061 黄金を求める者(中)
「どうした、コウスケ?」
「──」
エミリアに声をかけられても、コウスケは細い路地裏を凝視していた。その様子に、エミリアは瞬時に状況を把握した。
「……誰がいたんだ?」
誰かいたという状況は、店主に気付かれれば商談が破綻するものになる。そう判断したエミリアはコウスケにだけ聞こえるよう耳元で囁き、自身も周囲の気配を探った。だが店に入る前と同じように、周囲に人の気配はない。それなのにコウスケの表情が強張っていることに、エミリアは最悪のシナリオを想像した。
「──ヴァルキリーズか?」
エミリアの声に緊張が走る。
しかし、コウスケはその問いに答えなかった。
「……少し、席をはずす。」
「は?」
予想もしていなかった発言に、エミリアは思わず声を上げた。その驚嘆に満ちた声を聞いて、店主が警戒しないはずがなかった。
「おい、なんだ、誰かいるのか。」
「いや、そうじゃない。ただ……」
エミリアが再び振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。
「……何があったって言うんだ……」
エミリアは腰に手をあててため息をつくと、誰もいなくなった店の入り口に向かって呆れるように言った。
「……連れが、用事を思い出しただけだ。」
◇
ついに動いたか──
人影を追う男はそう思った。
(あいつは天才だ。
もし俺を本気で殺そうとしているなら、あの雪山で俺は既に死んでいる。俺を殺さない理由があるのだとすれば、そのうち接触を計ってくるとは思っていた。
そして今わざわざ姿を見せたと言うことは、俺に話があるということ……なのだが──)
コウスケは闇の広がる路地裏を前にして立ち止まる。
(──あいつは天才。その思考は読み取れない。もし俺の推測が間違っていたら、誘いに乗っているこの状況は致命的だ。)
唾を飲み込む音すら響きそうなほどに、その空気は静まり返っていた。人の気配はおろか、ごみを漁る鼠や、地を這う虫の気配すら感じない。あらゆる命を隠しているかのような暗闇が、小路を包み込んでいる。
危険だと、コウスケは直感する。しかし──
(……だが、こっちも、話がある──!)
彼はその闇に足を踏み入れた。
それは勇気などではない。「ここで決着をつける」などという豪胆な考えではなかった。
現状、ヴァルキリーズにとってコウスケはただの抹殺対象である。故に彼らがコウスケに対話の機会を与えることはまず有り得なかった。だから、個人的な理由で接触を求めてきた「天才」が用意したこの場は、彼らと対話する最後のチャンスであったのだ。
ただ、彼は元々そのような対話の機会を欲していたわけではなかった。
彼がそれを欲するようになったのは、つい昨日からのことだった。
(あいつなら、まだ……フレイヤを……見逃がしてくれるかもしれない。)
そんな甘く幽かな願望を胸に、彼はその男にたどり着いた。そこは太陽の見えない袋小路の終着点。そこで真っ白なフードに身を包んだ男に、コウスケは言葉を掛けた。
「……久しぶりだな、フラーテル。」
◇
「ねえ、なんで大工さんが水や食料を売っているの?」
店の主人に聞こえないように、フレイヤが小さく尋ねてきた。エミリアは別に隠すことでもないと言うように、彼女とは対照的にあっけらかんと言ってのける。
「いや。大工の方が偽物だ。前にもいったけれど、この街は『アンドヴァラホルス』が牛耳っていて、街の食料や水を売るにも彼らの許可がいる。で、その許可を得るには毒を仕込まなきゃいけないのさ。つまり普通の飲料水を売っているってことは、彼らの許可を得ていない違法売店ってことになる。そうなると隠れてやらなきゃと吊るされるのさ。」
「人聞きが悪いな。うちはれっきとした大工だ。そっちの商売もやっているってだけだ。」
エミリアの言葉に、店主はぶっきらぼうに言葉を投げる。
「だいたい、ここは無法地帯。法がねぇんだから違法もクソもへったくれもねぇ。」
「それは間違いないねぇ。それに、そもそも毒の水を売っている方が違法だ。」
エミリアは適当に店主の言葉を返すと、用意された切り株のような椅子に腰を下ろす。
「──だけど、ここは『カーニッジ』。善人なんていやしない。どんな悪法であろうと、その法を侵す行為をする人間は、大概ろくでもない。だから最初に聞いておきたい。」
エミリアは目を細め、相手を射抜くように睨み付けた。
「あんたの商売、代価は何だ?」
「……」
店主は女を見下ろし、その灰色の瞳で彼女をぐるりと見まわした。
まるで品定めをするかのようなその動きに、フレイヤは身の毛のよだつような嫌な感じがした。そして同時に男がニヤリと笑って放った言葉に、この街には善人などいないのだと、少女は落胆した。
「──ハハッ!いいねぇ、この商売の基本を分かってて安心したぜ。代価を聞いて即逃げ出すような奴だったら殺すしかなかったからな。
そうとも、法外なことをするんだ。もちろん、対価も法外だ。」
「いいから教えろ。」
「まぁ、安心しろ。代価はただの金貨だ。奴隷や命じゃねぇ。ま、払えなかったらそん時は体で返してもらうがな。」
「具体的な金額は?」
「水1リットル金貨10枚」
「金貨10枚!?」
飛び上がったのはフレイヤだった。
「き、金貨10枚なんて……!そんなの、【イヴィング】じゃ10か月分の食料とお水と同じ金額だわ!?」
「はぁん。嬢ちゃん、やっぱり掃き溜めの世界にくるのは初めてか。」
店主は腹立たしそうに鼻を鳴らすと、顎を突き出して少女を見下した。
「甘いな、その考え方は。」
「!!」
「常識なんてものは、ある場所に生きた人間たちが長い年月をかけてつくった、特定の人間にだけ通じる共通認識にすぎん。お前の常識はさぞかし平穏な場所で形成されたんだろう。
だが、ここはそんな子供だましの平穏なんてありゃしない。ここではこれが常識だ。これでも安い方なんだぜ?」
「そんな──」
反論しようとする少女を、エミリアが止める。
「今は彼女の常識がどうのという話じゃないだろ?あんたにとって大事なのは金。あたしらに必要なのは水と食料。店と客の関係だ。それ以上はお互いに干渉しない。それでいいだろ?」
「……ふん。そうだったな。」
男は気に食わなさそうにフレイヤを一瞥してから、エミリアに向かって言った。
「まぁ、金さえ払ってくれるんなら文句はねぇ。だが俺は交渉には応じない。びた一文だって負けやしないぞ。」
「安心しな。そんなことは考えちゃいない。最初からここで買うことは決めている。この先ずっとな。」
「へぇ。気前がいいな。それに贔屓にしてくれるたぁ、ありがたい。」
薄汚れた笑みを浮かべる男に、エミリアはとっておきの愛想笑いを浮かべると神妙な声色で男に尋ねた。
「ただ、あんたとだけ取引する代わりに、一つ聞きたいことがある。」
「……ほう。なんだ。」
「あたしらの手持ちだとあと2回くらいしかあんたと取引することはできない。それだとあんたも金が手に入らなくて困るだろ。」
「ははっ!まぁな。」
「で、だ。手っ取り早く稼ぐ方法、何か知らないかい?」
フレイヤは背筋が凍った。少女はエミリアを知っているため彼女の言動が演技であるとすぐに分かったが、それでもその表情と声は“悪人”そのものだった。掃き溜めの世界に生きる人間たち特有の、不味い臭いが漂ってきそうだった。
店主は美味い客が来たとでも思ったのだろうか。身を乗り出し、両肘をテーブルにつけて歪な笑みを浮かべた。この男がそうするときは、決まって自分にとって“とっておき”の情報をだす時の仕草であり、「自分が主導権を握っている」と思っている時でもあった。
「ああ。一つあるぜ。“先祖合戦”ってやつがな。」




