064 取引(後編)
その沈黙は、エミリアの足音が聞こえなくなったちょうどその時、Oによって断ち切られた。
「……ったく、おっかねえおばさんだぜ。ありゃお前が雇ったボディーガードか何かか?」
「ボディーガード?」
その言葉に少女はベッドから体を起こし、強く反発した。
「違うわ。エミリアさんを、そんな安っぽい言い方で呼ばないで。」
「じゃあなんだ。母親か?」
「それは──」
違うという事実を、少女は口にできなかった。それを口に出そうとしたら、胸がひどく傷んだ。母親ではないけれど、それを口にするのは嫌だった。そしてそれを認識した瞬間、抗いがたい誘惑が自分の中で湧き上がってくるのを、フレイヤは感じ取った。
(本当に、わたし、おかしくなってしまったわ。)
そう思った少女は、話題を変えた。
「……いいえ、なんでもないわ。
それよりも、あなた、わたしに何か用事があるの?」
「──ふ。」
少年は口角を上げ、少女に歩み寄った。
「ああ。用がある。さっきも言ったろ?俺は泥棒だって」
「!」
フレイヤは胸元の指輪を握りしめ、ベッドの上で固まった。やはりまだ狙っているのかと、そう警戒した。
しかしOは力づくで奪い取る様な行動には出ず、不敵な笑みをつくってベッドに腰かけた。
「安心しろ。俺も馬鹿じゃねえ。今無理やりその指輪を奪うなんてことはしない。そんなことしたらあのおっかないおばさんに殺されるし、何より真水が手に入らなくなる。」
「……なら、何?」
「簡単な話だ。取引しよう。」
「取引?」
「そうだ。あんたたちは、あの門を越えるんだろう?だから真水を欲し、金が要る。」
「だから?」
「俺も同じだ。」
「あなたも?」
その言葉に、純粋に少女は驚いた。
「スラム街のO」。そのあだ名から察するに、目の前の少年はこの街に根付いている人間だと思っていた。そんな少年の口から国境を越えたいと言う言葉が出るとは信じがたく、理由にも皆目見当がつかなかった。
「どうして?」
「は?どうして?お前ふざけてるのか?」
少年は面倒くさそうにため息をつくと、ぶっきらぼうに言い放った。
「お前たちがどうして国境を越えたがっているのか俺は知らない。だが、そんなことはどうだっていいんだよ。
国境を越えたいってやつらは、この街にごまんといる。そういう奴らは全員訳アリだ。皆何かしらのよくない理由で国境を越えたがる。」
「よくない、理由……」
犯罪者の娘が──!
少女の脳裏に、嫌な言葉がよぎる。
その表情を見て、Oはニタリと笑った。
「ほれ見ろ、心当たりがあるって顔だ。」
「でもそれは──!」
「だけどそんなもんどうだっていいんだよ。」
Oはピシャリと言い切った。
「いいか。ここから国境を越えたいなんていう奴は、どいつもこいつもロクデナシだ。俺みたいな盗みという犯罪に、平気で手を染められる奴ばかりだ。そんな奴らの国境を超える理由を聴くだぁ?そんなもの、犯罪歴を尋ねるようなものだろ。知ってしまったら、口封じに殺されかねない。」
「!」
「だから国境を超える奴の理由は絶対に聴かねぇ。
それが、この街で生き延びるコツだ。
この国にある何かしらの脅威から逃れるために国を出るのに、それを知っている奴を増やすなんて馬鹿なマネはしねぇし、俺も聞きたくない。だから相手を知って理解し合おうなんて脅威の増えるやり方をするよりも、互いの利益のために交わす取引だけの関係の方が、何倍も生存率は高いし成功率も上がる。
つまり、俺が言いたいこと分かるよな?」
「……死にたくなければ、黙って取引の内容を聞け、と?」
「そうだ。」
Oはそういってから周囲を見渡し、他にだれもいないことを確認する。そうしてからまっすぐフレイヤを見据え、その内容を語った。
「お前たちは、『先祖合戦』にでるんだろう?だがあの賭場はカラクリだらけだ。」
「カラクリ……?」
「イカサマしてるってことさ。」
「な──!それじゃぁ、エミリアさんが挑んだって──」
「ああ。勝てやしない。
それに、あのイカサマを見抜いても、それだけじゃ勝てねぇ。何しろ元締めとプレイヤーがつながっているからな。イカサマだと叫んだらその場で殺されるのがオチ。要は、このままいけば、あのおばさんは死ぬぜ。」
「じゃあ、どうすれば──」
少女の不安をうまい具合に煽ったOは、これで有利に話を持っていけると確信した。故にこの泥棒は、次のカードを斬った。
「だが、俺はあのイカサマが何か知っている。それに、元締めをも黙らせる方法を知っている。」
「!」
「もしお前があのおばさんを助けたいと言うのなら、俺はお前にその情報を教えてやってもいい。」
「それはどうすれば──」
「そこで、条件がある。」
その言葉に、フレイヤの顔が強張った。
「──条件?それは……この指輪を、渡せというの?」
「ふん。確かにその指輪をもらっちまえば一番楽なんだが、どうにもそれは俺が持てない代物らしい。」
「どういうこと??」
「知るか。それはこっちが聴きたいくらいだ。
……だが、まあ似たような内容さ。それを持って、ある人物に会ってもらう。それが、条件だ。」
「ある人物と、会う?」
よくわからない内容に、フレイヤは首を傾げた。
「それ、だけ?」
「ああ。だが、その後どうなるかは補償しないぞ。なんせ俺がお前の指輪を狙った理由は、その人物が俺に持ってこいと依頼してきた奴だからな。」
「!!」
フレイヤの顔が途端に曇った。Oの言葉はフレイヤにとって一番大切な物を失う可能性を示唆していた。そんな事態は絶対に避けたかったし、嫌だった。
しかし、彼女はそれと同じくらい何も役に立てない自分が嫌でもあった。
コウスケとエミリアは命を懸けて自分を守っている。だがそんな二人に、フレイヤは何も返せなかった。エミリアはその優しさをいつかできる友達に向けてほしいと言っていたが、自分が恩を返したいのはエミリアであり、コウスケだった。
だから自分が恩を返せるのであれば、それは願ってもないことだった。
その手段をみすみす逃す手はない。
しかし同時に失うのは、記憶も朧な家族の形見。決して手放したくはない唯一の大切な物だった。そう思うと、少女は指輪を握る力が強くなった。
「……その人、どうしてわたしの指輪がほしいのかしら?」
「知らねぇよ。俺が聞いたのは、お前のもつ黄金が必要だってことだけだからな。」
「──わたしの持つ、黄金?」
その言葉に、フレイヤはある考えがひらめいた。
それは間違いなくコウスケとエミリアに──特にコウスケから止められている内容だった。
しかし、それでも自分が今できる最大限の方法としてはこれしかないと、少女は決断した。
泳いでいた少女の瞳がぴたりと止まった様を見て、Oは少し口角を上げた。
「決まったみたいだな。返答を聞こうか。」
「……その前に、1つ確認させてほしいの。」
「なんだ。」
「その元締めを黙らせる方法って、本当に確かな情報なの?
わたしには判断ができないわ。だから、ちゃんと信用できるって証明してほしい。」
その言葉を聞いてOの顔から、一瞬笑みが消えた。
そうしてから再び笑みをこぼし、嘲るように言った。
「へぇ。意外とこの手のコト、分かってんじゃねぇか。少し見直したぞ。」
「……」
「まぁ、それなら安心しろ。絶対の補償をくれてやる。」
「絶対の補償?」
「ああ。俺も『先祖合戦』に出るんだよ。だから、その方法が正しくないと俺も死ぬ。俺がお前たちの前に試合に出て、そこで上手くいくかどうか見ればいい。」
「自分を実験台にするってこと!?」
驚いた少女に、Oは不敵に笑う。
「ああ。だがこれ以上ない補償だろう?
俺は、ある意味でこの取引に命を懸けると言っているんだ。」
「あなた、命を何だと思って──」
「は?」
少年の瞳が、鋭く光った。
「俺は『スラム街のO』。数多の死線をかいくぐり、血反吐を吐きながら生きてきたんだ。その俺が、わざわざ勝率の低いものに命を懸けているとでも思っているのか?」
「……」
「命を何だと思っている、だと?
俺の命は、俺にとってこの世で一番大事なものだ。
他人の命はどうでもいいが、俺は俺の命の重さだけは理解している。
命が無ければ俺はここで生きてはいない。」
フレイヤは何も言い返せなかった。
命は「大切なモノ」であることは間違いないが、それはあまねく全ての命に無条件に受け入れられるというものだと思っていた。
けれど、彼の答えは違っていた。
それが正しいかどうかという点に驚いたのではなく、自分とは違っていたという事実に少女は驚愕した。己の考えは、他の人にとっては異なものだと気づいたことに、彼女は衝撃を受けていたのだ。
「俺は死なねぇ。俺は何が何でも生き残ってやる。
だから勝てない戦いには臨まねぇ。必ず勝てる準備を整えてからじゃないと挑まない。不利な状況は作らねぇ。
今回だってそうだ。勝てると思ったから『先祖合戦』に参加するんだ。勝てない戦には臨まないってのは、そういうもんだろ?」
「……」
なおも目を見開き、口をつぐんでいる少女に、Oはため息をついて尋ねた。
「で、この取引にのるのか乗らないのか。どっちだ?」
少女はしばらくじっと少年の瞳を見つめた。
黄色の瞳は恐ろしいほどに鋭く、その眼力は脳を貫きそうだった。
しかし同時に、その強すぎる瞳には迷いがないことも確かだった。
全く共感のできない考え方を持っている男ではあったが、その瞳の強さは、嘘を言っていないと断言できるものだった。
だから彼女は、首を縦に振った。
「……わかったわ。その取引に、応じるわ。」
「よし。取引成立だな。」
満足げな声を発した少年を見て、フレイヤは少し不安になった。
本当にこれでいいのかと。
しかし自分が考えたうえで選んだ決断だ。それに、これ以外にコウスケとエミリアに恩返しができる方法が、思いつかなかった。
フレイヤは直ぐに覚悟を取り戻し、Oに尋ねた。
「それでその人には、いつ会いに行くの?あまり時間をかけたくないのだけれど……」
「ん?ああ。そうだな……」
Oは少しの間思案にふけったが、すぐに不敵な笑みをこぼした。
「そうだな。俺も時間が惜しい。だから、今行くとしよう。」




