054 指輪(後編)
この街は空気が淀んでいる。
それは屋根の上であろうと変わらない。他人を蹴落とし蔑み嗤う──そういう悪意が溜まった空気は重く、風が吹いても吹き抜けることなくとどまり続け、独特の悪臭を放っている。
「水は流れなければ腐る。人の世界も同じだ。」
エミリアは嘗てある男が言った言葉を思い出す。それをこうも体現した街は他にはない、と。
長きにわたってこの街は悪人がとどまり続けている。街を牛耳る者も、街に暮らす者も悪人だらけだ。中には仕方なく来るものもいるが、この悪人の溜池には出口がなく、流れついた雨水はここで腐っていく。金のために誰かから金を、そして命を奪うことが当たり前になった街で生きていると、自然とそれが普通だと思う人間に染まっていく。そしてそういった人の心が腐った臭いで、街の空気は淀んでいくのだ。
だからその”魔力”を見た時、エミリアは思わず足を止めた。
彼女が叫び声を聞く直前、その淀んだ空気を貫く魔力が沸き上がった。
海のように深く重い純然たる魔力。空気が一変するほどの覇気を纏ったそれは、見る者全ての心に畏怖を抱かせる。明らかに街の淀んだものとは違う、別の意志を持った魔力だった。そんな魔力が空間のある一点で発生し、天へ昇ると同時に大地へ一撃を与えていた。
「嘘、だろ。あの魔力は──」
だがその魔力は、絶対に現れるはずのないものだった。
故に「なぜ」という思いが、彼女の脚を止めさせた。
彼女の目と心を奪うほどに、その魔力の存在は大きな意味を持っていた。
「──ニョルズの、魔法……?」
だから、気が付かなかった。
もう一人、Oを追っている人物が自分の足元を通過し、その場へと走っていくのを。
◇
「……」
スラム街で過ごしたOにとって暗闇など格好の遊び場だった。闇は住処であり、狩場であり、友だった。だが今この家に立ち込める闇は、一切油断を許さぬ危険なものだった。
得体のしれない魔力に加え、追手が迫っている。自身も闇に潜んでいるように、相手も闇に紛れて何か仕掛けてくるかもしれない。その恐怖は少年のはやる足を慎重に運ばせた。
(物音ひとつで決着がつく──)
Oは今にも抜け落ちそうな床の上を、一切の物音立てずに歩いていく。
常に周囲の気配に感覚を研ぎ澄ませ、得るべき品物を探している。
そしてそれは、目的のモノを見つけても変わらなかった。いや、むしろさらに慎重になったと言うべきだろう。
数歩先にある穴だらけの床の上に、妖艶に輝く指輪があった。
手の中で見つめていたくなるような、美しい指輪。
手にすれば破滅が待っているような、妖しい指輪。
Oは不気味さを覚えた。
間違いなく先ほどの覇気を纏った魔力は、この指輪が発生源だった。そしてそれは、今もその指輪に宿っている。
(なんなんだ、この指輪は!なぜあの老婆はこんなヤバいものを求める!!)
Oは指輪を暗がりから睨み付ける。
(大体、最初はただ金貨21枚を用意しろって話だったんだぞ!
最後の1枚をこの指輪にするとあいつに言ったら、あのクソ婆ぁ、20枚の金貨はいらぬから絶対に指輪を持ってこいといいだしやがった!そしたらなんだ、これは!こんな目にあうなんて聞いてねぇぞ!?絶対に対価として見合ってねぇ!!)
後2歩のところまで来て、Oは足を止めた。その指輪を手に取ろうとする腕に、真逆の力が働いている。これは手にとってはならないと、そう直感が、体が告げていた。
だが──
(……ふん。どうする、なんて迷っている暇はない。俺には黄金がいるし、時間がねぇ。)
Oは肺一杯に空気を取り込み、意志を固めた。そして燕の如き速さで指輪に手を伸ばし、それを鷲掴んだ。そして──
吹き飛ばされた。
電気ショックに似た強烈な魔力の波。それが指輪から一気に放出され、Oはなすすべなく部屋の奥まで吹き飛ばされた。
そしてほぼそれと同時に、Oが予想もしなかった人物が現れた。
「あ、みつけた!!」
金色の髪、白い肌。一切の穢れも悪意もない、美しい少女。
そう。彼を追ってきていたのは、戦士ではなかったのだ。
彼女は床に落ちた指輪を拾い上げると、慌ててチェーンの留め金を開いて首に掛ける。そうしてから、部屋の奥で伸びている少年に気が付いた。
「あなたは──!……そこで、何をしているの?」
「それは……こっちの、台詞だ……なんで、お前みたいな、お嬢様がここにいる……」
Oはしびれる体に鞭を打ち、立ち上がる。
「ああ、いってぇ。まだしびれる。とんでもねぇ代物だな、その指輪。」
彼は口元の血をふき取ると、警戒する少女を見て笑みをこぼした。
「……はは、まじかよ。冗談じゃねえ。」
「な、なに?」
フレイヤは指輪を握り、一歩後ずさる。だがOはその分、間を詰める。
「お前、なんでその指輪を平然と首に下げられる。」
「え?」
「今もその指輪は得体のしれない魔力を放っている。俺はその魔力に押しつぶされそうになった。なのに、何故お前はそれを、ただの指輪を持つみたいに持っていられる?」
「何の、話しを──」
「正しい持ち主以外が持つと呪いがかかるって、おとぎ話によくあるアレか?ああ、そうなると超面倒くさいが……その指輪を持っていこうとすると、おまけでお前まで連れて行かなきゃいけねぇみたいだな。」
「──!?」
訳が分からないフレイヤだったが、その言葉の意味するところは即座に察した。このOという少年は、自分を攫うつもりだと。
「なんでここに1人で来ているのかは知らないが、お前じゃなきゃ持てない代物ならば都合よく利用させてもらおう。」
「!!」
少年の動きはしびれて鈍っているとはいっても、戦闘力のないフレイヤにとってみれば神速に近いものだった。瞬く間に間合いを詰められ、少年の顔が目の前に現れる。
「一緒に来てもらうぞ、いいとこのお嬢ちゃんよ!」




