070 OとS(下)
暗い路地。生温い湿った道に、夜より深い闇が広がっている。
そこを歩くは三人の少年少女。赤いマフラーを巻いた少年の後ろに、フードを目深にかぶったガラスの少年が歩く。そして彼の隣には、少年と同じく赤いマフラーで口元を覆う少女がいた。
「ねぇ?あの……あなたのお兄さん、どういう人なの?」
数歩先を歩く少年を見ながら、フレイヤはそっとソルゲイルに尋ねる。
「ん?兄さん?兄さんは強くて優しくてとっても頼りになる人だよ?」
「そう……」
フレイヤはソルゲイルから目を反らした。
そんなふうには、見えなかったからだ。Oが自分にしたこと、自分たちに見せるその姿は悪人のそれだ。フレイヤにとっては怒りを覚える相手でしかなかった。
けれどソルゲイルの声は、そんなことを微塵も感じさせない響きがあった。ゆるぎない自信に満ちた言葉だった。
「……ねぇ、あなたが家で言っていた、“本当はあんな感じじゃない”って、どういう──」
「おい。ついたぞ。」
フレイヤの言葉を、Oのぶっきらぼうな声が遮った。見ると煤汚れた赤い垂れ幕のあるテントが、彼の前で口を開けて待ち構えていた。
「ここが……その占い師のいるところ?」
「そうだ。この中に、あのいけすかねえ婆がいる。」
「いかにもって感じだねぇ。」
「……」
フレイヤは生唾を飲み込んだ。
いかにも魔女が住んでいそうな、湿った空間だった。数分立っているだけで体にカビが生えてしまいそうな、不気味で陰湿な空気が漂っている。
「入る前に言っておくが、余計なことはするなよ。打ち合わせ通り、俺が“情報”を得るまで何も言うな。何もするな。俺の指示に従え。絶対だ。得るモノを得た後なら暴れるなり逃げ出すなり勝手にしろ。」
「……分かったわ。」
「よし。そして、S。」
「はいはい。兄さん、僕は何をすれば──」
「お前はこの中に入るな。」
ソルゲイルの動きが、ぴしゃりと止まる。
「ええっ。兄さんそれはないよ!わざわざここまで来たのに!?」
「ここまで来ているのが問題なんだよ!あれだけ散々ついてくるなと言ったのについてきやがって。」
「だって兄さん、また無茶しているでしょ。」
「お前な……」
Oは心底苛立っていたが、それでもソルゲイルの表情を見ると、すぐにため息を漏らした。
「お前は昔っから……何もできないくせに──」
「うん。何にも僕はできない。兄さんみたいにうまくモノは盗めないし、強くもない。」
「だったら──」
「でも無茶をしている兄さんを止めることだけは、できるから。」
「……」
Oは再びため息をもらす。
「まったく、昔は弱弱しいってだけのやつだったのに、最近はこうと決めたらテコでも動かねえ。」
「そう。だから、待てって言ってもついていくから。」
「……勝手にしろ。」
表情の見えないガラスの顔が明るくなるのを見て、Oはさらにため息をこぼした。
「けど絶対に老婆に近づくなよ。」
「どうして?」
あっけらかんと首を傾げる弟に、彼は腰に下げた鳥籠を見せた。
「……俺が家に戻ったのは、このガラス鳥、グラスタムを連れてくるためだ。」
「グラちゃんがどうかしたの?」
「ガラスは魔法をよく映す。つまり、魔法の影響を受けやすいってことはお前も知っているだろ?」
「うん。」
「グラちゃ──グラスタムは、警告灯だ。あの老婆の周りには妙な魔力が漂っている。何が起きるか分からねぇ。だがグラスタムがいれば、もしあいつが俺達に魔法を使ってきても鳴き声ですぐさま反応できる。こいつだって命は惜しいからな。」
「……なるほど。僕の体はガラスだからね。魔法の影響を受けやすい、という訳だね。」
「そういうことだ。分かったなら、気を付けろよ。……当然、お前もな。」
最後に取って付けたようにOはフレイヤに一瞥をくれる。フレイヤは言われなくてもと少し頬を膨らませたが、彼はそれを見て少し満足した様だった。
「ふん……準備はいいみたいだな。こっから先も自己責任で頼むぜ。」
赤いマフラーで口元を覆い、Oは低い声で2人に言う。
「行くぞ。」
◇
テントの中は、香炉の臭いが充満していた。脳髄に直接刺激を与える様な、強烈な臭い。それに加えて数珠や銅像といった、何やら怪しげな呪具が所狭しと部屋を埋め尽くし、空気を部屋にため込んでいる。
「うげ。これは強烈だね……」
「あんまし声を出すなよ。香ってのは、人の精神に影響を及ぼす。この空気を吸い過ぎるのは、毒にしかならん。」
「……それはもう少し早く言ってほしかったわ。」
フレイヤは既に頭が痛くなっていた。強烈な甘い香りが、意識を薄めてくる。思考を鈍らせ、妖艶な眠りへと誘ってくる。けれど同時に、フレイヤはその臭いに言いようのない嫌悪感をも感じ取った。甘い香りの奥に潜む、何とも言えない居心地の悪さを感じ取っていた。
(変だわ……こんな臭い、一度嗅いだら忘れられないくらいきつい。それのに……これは、どこかで嗅いだことの有る気が、する……)
「ここだ……ヒュンドラ。俺だ。Oだ。」
「入りなさい。」
テントの最奥。黒いすだれが垂れ下がった、ひときわ臭いのきつい一角。その中から、聴くだけで瞼を閉じてしまいそうな眠気を催す声が聞こえてきた。
「……行くぞ。」
「……」
すだれの奥にいたのは、文字通りの老婆であった。丸まった背中に、骨と皮だけになった腕。顔に走る無数の皺。空いているのか空いていないのか分からない細い目は不気味に輝き、3人の子どもに不敵な笑みを浮かべて座っている。
「ようやく来たねぇ。愚かなOよ。」
「愚かは余計だ。」
「そうかい?天下の大泥棒を気取っておきながら、ここに来るまでに随分と時間がかかっているじゃぁないか。ひぇひぇひぇ。」
Oは鼻を鳴らし、フードを被った弱弱しくも怪しげな老婆の皮肉をあしらう。
「ふん。結果があればいいのさ、結果がな。俺は俺の仕事はやりきる。お前の望み通り、指輪は持ってきたぞ。まぁ、持ち主付きで、だが。」
「持ち主?」
「ああ。」
Oはそういうなり、フレイヤの腕をつかんで前に引きずりだした。フレイヤは粗暴な扱いにキッとOを睨み付けたが、少年は構うそぶりも見せずに話をつづけた。
「お前はここに指輪を持ってこいとしか言わなかったからな。別に他の誰かが持っている状態でここに持ってきても、問題はないだろ?」
「……ひぇひぇひぇ。つくづく、お前という奴は気に食わない。ああいえばこういう。こういえばああいう。ああ、いつになったらまともに仕事をこなすんだい?愚かなOよ。」
「お前の注文の仕方が適確じゃぁない。ただそれだけだろ?」
「ひぇひぇひぇ。」
不気味に笑う老婆を見て、Oは目を細める。
「で。どうする?受け取るのか受け取らないのか。」
「ひひひひ。ああ。いいとも愚かなOよ。受け取ろう。」
老婆が骸骨のような腕をフレイヤに伸ばした、その時だった。
「まって!」




