059 帰り道
「何が、利用するなんてできない、だ。俺は、ただ逃げているだけだ……」
帰り道。
男は薄汚れた街道で、一人己を責め続けた。曇天は今にも地に倒れ込みそうなほどに低く、薄汚れた空気は口の中に不快な苦みをもたらした。
この世界に来て、後悔のないことなど一度もない。罪悪感に駆られなかったことなど一度もない。自らの手首にナイフを突き立てようと、この心臓をえぐりだそうと思ったことなど一度や二度ではない。この苦しみから逃れてしまいたいと、そう男は何度も思った。
でも、彼はできなかった。
理由は2つ。
1つは自決してしまったら、これまで自分が犯し続けた過ちが本当に意味のないものになってしまうと、そう思ったからだ。たとえ他人からどんなに傲慢だと言われようとも、人の命を奪った者として、命を投げ出すことは許されないと、そう感じたからだった。
そしてもう一つはその目的、娘に会いたいという思いだった。ただ一人向こうの世界に取り残された娘に会いに行く。それだけを心の支えにして、なおかつそれだけのために、彼は数多の過ちに手を染めた。
そう。だからこそ、フレイヤという少女の存在は、男の心を抉り続けた。
自分の娘に会うために少女の父親を殺したという事実は、自分の娘と同い年のその少女に、地獄のような生活を送らせた。その己の想いのためにやったことを、彼女は男に突き付けてきた。それまでも人殺しの罪を重ねてきたが、彼女を前にするとそれがより一層鮮明になった。彼女を見ていると、男は自分のしたことに耐えられなくなっていった。
なぜなら――
「――は。俺は、恐れているだけだ……フレイヤに、俺がニョルズを殺した人間だとバレることを。そうなったときに彼女に何を言われるのかを、俺は恐れている。
全く、人間失格だな……」
男は己の心の弱さを力なく罵倒する。視界は揺らぎ、足取りは重い。己が何故この道を歩いているかも分からなくなるくらい頭を空っぽにしようと、心の中の自分が甘い言葉をかけてくる。
その甘言に従ってしまえばどれだけ楽だろうかとそう思ったとき、それを許さないモノが、視界に映った。
「――」
窓から部屋の明かりが見えている。
誰かがきっと戻ってきたのだろう。
「誰かって、決まっているだろ……」
男が嗤った時だった。その窓が開け放たれ、美しい金の髪をした少女が顔をのぞかせたのは。
「あっ!やっぱり!帰ってきたわ!」
自分がそろそろ帰ってくるとエミリアと話でもしていたのだろうかと、男はぼんやりと考える。そういえば、予定よりも随分と長くヴェルンドの工房に居座っていた。もうすぐで夕方になってしまう。そんなことを思いながら、コウスケは眩しそうに目を細めてフレイヤに片手を上げた。
軽い挨拶を受け取ったフレイヤは、その仕草に屈託のない笑みを浮かべて当然の言葉を返した。
「おかえりなさい!」
「……ああ。ただいま、ア――」
コウスケの足が突如止まったことに、フレイヤは少し驚いたようだった。彼女は何かあるのかとあたりを見回したが、彼の足がとまる理由らしきものは見当たらなかった。
「どうかしたの?」
「……いや、なんでもない。」
コウスケは視線を落とし、再び足を進めた。
(ああ。そう、だよ。
俺は、彼女を見ていると己の罪の重さに耐えきれなくなる。
彼女はあの子じゃない、そう分かっているのに。
彼女はフレイヤ。俺が殺してしまった、ニョルズの愛娘。
なのに……)
部屋の中へと戻る少女の姿が、フードの端からちらりと見えた。やわらかくたなびく金色の髪。どこかでよくみたことのあるその景色を、コウスケはそのフードの端を引っ張って視界から消し去った。
(アカリ――そう、言いそうになる……)
男は明りから目を逸らし、今にも落ちそうな暗雲を見上げた。
そして肺一杯にその淀んだ空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
「帰らないと、な……」
明かりの灯る宿への数歩は、ひどく足が重かった。




