072 ヒュンドラの詩(後編)
「……ここは?」
少年が目を覚ますと、そこは霧の中だった。一寸先も見えない濃霧の中。霧の向こうに見える景色は朧げで、形を作っては崩れ、崩れては新たな形が出来ていく。
「……これは、夢、か……?」
少年は自分の両手を見つめる。形ははっきりとしており、五指も自由に動かすことができる。
「いや。意識を働かせることができているということは、これは幻覚の魔法か。」
少年は周囲を見渡し、首に巻いた赤いマフラーを強く握る。そして状況を理解すると、彼は霧の向こうに唾を吐いた。
「チッ……ほんとにただの幻覚かよ。こんなものに、俺はビビっていたのか。」
彼は自分が幻覚にかかる前の己を叱責した。そしてそれ以上の憤怒を露わにし、霧に向かってさらに悪態をついた。
「ヒュンドラめ。俺の想像するモノを霧の向こう側につくろうとしているな。何をする気かと思えば、こんなちんけな魔法で俺をとどめようって腹だったのか?」
Oはマフラーを握る手に魔力を込め、怒りを放つ。そしてそれに呼応するように、赤いマフラーから深紅の炎が燃え上がった。
「ふざけんなよ。報酬踏み倒そうったってそうはいかねぇ。こんな魔法、焼き払ってやる!」
「へぇ。やっぱりそれを使うんだね。オッタル。」
その声に、少年は意識の全てを持っていかれた。炎は消え、魔力は塵へと帰し、身を凍らせる怖気が体を蝕んだ。
「え?忘れちゃったの?オッタル。」
小鳥が囀るような美しい声。その声が、少年の心臓を抉ってきた。
「お前、は──」
「ねぇ、忘れちゃったの?」
忘れもしない、決して忘れることのできないその声の主が、振り向こうとしない少年の前に、霧の中から姿を現した。
「久しぶりだね。オッタル。」
「──フライヤ」
◇
「なら商談は成立だな。明日また水を貰いに来る。」
手続きを終えたエミリアは、店主が店の奥に引っ込むのを見届けてからふぅとため息をこぼした。
「ったく、ぼったくりもいいところだ。こんなんじゃ国境を超えるための金がいつ貯まるか分からんぞ。」
エミリアは椅子に背を預け、中身のすっかり少なくなった砂金袋を見つめる。
──金が、足りなかった。【掃溜めの街】で生きていくにも、国境を越えるためにも、金が足りなかった。故に彼女らはどうしても金を稼ぐ手段が必要だった。
「……『先祖合戦』か。怪し過ぎる内容だが、確かに一度に得られる金貨の量はどこの賭場よりも多い。危険ではあるがやるしかない。
問題は、『先祖合戦』で使われるソウル・ブレイカーだな。テッラ王国では『罪人を殺すソウル・ブレイカー』という名前だったものが、こっちじゃ『嘘つきを殺すソウル・ブレイカー』って言われているのが少々気がかりだ。だいたい原理については想像つくが、それでも名前が違っているってことは、何かが変わっている可能性がある。調査は必要だ。すぐに準備に取り掛からなくてはな。」
彼女は砂金袋をポーチにしまい、それからフレイヤのいる部屋の扉を見やり、思い出したように呟いた。
「……それにしても、『ヒュンドラの詩』をフレイヤが知らない、という事実は少し気になるな。」
(『ヒュンドラの詩』。
確か『おとぎ話』では、美の女神フレイヤが恋人オッタルを賭け事で勝たせるために、女巨人ヒュンドラの元に助言を得に行くという話だったはず。そしてオッタルが挑んだ賭け事というものこそが、自分の先祖が何人まで言えるのか競い合う『先祖合戦』。多く言えた者が勝者となり、勝者は神より黄金を賜るというもの。だから女神フレイヤはヒュンドラからオッタルの血縁者が何者で、何を成した人物かを聞くのだが……)
「問題は話の内容ではなく、いろいろな話がある『おとぎ話』の中で、女神フレイヤを主役にした話がそれくらいしかないってところだ。」
(女神フレイヤは『おとぎ話』全体において、各所に度々登場する最重要女神の一柱だ。多くの神や巨人から求愛される対象であり、主神オーディンの妻フリッグに次ぐ、最高位の女神。だからこの世界で女神フレイヤを信仰する人は多いし、娘の名前を女神フレイヤにあやかったものにすることは珍しくはない。)
エミリアは立ち上がり、目を細める。
「だからこそ、そんな重要な女神が唯一主役として語られる有名な『詩』を知らないってのは、何か引っかかる。
たしか彼女の母親は学者だとフレイヤは言っていたが、この『詩』を教えなかったことには、何か意味があるのか?
いやまてよ?そういえば、マグニの弟も魔法学者にして神話学者だった。彼が亡くなる直前の論文に、この『ヒュンドラの詩』についての記述があったような──」
「エミリア。」
その声にエミリアは間髪入れずに針を抜き、突如己の背後をとった男に投げつけた。
「おいバカ、よせ!俺だ。コウスケだ。」
「……あんたね、気配を消してあたしの後ろに回るんじゃないよ。この街でそんなことしたら敵だと思うだろ?」
「相変わらず容赦しないな……危うく死ぬところだった。」
コウスケは指の間に挟んだ金色の針をエミリアに渡し、小さく安堵の溜息を洩らした。
「いや、あんたならこれくらい大丈夫だろ?現に生きているし。」
「つい10日ほど前もこんなことがあったような……」
コウスケはエミリアと再会した時のことを思い出し、苦笑する。しかしエミリアの次の一言ですぐさま顔を引き締め、本題へと移った。
「で、何かあったのかい?」
「ああ。状況が変わった。ルーフスとウィオレンティアが追ってきている。」
「紅蓮の王が!?」
思わず声を荒げたエミリアは店の奥を見、店主に聞かれていないことを確かめると、声を潜めて尋ねた。
「おいおい。あたしらを追っているのはたしかフラーテルだったんじゃないのか?」
「ああ。そうだったが、それが変更になったようだ。」
「いったいどこからそんな情報を?」
「フラーテル本人から聞いた。」
「はぁ!?」
あっけらかんと重大なことを報告するコウスケに、エミリアは空いた口が塞がらなかった。
「あ、あんたねぇ!なんか見つけて駆け出していったと思えば、そういう重要なことだったら先に相談してくれ!」
「それは……すまない……。」
「……」
視線を外したコウスケに、エミリアはすべてではないにしろ、その理由を察した。彼が何故敵であるフラーテルに接触を計ったのか、その理由を。
「……しょうがないねぇ、まったく。」
盛大にため息をついてから、エミリアはまっすぐコウスケを見ていった。
「しかしそれが本当だとすると、あたしには1つ疑問がある。」
「何だ。」
「ルーフスはニョルズの盟友だった。そして、ヤツはヴァルキリーズの中でも最も誠実な騎士だ。そんな奴が盟友の娘を抹殺する任務を受け入れているとは、とても思えないのだが……」
「それは……」
コウスケは一瞬口を噤み、それから今まで自分が得てきたルーフスという人物についての知見を再考し、端的な結論を出した。
「……おそらく、ルーフスはフレイヤを殺すだろう。たとえそれが意にそぐわぬものだとしても。」
「何故そう思うんだい?」
「ルーフスの決断は、“法”に則るからだ。」
「……“法”、か。」
その言葉に、エミリアは納得した。
「……なるほど。奴は『審問官』、だったな。」
「カエルム帝国は犯罪を犯した場合、その罪は当人だけでなく家族も背負うという法律を敷いている。フレイヤの母親がニョルズと共に連れていかれたのはそのせいだ。
故にフレイヤは……ニョルズの……」
一度言葉を詰らせ、コウスケは大きく息を吐き出した。
「……あぁ、彼女は元々危険因子として登録されていた。だが恩赦として処刑命令は出ていなかったんだ。彼が動かなかったのはそういうことなのだろう。」
「ということは──」
「そうだ。彼が動いたということは、法の名のもとにフレイヤを処刑しに来るということだ。
あいつの法を守る者としての決意は堅い。まさに法の番人だ。そこに私情は挟まない。あいつが一度決めたことは、誰であれ揺るがすことはできないだろう。」
「そう、だな……あいつは騎士であり裁判官だ。ヴァルキリーズの中では結構仁徳のあるやつだと思っていたけれど、どうにも立場ってのは人生を思うように進ませないねぇ。」
「ああ……あいつは……表立っては言わないが、ニョルズが死んだ後もフレイヤを気に掛けていたようだった。」
押し殺すように、コウスケはつぶやく。
「立場上接触することも援助することもできなかったようだが、フレイヤが街人に殺されないよう、犯罪者の家族を法廷以外で処刑することを禁じた法を新たに敷いたのは、ルーフスらしい。」
「法を敷く、か。またあいつらしいやり方だな……」
「……奴は義理人情に厚い男だが、奴が奴たらしめているもの、それは“騎士”であり“法”だ。あいつには騎士として法を守り、王に尽くすという責務を全うする大義がある。奴にとっては、それが最優先される行動原理。だからこそ、フレイヤを殺す決意をしたのだろう。いや、そう決意をせざるを得なかったんだろう……」
「その言葉の尻に、“俺がフレイヤを連れ出さなければ”とか言うんじゃないよ。」
コウスケの言葉を遮り、エミリアはきっぱりと言う。
「過去は過去。なってしまったものは仕方がない。今は今後を考えよう。」
「……そう、だな。」
エミリアの言葉に、コウスケは深く息を吸う。
「状況を整理しよう。
今俺達を追ってきているのは審問官ルーフスと軍師ウォルプタース。
ルーフスはカエルム帝国一の槍使い。戦場においてあの男の槍の前に立っていられるものは一人もいないといわれるほどだ。直接の戦闘はまず避けなければならない。」
「同感だ。あたしはあいつが戦場で槍を振るう姿を見たことがあるが、アレはまさに”騎士となった狂戦士”だった。あの男は戦場では”破滅”そのものだ。
正直、あたしが一騎打ちをしたら相打ちにもちこめるかどうか、というレベルの存在だよ。」
エミリアは頷き、自分の弓を握る。
「それにあいつのソウル・ブレイカーは魔槍剣『グラディウス・ティルヴィング』。あれはある意味、『海剣』と同格の魔法武具だ。」
「確か、どこかの遺跡で発掘された『呪いの剣』を槍に組み替えてつくられた代物だったな。”必中の一投”を可能にする代わりに使用者の命を削ると言う……」
「ああ。あれはこのカエルム帝国ができる以前の遺跡から発掘された、古代の魔法武器──『おとぎ話』では、”神々の武器”と言われている代物だ。
そういう魔法武具は格が違う。
あたしやアンタのソウル・ブレイカーが直接攻撃されたら、間違いなく一撃で破壊されるぞ。」
「ならルーフスには逃げの一手しかないな……」
コウスケは目を細め、ため息を着く。
「正直ルーフス一人でもごめんなんだが、今回はそれ以上にウォルプタースが厄介だ。」
「あたしはあいつのことをよく知らない。
どんな奴なんだ、ウォルプタースってのは。」
「あいつは……」
彼女の問いに、コウスケは一つ間をおいて答えた。
その瞳は険しく、ひどい嫌悪に満ちていた。
「狂人、だ。」




