053 指輪(前編)
── 闇市の一角 にて──
迷ってしまった。
最初は何が起きたのか分からず、その力の前に恐怖して硬直していただけだった。エミリアが一瞬でねじ伏せられ、ただ立ち尽くすしかなかった。ただ、立っていただけだった。
けれどその後に起きた出来事に、少女は心奪われた。傷つけられたエミリアのことが、眼中になくなった。この世で最も大事にしてきた物を奪われたことへの恐怖と焦りが、一瞬ではあるが少女の心に醜い感情を抱かせてしまった。
きっとそれは他の人からしてみれば普通の感情で、普通の反応なのだろう。けれどその時の少女は、自身の抱いた想いを「醜い」と、そう結論づけた。
彼女は迷ったのだ。
家族の形見を追うか、エミリアを助けるかを。
「──っ!エミリアさん!」
Oが消えて瞬き程の間の後、フレイヤは倒れているエミリアに駆け寄った。
「大丈夫!?」
「いてて。全く、乱暴な小僧っ子だこと。」
「ケガは、ないの?」
「ちょっとくらくらするけど、大丈夫さ。それより、フレイヤ、指輪が……」
エミリアの言葉に、フレイヤの体が固まった。そして今にも泣きそうな顔に、エミリアの胸は締め付けられる。
「──まってろ。すぐ取り返す。」
彼女はフレイヤの返事を待たずして、瞬時に屋根に飛び上がった。
その姿は、フレイヤには妙に大きく見えた。
薄汚れた空の下であっても、その姿は不思議と輝いて見えた。それは得物を探す鷹ではなく、得物を仕留める獣でもない。信念とは違う強い想いを抱く人間だった。たった一人の子どものために、持てる全力を行使しようとする人間の姿だった。
その眼差しに、その姿に、フレイヤの不安は一瞬で忘れ去られた。
「あそこか。」
そういって彼女が姿を消すまでの間は本当に2、3秒だった。
けれどその一呼吸の時間は、フレイヤにはとてもゆっくりと流れていた。エミリアの瞳は怒りにも似ているのに、少女には強く暖かく、そしてどこか懐かしく思えた。
だからだろうか。
彼女はエミリアが消え去った時、思わず声を上げた。
「あ、待って!おかあ────」
◇
屋根を伝っていく少年の顔にあったのは笑顔であった。ただその笑顔は悦に浸ったものではなく、仕事をやり切ったという安堵からくるものだった。その先に目指すものにようやく手が届いたと言う、次へのステップを踏む高揚だった。
「ああ、やってやったぞ!これでやっと──」
『ねぇ、O──』
自身の言葉に続くように、脳裏に言葉がこだました。
その途端少年の顔から笑みは消え、屋根を蹴ったつま先が、いつまでも建物にくっついているような感覚を覚えた。
「チッ。」
空を駆ける足に、力が入った。
乾いた屋根は割れ、無惨に路地裏の闇へと落ちていく。
少年はそれを見ることもなく、次の一歩を歩み出す。
「何を今更……この世界は強者が弱者から奪う世界だ。弱い者は奪われても文句が言えねぇ世界だ。
だから、強者である俺が弱者から盗って、何が悪い。
俺は強者。奪う側の人間になったんだ!盗られるあいつらが悪いんだ。俺は、俺は──当然の摂理に、従っているだけだもんな!何もおかしくなんてねぇのさ!」
少年は、薄汚れた空に向かって唾を吐く。
「ははっ!そいや、俺の技、綺麗に決まってたな!あのフードの男はヤバいヤツだとは思ったが、あの女はそうでもなかった。つまりは弱者ってわけだ!
いや、そもそもこの俺に敵う訳がない。
そうだろ、O?
俺は“スラム街のO”。この街で一番の泥棒なんだ。なにを、恐れる必要があるのか!!」
悪戯な高揚と愉悦を、少年は強引に心に満たしていく。
もっと浮遊感を味わえるように。
もっと高く飛ぶために。
重い足で、強く屋根を踏みつける。
「そうだよ、俺は──ん?」
少年がフレイヤの前から姿を消してから数分がたった頃だった。少年は妙な違和感を覚えた。乾いた笑顔は曇り、己の手にするものに視線を落とす。
──重い。
手に握る金の指輪が、いや握っている腕全体が、妙に重くなった。腕を持ち上げる力が、倍必要になった。
何か他に腕についてるわけではない。握っているのは指輪だけ。
だがそれは錯覚とは明確に違う、確かな重み。服が水分を含んで体にまとわりついてくる、そういう不快な重みだった。
「なんだ──」
手に握ったソレを凝視しようと腕を持ち上げた、その瞬間。
”待て。”
覇気。
少年を押しつぶさんとするほどの威圧感。
心の臓すら動きを止める、”怒り”が現れた。
「──ッ!!」
少年は瞬時に武器をとり、その”気配”を見上げた。
だがそこには何もない。
ただ形のない気配だけが、じっと自分を見下ろしている。
そして少年が気配の出どころに気が付くよりも早く、その気配は次の一手を繰り出した。
「!?」
指輪は、少年を屋根から引きずり下ろした。
少年は急激な重量の変化にバランスを失い、屋根の上を小石のように転がり、そして路地へと落ちた。
「くそっ!なにが起こって……グワァ!?」
Oは立ち上がろうとして、思わず声を上げた。
体に覇気がのしかかった。
人や岩がある訳でないが、明らかに何かが自分の体の上に乗っている。
それはまるで海に沈んでいるかのように徐々に重みを増していき、Oの自由を蝕んでいく。
「ガ──なんの、魔法だ、これは!?こんな話は、聞いていな──!!」
寒気。全身を矢の如き速さでさらなる悪寒が襲った。泥棒ならではの、追手の気配を感じ取ったのだ。
Oは我に返り、己の過ちを認識した。
仕事を終えた直後に叫び声を上げるなど、捕まえにこいと言っているようなものだ。先ほどの叫び声をエミリアが聞き逃すはずがなく、彼女に自分の居場所を突き止められたと、そう彼は察したのである。
少年は見えない海の気配を睨み付けた。
「くっ……そ……ここで諦めて、たまる、か……!こいつが──どうしてもいるんだよ!!」
指輪を手放せばこの重みから解放される──そう直感したが、彼はそれをしなかった。それどころかさらに強固に指輪を握り、少年はびくともしない身体を持ち上げようと、歯を食いしばった。だが体は一向に地面から離れず、まるで腕そのものが大地と化しているようだった。
「うおおおおおおおお!!」
腕が軋む。
少年の眼は血走り、体が悲鳴を上げ始める。
だが、少年は一切力を緩めることはしなかった。腕の血管が弾け、筋肉が引きちぎれるほどの痛みを味わいながらも、彼はその腕を持ち上げる。そして、ついにその腕がわずかに地面から離れようとした瞬間だった。
気配が、消えた。
その瞬間、少年を束縛する重みも消え去った。故に少年は勢い余ってひっくり返り、指輪は穴だらけのあばら家へと消えていった。
「ああ、くそ!急に重くなったり軽くなったり、なんなんだよ!」
Oは悪態をついたが、さらに文句を述べる余裕はなかった。追手の気配が迫っていたからだ。
彼は不意打ちであれば勝つ自信があったが、戦士と正面切って戦うことは避けたかった。彼は強者ではあるものの、戦士ではない。泥棒である。故に戦士と戦うのであれば用意周到な準備が必要だった。だが、今の彼にその準備はない。
Oはエミリアが来るであろう屋根の上と、指輪の消えていったあばら家を交互に見る。先ほどの覇気を考えれば、指輪を持つこと事態が得体のしれない危険をはらんでいる。それに戦士との戦闘を避けるためにも、間違いなく指輪を捨てて逃げることが最善だった。
だが彼は、その最善手を振り払った。
「くそっ!『レギンの指輪』みたいな呪いの指輪だったのか!?あの婆ァ、次から次へと難題を!普通ならこんなことには……えええい、それでも背に腹は代えられねぇ!!アレがなきゃだめだ!俺はO。スラム街のOだ!何も恐れるんじゃねえ!」
Oは重い足を踏み出し、今にも崩れそうな家へと飛び込んだ。




