068 OとS(上)
「ねえ、どこへ行くの?」
フレイヤは当然の不安を口にした。
Oは目的地を言わなかった。ただついてこいと冷たく言い放っただけで、それ以上彼女に何かを示すことも歩調を合わせるようなこともしなかった。彼との距離は既に気を抜けば見失うほど離れており、さきほどの不安も聞こえているのか疑わしい。
しかも周りには、得体のしれない気配が立ち込めていた。一歩進むごとに街の賑わいは消えていき、代わりに物陰からこちらを見つめる蛇のような視線が増えていく。彼女の不安は恐怖に変わり、無意識のうちに深みへと足を速めていった。
「ここでまて。」
遂に蛇の視線すらなくなった頃、Oは不意に立ち止まって遠く離れたフレイヤに命令する。
しかしフレイヤは首を縦には振らなかった。もはやそこは瓦礫が積み上がっただけの、街とは言えない廃墟だった。彼女の不安はOに対する脅威よりも、その世界に対するものの方が勝っていた。何の人の気配も感じないが、何もないが故に不気味さだけが残っている。その不安に、少女の背中は押されていった。
「……おい。待てと言ったのが聞こえなかったのか?」
「あ、あんな瓦礫の真ん中で待てというの?あんなの、誰かに追いかけられたら一瞬でつかまるわ!」
「追いかけられる?」
「──」
「……ふん。まあいい。テメーの事情は知りたくもないからな。」
Oはぶっきらぼうに言い放つと、鋭い視線を少女に向ける。
「だがな、ここから先は一歩も動くな。動いたら……お前のそのマフラーとブラウスだけじゃなく、白い肌も同じ赤色に染まることになるぞ。」
「……この先に、何があるの?」
震える声で尋ねた少女に、泥棒は意地の悪い笑みを浮かべた。
「ふん。たいした度胸だな。だがそんなやせ我慢では通用しない恐ろしいモノが、この先には待っている。」
「……」
「別についてきたっていい。だがそれでお前が死んでも、俺はなんの責任ももたないし、当然お前を守ってやる気もない。」
「……」
「さぁどうする?一緒に来て勝手に死ぬか、それともここで大人しく待っているか、どっちがいい!!」
「それは──」
フレイヤが口を開いたその瞬間だった。彼女にとって、そしてOにとっても予想外の出来事が起こった。
「何を言っているの、兄さん!!」
奇怪な機械音とともに、強烈なゲンコツがOの脳天を直撃した。威勢の良かったOの表情は目を回した間抜けなものへと変わり、その場にへなへなと崩れ落ちた。
そして代わりに、Oを抱きかかえる人物がそこに立っていた。
「あ。やりすぎた。ちょっと力入れすぎちゃったか。」
「────」
「ん?ああ、ごめんなさい。驚かせてしまったね。」
あっけに取られている少女に、ガラスがこすれる様な声を発する人物は、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして。僕はこの兄さんの弟、ソルゲイルです。よろしく!!」
「……」
少女は開いた口がふさがらなかった。それは、突然Oが殴られたからではない。その殴った目の前にいる人物が、妙に軽快な少年だったからでもない。それは、彼の姿が、普通ではなかったからだ。
「ああ~、ごめんね、この体、びっくりしゃうよね。」
少年は己の体を見下ろして恥ずかしそうに頭を掻いた。
それはダイヤのような輝きを放っていた。
それは七色に光る輪郭を持っていた。
そして彼の体は、その後ろの景色が透けていた。
そう。その少年は、ガラスでできていたのである。
◇
「どうぞ。窮屈な家で申し訳ないけど、自分の家だと思ってくつろいでいって。」
ガラスの少年は机の上に置かれた雑多な小物を手早くどかし、少女に椅子を差し出した。
「あ、ありがとう……」
「あー、何か飲む?と言っても白湯か冷水かのどっちかしか出せないけど。」
「う、ううん。お気になさらず……」
フレイヤは部屋をぐるりと見渡し、不安と驚愕の入り混じった表情を浮かべた。
部屋の造りそのものが異質すぎたのである。
壁は岩。屋根は倒壊した建物の瓦礫そのもの。家と言うより、地盤沈下でできた空洞だった。故に視界は悪く、灰の臭いのする呼吸のしづらい場所だった。天井も壁も煤汚れ、床はゴミと日用品が一緒くたになって散らばっている。何故こんな所に住んでいるのかと顔をしかめそうになる空間だ。
今にも屋根が崩れ落ちてくるのではないかとフレイヤが心配していると、ガラスの少年は思ったのだろう。屋根を手の甲で叩きながら、彼は「安心してくれ」と説明する。
「ここは数十年前炭鉱になるはずのところだったらしいんだ。けど、戦争で見ての通り洞窟の入り口が建物と一緒に倒壊しちゃってね。以来そのままほったらかしになっていたから、僕と兄さんとで家に改造したんだ。だから天井は落ちては来ないよ。」
彼は部屋の奥にある暖炉──というよりゴミ箱を燃やしているだけのような代物だが──の上に置かれた煤けたポットを手に取ると、フレイヤの前に置かれたコップにお湯を注いだ。
「今日もまた冷えているからね。白湯にしました!」
「あ、ありがとう……」
「あ。ちゃんとした真水だから!麻薬なんて入ってないから安心してね。」
「そ、そうなのね。」
白い湯気を通して見た少年は、「遠慮しないで」と彼女がお湯を口にするのを待っている。悪意は感じないが、少女はどうにもその空き缶を削ったようなコップを手に取るのは気が引けた。
「え、ええと……」
迷った末、彼女はそっとコップを握る。
凍えた指先に伝わる熱はやや痛い。
けれど確かな温もりが、そこにはあった。
怪しげな様子は見られないと判断した彼女は、口に白湯を運んでみせた。
「どう?」
「……ええ。おいしいわ。ちょっと鉄の味がするけど……」
「あらら、それはごめん。やっぱり、カップは陶器の物を置いておかなければいけなかったね。カップは……ええと、この体になってから陶器を触るのはちょっと難しくてさ、全部売ってしまったんだ。」
申し訳なさそうに、そしてちょっと悲しそうに頭を掻く少年の表情は、よくわからなかった。ガラスでできたその体は後ろが透けて見えていて、その顔が見えないのである。光の屈折で輪郭は見えてはいるが、まるで透明人間を相手にしているようである。
「やっぱり、僕の体が気になる?」
「あ、いや、ごめんなさい!!」
「ははは。大丈夫だよ。この体になってからそういうのは慣れっこだからね!」
少年は自分の顔を見つめるフレイヤにはにかんだ。
「さて、それじゃあもう一度自己紹介をしようかな。
僕の名前はソルゲイル。スラムじゃSって呼ばれている。そこで寝ているOの弟だよ。よろしくね!」
「え、ええと……わたしは、フレイヤ。フレイヤよ。」
フレイヤは流されるように自己紹介を交わした。その表情は硬く、未だ状況がつかめていないがゆえの不安がにじみ出ていた。
一方のソルゲイルはその透明な瞳で彼女の心情を察し、全てを理解した。彼は一人何度か頷き、それからフレイヤに分かるように順序だてて説明した。
「いろいろ気になることが多いと思うけれど、まずはここについて説明するね。
今君がいるのは【掃溜めの街】のはずれにあるスラム街のさらに端。ここは、僕と兄さんしか住んでいない隠れ家だ。『アンドヴァラホルス』にだって見つかっていないから、組織の人や他の誰かに襲われる心配はしなくていいよ。
まぁ、君は兄さんに連れてこられたわけだから安心できないかもしれないけれど……」
「わたしのことを、知っているの?」
「……うん。知ってる。」
申し訳なさそうに、ソルゲイルは言う。
「兄さんが君の持っている指輪を手に入れると、僕に話をしていたからね。君がつい最近この街にやってきたことや、他に強い大人の人が二人いることも知ってる。」
「どうして、わたしの指輪を盗ろうとしたの?」
「それは……本当に申し訳ないと思っている。」
「どうして、あなたが謝るの?」
「兄さんが君の指輪を手に入れようとしたのは、僕に原因があるからなんだ。」
「?」
眉を顰めるフレイヤに、ソルゲイルはしおれた声で説明する。
「この体だよ。この体を元の肉体に戻すために、兄さんと僕はテッラ王国にいこうとしているんだ。けれど、それにはお金がいる。」
「だから、わたしの指輪を?」
「ううん。それは、お金を手に入れるための前準備に過ぎないんだ。」
「?」
「『門』を越えるお金は、ただの盗人稼業では手に入れられない。君の指輪を盗んで質に入れても、全く足りない。だから、兄さんは『先祖合戦』に出ることにしたんだ。
知っている?『先祖合戦』。」
「ええ……」
部屋の奥で気絶させた兄を眺めながら、ソルゲイルは言う。
「あの賭場はイカサマが横行している。だからそれをかいくぐる術を、兄さんは必要とした。そしたら、ある占い師の老婆がその術を知っているって分かってね。」
「占い師の老婆?」
「そう。その人に助けを求めたら、方法を教える代わりに君の指輪を要求してきたんだ。」
「!?」
フレイヤはさらに怪訝な顔をした。
Oに自分の黄金を求めている人物がいると聞かされたときにも、そのような人物に心当たりはなかったが、その疑問が余計に増した。占い師の老婆なぞ、彼女には全く身に覚えがない。少なくともこの14年間生きてきてそのような人物に出会ったこともなければ占いに関わったこともない。もしや【イヴィング】の街にいた誰かなのかとも思っていたのだが、その線はなくなった。であればその老婆は何故自分を知っているのか……その答えが、さらに霧を濃くして遠ざかっていくのを、フレイヤは不気味に感じ取っていた。
「……その人、一体、どういう方なの?」
「僕も会ったことはないんだ。兄さんが“お前は会うな”としか言わないから……」
「そう……」
嫌な予感がした。
Oの話ではその老婆が欲しているのはフレイヤの黄金であった。故にフレイヤは単純に金品を狙っているのだと思っていた。それならば、コウスケ達に止められている自分の“涙”でもよいのでは、と考えていたのだ。
しかし、もし指輪だけを狙っているのだとしたら話は別だ。それだけは、少女は絶対に手放したくなかった。
「……」
少女は、横になっている盗人を見やる。
Oは交渉が決裂するようなことになれば無理やりにでも指輪を奪うだろう。今までの言動からして彼が強硬手段に出るのは想像に難くなかった。故に、フレイヤはそれを危惧し、なんとかその事態を避けられる方法を模索し始めた。
「ええと……そのおばあさんは、他に何かほしいものとかないのかしら?」
「ううん……ごめん。僕には分からない。何しろ会ったことがないから……」
「そう、なのね。じゃあ、わたしのこの指輪と同じ価値があるものって、どんなものだと思う?」
「……」
フレイヤが少し躊躇いながら指輪をかざして見せると、ソルゲイルは腕を組んだ。
「……驚いたな。」
「な、何か?」
「いや……その、申し訳ないんだけど……僕、てっきりすんごい指輪なのかと思っていたんだ。それこそ宝石のちりばめられた貴族が持っているような指輪を想像した。けど、その、なんというか……見た目は大分普通だ。」
「普通?」
「ああ、ええと……。気を悪くしないでね?多分だけど、その指輪はそこまで大したお金にはならないと思う。あっても金貨2枚かそれくらい。」
「……そう。」
その言葉に、フレイヤは少し落胆する。お金にしたいなどとは決して思っていないが、それでも命のように大事にしてきたものを具体的な数字で言い表されたことに、彼女はショックを覚えた。
「……大事な、もの、なんだね。」
「!」
目を見開く少女に、ソルゲイルは言う。
「見てれば分かるよ。君がそれを見つめる瞳は、欲に溺れた人間のものじゃない。愛する人を思う綺麗なものだ。」
「……」
「だから、本当にごめんなさい。僕の兄が……いや、僕のせいで、その指輪を奪おうとしてしまったこと。謝るよ。」
ガラスの少年の言葉は、嘘偽りのない透き通ったものだった。頭を垂れるその姿はどこまでも誠実で、この薄汚れた部屋の中で神々しいとさえ思えるほどに輝いていた。
「──」
フレイヤは面食らった。まさかそんなことを言われるとは、想像もしていなかった。しかも、Oではない、その弟にである。実際指輪を盗られたことは非常に不愉快であったし、怒りはあった。謝ってほしくない訳ではないが、相手が違う。かといってここで「気にしないで」と言うほどフレイヤは憤りを感じていない訳でもなかったので、彼女はどう言葉を返せば分からなかった。
彼女は一通り狼狽えた後で、ようやく言葉を発した。
「……あなたは、優しいのね。」
「え?」
「わたし、この街にはひどい人たちしかいないのかと思っていたわ。けれど、あなたの言葉は、きれいだったわ。」
「………………」
「だから、あなたの謝罪は、わたしは素直に受け取るわ。その……あっちの人にはまだ、言いたいことがたくさんあるけれど……」
「……それは……」
フレイヤの言葉に、ガラスの少年の顔は曇った。
「優しいのは、君のほうで……僕は、優しくはないよ。」




