071 ヒュンドラの詩(前編)
「まって!」
しわがれた手がフレイヤに伸びたその時、少女は叫んだ。
それに慌てたのはOである。彼は彼女の腕をつかみ、耳元で忠告する。
(おいバカ!何かするのなら、俺の目的を達成してからだと言っただろ!)
しかしフレイヤはそれを無視してなおも言った。
「指輪は、あなたにはあげられないわ。」
(ちょ───おま、何言ってんだ!?)
「ひぇひぇひぇ。それは困ったねぇ。そうなるとあんたのお仲間の対価は支払えないねぇ。」
「「仲間じゃないわ/ねーよ!」」
二人同時の反論に、老婆は少し驚いた様子を見せた。そしてから再び品のない笑みを浮かべると、紫のローブの奥から二人に言った。
「……ひひひ。それならどうする?あんたが指輪を渡さなければ、Oは目的の情報を得られないぞ。そしてそれは、あんたがほしい情報でもあるだろう?フレイヤ。」
「!?どうして、わたしの名前を──」
「知っているとも。あんたのことはよーくね。『光の弓』と、ああ、あの銃を持った男のことも、よく知っている。」
「!?」
フレイヤは一歩後ずさった。自分の指輪を欲しているのだから何かしら自分に関する情報は持っているのだろうとは予想していた。しかし、エミリアやコウスケのことまで知っているとは、想像もしていなかった。目の前の老婆の得体のしれなさに、彼女は背筋が凍ってゆくのを感じ取った。
「おいおいおい。冗談じゃないぞ。」
フレイヤの隣で怒りを露わにしたのは、Oだった。
「俺がどんだけ大変な思いをしてここまで来たと思っていやがる。俺はここに指輪を持ってきた。それだけじゃねえ。元々の要求だった21枚の金貨のうち、20枚は既に手に入れているんだぞ!?それだけでも対価を得るには十分なはずだ!」
「ひひひ。愚かなO。それであればお前には情報を半分しかやらぬ。」
「はぁ!?」
「それはそうだろう。儂の元に指輪は来たが、手には入っておらぬ。それに指輪は、お前が持ってきたのではない。自分からやってきたのだ。その証拠に、指輪を持っているのはお前ではないのだから。」
「ふざ──」
「ま、まって!」
今にも殴りかかろうとするOに、フレイヤは叫んだ。
「なんだよ!」
「指輪は上げられない。けれど、別の黄金ならあげられるわ。」
その言葉に老婆は嗤い、Oは眉を顰めた。
「ひひひ。別の黄金?そんなもの、ほしくも──」
「い、いいえ!」
「?」
「あ、あなたは、わたしの持っている黄金がほしいのでしょう?
それなら、わたしには、あなたにあげられるものがあるわ。」
「……なに?」
老婆の顔から、笑みが消えた。少女が何を言わんとしているのか見定めようとするように、その開きもしない細い眼でじっとフレイヤを見つめている。
「……嘘、ではないようだねぇ。何を、くれるのかね?」
「……あれ、少しお借りしてもいいかしら?」
「香炉の火鉢?構わないが、そんなもの、何につかうんだい?」
老婆が眉を顰めているのをよそに、フレイヤは火鉢に近づく。そして──
「げっ!おま、何やってんだよ!!」
「ふ、フレイヤ!?!?」
Oとソルゲイルが驚愕したのも無理はない。彼女は突然火鉢の中に手を突っ込み、焼ける石をその白い手で握ったのである。
「これ、で──ッ!」
「馬鹿野郎!何やってる!!」
痛みに歪む少女に、一人の少年が駆け寄った。そして少年はすぐさまフレイヤの腕をつかみ、火鉢の中から手を引き抜いた。
「テメェ、正気なのか!?何考えていやがる!!」
「だって、こう、でもしないと、涙が……」
「はぁ?涙?涙がどう──」
Oは、言葉を失った。目の前の少女の流す涙が、光り輝いていることに気が付いたからだ。金色に輝く黄金の涙。溶けた金のように美しく、ゆっくりと流れる涙に、彼は言葉を失った。
「おま──それ、は……」
「そう。わたしの、涙は、黄金なの。」
フレイヤは流した涙を掬い取り、手の平に乗せて見せる。
「これなら、指輪なんかよりずっと大きな金が取れるわ。」
「お前……」
「だから、これを使えば……O?」
少年の顔は、何故かゆがんでいた。歯を食いしばり、怒りを露わに少女を見下ろす。
けれどフレイヤは、その怒りの矛先が自分には向いていないと、そう思った。
「O?」
「──」
「あの、腕、痛いのだけれど……」
「!?あ、ああ。いや……なんでもない。すまん。」
我に返ったOは、それまで一度も口にしたことのなかった単語を発した。そのことに、フレイヤも、そして誰よりO自身が、目を丸くして驚いていた。
「……O?」
「……いや、何でもねえ。」
少年は一歩後ずさり、フレイヤと目を合わせようとはしなかった。そしてそれに代わってフレイヤに近づいたのは、老婆であった。
「それは──それは、それは!!その、その黄金は!!」
「!」
ミイラが立ち上がったかの如き形相で、老婆はフレイヤに近づいた。その異様な反応に、Oとソルゲイルは瞬時に状況を理解した。
交渉が破棄された、と。
老婆の顔は交換条件のことなど眼中にない。そんな人物が得るモノを得た後どうするかなど、この【掃溜めの街】では分かりきっていた。
「フレイヤ下がって!」
「婆!そっから一歩も動くんじゃねぇ!!」
「ま、まって!」
Oとソルゲイルが老婆に駆け寄ろうとするのを、フレイヤは静止する。
「お、おばあさん。これなら、指輪の代わりにあげることができるわ。」
「おい馬鹿!よせ!!」
ナイフを握ったOを無視し、フレイヤは目の前の目的へと盲進してしまった。
指輪を手放すことができない自分がエミリアとコウスケにできるのはこれだけなのだから、怖くてもやるしかないと、そう、間違えた。
「こ、これで、情報をくれるかしら?」
「あぁ。ああ!もちろんだとも!」
老婆は叫び、身を震わせて悦んだ。
「これは、儂が求めていたもの以上のものだ。
ええ。そうよ。そうよこれよ!
これが、私がほしかったモノよ!!」
「!?!?」
突如口調の変わった老婆に、再びフレイヤは身じろぎする。しかし老婆はそんなこともお構いなしに、老人とは思えない速さでフレイヤの掌から黄金をひったくると、魅入るようにそれを眺めた。
「ねぇ、兄さん。」
「ああ。こいつはちょっとまずいぞ。」
Oとソルゲイルは、部屋の様子を見て冷汗を流した。さっきまでいなかった黄金色に輝く虫が、部屋のあちらこちらから顔をのぞかせ始めたのである。
「これは……黄金虫?兄さん、何かわかる?」
「分からねぇ!だが、どうみたってこりゃなんかの魔法だ!しかも飛び切りやべぇやつだ。見ろ!」
Oは鳥籠の中で暴れるガラス鳥を確認する。
「S。お前は直ぐに逃げろ!この部屋にいたら、お前は真っ先に殺られるぞ!」
「でも、兄さんは!?」
「ああ。俺もすぐに行く!だがその前に──」
Oは老婆を見て歯を食いしばる。
「対価をもらわなきゃ話にならねぇ!!おい、ヒュンドラ!」
「なんだい?」
「いっ!?」
Oの叫び声に、老婆はぐるりと首を回転させる。180度回った首に流石のOも怖気を覚え、彼は大きく後ずさった。
「対価?ああ、そうだった、そうだった。確かに、褒美はやらないといけないねぇ。人の上に立つ者というのは、本当にそういうことをしなければいけないから、面倒くさいわ。」
「な、何をごちゃごちゃ言ってい──」
「教えてあげよう。愚かなOよ。聴くのはためになるわよ。」
背中の曲がっていたはずの老婆は蛇のように背筋を伸ばし、Oへと一気に近づいた。
「兄さん!」
「ッ!S、お前は逃げろ!」
ソルゲイルに言葉を放ったその時、老婆の手がOの顔面を鷲頭噛む。
「『アンドヴァラホルス』が使っているのは、“嘘つきを殺すソウル・ブレイカー”ではないわ。彼らが使っているのは“魂の重みを測り、魂の未来を消す魔法”、それをソウル・ブレイカーとして作らせた”試作品”。」
「こいつ、なんて馬鹿力──」
「お前にくれてやる代価はその魔法、その、オリジナルを見せてやろう。」
耳まで裂けた老婆の口が、真っ赤に開いて名前を告げた。
「しかと見よ。是こそが、未来を定める魔法『セイズ』なり──」
──愚かなOよ。




