ではよくあることだ。
同情などするつもりはない。ただの他人だ。この【掃溜めの街】では自分が生きるだけで精一杯だ。
そう、その時の俺は自分に言い聞かせた。善行だの道徳心だのというものはこの掃溜めにはないが、それでもそういうモノを持った人間からすれば、俺は最低のドブネズミだ。
だがそんな俺に、彼女が孤児となる要因をつくった俺に、彼女はあっけらかんとしていったのだ。
「どうせ盗みをするなら、一緒にやった方が成功率は上がるわ。私、多少は魔法が使えるから、役に立てると思うのだけれど。どうかしら、オッタル?」
不思議な女だった。
犯罪渦巻くこの街で父母を失い、失意と絶望に打ちひしがれていてもおかしくない状態だ。それなのに、彼女の顔からは屈託のない笑みが消えることがなかった。おまけにその笑顔で盗みの計画を立てるのだ。
──度し難い。
いったい、こいつの頭のネジはどこへ行ってしまったのか。父母を殺され精神が壊れたかと思ったがそういう訳でもなく、彼女の言葉には一言一句強い意志が込められていた。
ここは【掃溜めの街】。外では生きられない訳有りの連中が集まる街。ここで生きている奴らは、どいつもこいつも死人のうめき声みたいな声を出す。覇気もなく精気もなく、ただ肉を喰らって動く肉。生きているくせに死んでいるのと変わらない、全てを諦めた人間が出す声だ。
なのに彼女の声からは、そういう響きを感じなかった。
こいつはきっとこの街の外でも生きていける奴なんだと、俺は直感した。
そう思うと腹が立つ。所詮俺はスラムのガキ。外では生きていくことなんてできないドブネズミ。美の女神フレイヤを表す名前を授かった商人の娘とは、その在り方が違い過ぎるのだ。
「さっさとこの悪臭のする街から出て行けばいい。」俺はそう何度か言った。けれども彼女は街から出て行こうとはしなかった。そして――
「さて、明日もがんばらなくっちゃ!……オッタル?どうかしたの?」
「いや……」
どれだけ月日が経っても、何故か彼女からは、俺が持っている穢れた盗人の臭いがしなかった。
◆◇
フライヤが仲間として活動するようになって2年が経ったある日、彼女が病に伏せた。
「ソルゲイル、あいつの調子は?」
「あんまりよくないよ兄さん。いろいろ調べたけれど、アクア連邦の風土病の1つだと思う。」
「アクア連邦?なんでそんな海の上の病を……いや、今はいい。それで、その治療法は?」
「一つだけ。でも、薬がいるんだ。」
「そうか……」
俺はソルゲイルから薬についての情報を得、それを手に入れる算段を立てた。最初は盗みにでも行こうかと思ったが、こういう自分たちの体の安否に関わる代物は、盗む方が後々損をすることを俺は知っていた。どんなにめんどうくさかろうが、買った方が安全だ。何しろこの街の薬屋は限られる。一度盗むだけで済めばいいが、病が再発すればそこからまた盗むしかなくなってしまう。一度強盗に入られた店は警戒心が強くなるから、失敗に終わるリスクが高い。盗みに入った店に次から買い物に行くなんてマネもできない。それに必要な薬が今後増えないとも限らない。そうなると一度盗むと後がなくなる。故に、どうにかして異常な値のする薬を買わねばならなかった。
「フライヤ……その、言いにくいんだが……」
俺は彼女に説明した。手持ちのものを全て売っぱらっても、その薬を買う値にはほど遠い。しかし──そう、彼女が着けているマフラー。あらゆる魔法を“焼く”という上級魔法道具であるそれを売りさえすれば……肌身離さずつけているそのマフラーを売りさえすれば、薬が買えるのだと。
だが──
「これだけはだめ!」
彼女は即答し、その意思は固かった。よほど思い入れがあるのか、彼女はそれを手放すことどころか、肌から放すことすら嫌がった。歳は俺より一つ上だというが、その様は駄々をこねる幼女のそれだった。
「……はぁ。仕方がない、な。」
頑として首を縦に振らない彼女に、俺は折れた。そしてそれまで避け続けた、賭場への出場という方法をとることにしたのだ。
(顔が割れると、この先の仕事がやりにくくなるが……背に腹は代えられない、か……)
結果、俺達は薬を手に入れ、フライヤは完治した。
しかし同時に、俺の不安は、現実へと変わっていった。
◆◇
仕事がやりにくくなって半年、恐れていた事態は現実になった。
仕事ができないなか、飢饉が続き、ついに食料の備蓄は尽きた。限界が近いことを知った俺とソルゲイルは、フライヤに黙って『アンドヴァラホルス』の倉庫へと忍び込んだ。そして――
「――ソルゲイル、どう、しちゃったの……その、体……」
弟は、ガラスになった。
◆◇
「どうして『組織』の蔵になんか入ったの!あれほど『組織』に手は出さないって言っていたじゃない!」
フライヤは金切り声を上げて俺達を責めた。それはそうだろう。組織に手を出せばこの首が胴からすげ落ちるまで追われることになる。自殺行為も甚だしい。どれだけ危険なことなのか、2年もこの街で過ごした彼女は分かっていた。
けれど、彼女はなぜ俺達がそうしなければならなかったのか、それを知ってはいなかった。
無論それは俺の意志によるものだ。彼女にすべてを知らせる必要はないと、そう思ったから知らせなかった。
だからあれは全て俺の判断ミスだ。別に彼女に落ち度があるわけではない。
けれどもこの時の俺は、俺のミスであるというのに、何も知らずにただ俺達を責め立てるフライヤに、苛立ちを覚えてしまっていた。
「そんなことは分かっている!だが、このままじゃどうしたって三人とも冬を越せない!餓死するか否かってところなんだぞ!?俺達スラムのガキが出来ることなんて他にねぇ!手段なんて選んでいる余裕はないんだよ!!」
「なんでよ!去年だって大変だったけれど、それなりの備蓄が──」
真実に気がついた彼女の顔が、途端に暗くなった。
「わたしのせい、なの……?」
「……」
「わたしの病気を治すために買ったあの薬、あれのためにまさか……全部、売ってしまったの?」
「……」
「ねぇ、ソルゲイル。」
返答しない俺に、フライヤは質問の矛先を弟へと変えた。
「確か、あなたは言ったわよね。薬は、オッタルの出た賭場で得たお金で十分お釣りがくるって。」
「ええと……それは……」
「嘘、だったの……?」
「いやその……あ、そう!そのね?最近飢饉だからいろいろ値が張るでしょ?それで兄さんの金貨も底をついちゃってさ。その上でええと、ほら、僕、大食いだから!その、ゴメン!僕が、隠れてパンを一口、齧っていたんだ。二人に黙って。だから、その、備蓄がなくなって……」
「……嘘、だわ。」
「いやいや。ほんとだよ?ほら、じゃなきゃ兄さんより背が高くなったりなんかしないって!ね、兄さん!」
「……違うわ。」
「だから、僕のせいだからさ。フライヤもあんまり兄さんを責めない――」
「やめろ、ソルゲイル。」
俺はソルゲイルの口をふさぎ、ふつふつと湧き上がる怒りを声に出して叫んだ。
「そうだよ。お前の薬を買うのに、金が必要だったんだ。」
「……」
「ちょっと、兄さん!?それ言わないって言ったの、兄さんじゃ──」
「黙っていろ、S。」
「!!」
俺はフライヤを睨み付け、悪態をついた。
「あの薬は、1回買うだけじゃ足りなかったんだ。お前の症状はかなり重篤だった。だから、最初に想定していた金額の3倍の金が必要だった。」
「それじゃ……」
「ああ。盗れるところからは全て盗ったし、売れるものは全て売った!!賭場の試合だって、最初は1回だけのつもりだったが、5回も出る羽目になった。おかげで俺はすっかり有名人だ。」
「オッタル、その……」
「だがな、それでもギリギリだったんだよ!!切り詰めて切り詰めて、やっと首の皮一枚つながったと思ったら、この飢饉だ!もう俺達に後はない!!組織のモノに手を出すしかなかったんだよ!それもこれも──」
俺はフライヤの首を指さし、はっきりと言った。
「お前がそれを手放さないからだよ!」
「!!」
「ちょ、兄さん!!」
制止に入るソルゲイルを押し退け、俺はフライヤに詰め寄った。
「何故だ!!何故それを手放さない!!確かに魔法を無効化できるマジックアイテムは有効だろう。これまでもそれに助けられたのは事実だ!
だが──だがな!
お前が死んでしまったら、意味がないんだよ!!」
「……」
「フライヤ教えてくれ!何故なんだ。何故自分の命を危険に晒してまで、そいつを手放さないんだ!!」
「それは……」
彼女は俺から目を反らし、固く唇を噛んだ。
それを見て、俺は確信した。
“こいつはしゃべらない”
俺の怒りは俺の理性をふっとばした。
たった2年とはいえ、共に仕事をし、同じ釜の飯を食い、同じ屋根の下で生きてきた。それなのに、一番の肝心事となると他人のままだった。
俺は怒りをそのまま言葉にし、冷酷な落胆を彼女に浴びせた。
「ああ。いいよ、もう。」




