052 二人の父(後編)
「…………………………」
話を聞き終わったコウスケは目を見開き、己の耳を疑い、しばらく硬直して何も言えなかった。額には冷や汗が噴き出、それが頬を伝ってぽたりと落ちるその瞬間まで、ヴェルンドが口にした内容をコウスケは信じることができなかった
「それは……あり得る、のか?」
「確証は、ない。」
ヴェルンドは重々しく口を開く。
「……儂の推測は、今言った通りだ。だが今儂が話したことが真実なら、彼女が魔法を使えないのも、あの異常な魔素量を自分で認知できないのも、説明がつく。
何のためにフレイヤにそのような魔法がかけられているのかは分からんが、この憶測が正しい場合、あの異常な魔力といい、フレイヤという少女は──」
老人の言葉を、コウスケは遮った。
「大丈夫だ。有益な、情報だった……」
「お主、大丈夫か?顔色が悪いが……」
「はは……今の話を聞いて、顔色がいいやつなんているのか?」
コウスケの言葉に、ヴェルンドも自嘲するように笑う。
「ふ──確かに、な。老人のとんだ法螺話であれば、良いのだがな……」
「……ああ、全くだ。」
しばらくの間、2人は言葉を交わさなかった。
街に響く罵声も遥か遠く、暖炉の炭が弾ける音すら彼らの耳には入ってこなかった。
「……」
ただ、2人の視線は誘われるようにある方向へと向けられた。
それは全ての闇の中心であるかのような、重く深い漆黒の光を放っていた。誰かに開けて欲しいと訴えるように、見れば見るほどにその金庫の扉は存在感を増していく。そして、それに耐えきれなくなったように、ヴェルンドは上擦った声でコウスケに言った。
「……これから、どうするつもりだ?」
「……俺がやることは、変わらない。」
コウスケは深い息を吐き出し、黒い扉から視線を外す。
「たとえそこにどんな真実があったとしても、俺は、彼女を守らなければならない。それは変わらない。」
「……」
「そして俺は……この旅の終わりに……世界に、帰るんだ……」
「……」
ヴェルンドは彼の言葉の残響が消え去るまで、じっとコウスケを見つめていた。
そしてようやく自身の調子を取り戻した時、老人はコウスケに尋ねた。
「お主、やはり元の世界にいる家族は……子ども、なのか。」
「………………」
コウスケはその言葉に硬直し、心臓が数度打つのを確認してからゆっくりと老人を見た。
「…………ああ。娘が、一人。……フレイヤと、同い年の娘が……」
「────」
ヴェルンドは息をのみ、そしてすべてを悟った。
ヴェルンドは、コウスケが元の世界に帰ろうとしていることを知っていた。しかし、その理由を明確には知らなかった。故に、何故目の前の男がこの10年間苦悩し続けてきたのかを、ようやく理解したのである。
「そうか……それは……お主らしい、な……」
「…………」
「向こうで、面倒を見てくれている者はいないのか。」
「いない。俺はもともと孤児だ。妻には両親と弟がいたそうだが、俺と出会う随分前に事故で皆亡くしたそうだ。だから、娘の面倒を見てくれる者は、いない。」
「……」
コウスケは瞳を閉じ、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「ああ。だから、だからこそ、俺は、帰るんだ。たとえどんなに時が、経とうとも。」
その背中には、何がのしかかっているのだろう。
何を、この男は感じているのだろう。
老人は、ふとそう思った。
10年という月日は、人の心を蝕むには十分すぎる時間である。『カーニッジ』という世界は、人の心を破壊するには余りある環境だ。
だがこの男は、完全に壊れるその寸前で踏みとどまっている。身体が悲鳴を上げようとも、背中にのしかかかった罪と後悔に押しつぶされることなく、それをただひたすら背負い続けている。
それは、もう老人にはないものだった。もうとっくに、老人には感じることができなくなったものだった。その重みを感じることは、気が付いた時にはなくなってしまっていた。
殺人など、仕方がないのだ。
生きるためには、必要な手段なのだ。たとえその相手が誰であろうとも……
だが、そうはこの男は思っていない。常に己の行為を、背負っている。
なんと、生き辛い人生か。
(そんな仕方のないことを──そこまで思い込むとは……)
老人は目の前の男の背中に哀愁を感じるとともに、ささやかな嫉妬と怒りを覚えた。自分はその罪をとっくの昔に捨ててしまったのに、目の前の男は持ち続けている。生き辛い人生を選んでも曲げることのなかった信念に、老人は自身の心を顧みて後ろめたさを感じたのだ。
「……10年、か……。」
異様なほど湿気を含んだ言葉が、ヴェルンドの口から放たれる。
「……わしの息子は馬鹿者でな。剣の腕など猿レベル、魔術の知識など毛が生えた程度でしかない。そのくせ儂の言うことも聞かずに、鍛冶職人になる道を放棄した。そして騎士になるなどといって、18の時にアクア連邦に家出していったのだ。」
老人は笑い、グラスに麦酒を注ぐ。
「それが、今じゃ『反乱の王子』などと呼ばれる強者の腹心にまで育ちよった。」
「……」
「……のお、隻眼の。子というものは、親が思っているほどに弱くはない。お主の娘も、きっと──」
ヴェルンドはそこまで言って、グラスを口に運ぶのを止めた。酒に映った薄汚れた老躯の顔は、なんの信念をも持たないただの飲んだくれだった。
彼はその顔に、嫌気がさした。
「……いや。テキトウなことを言った。すまぬ。」
「……そんなことはないさ。お前の息子は事実立派に育ったんだ。その言葉は嘘じゃない。
それに実際強く育った子は、他にもいるんだ。……そう、フレイヤも……」
「……」
ヴェルンドは酒を机の隅に追いやり、コウスケに向き合った。
「……『隻眼の魂喰者』。
数十人の敵に相対峙しようともそのすべてを瞬殺する、ただひたすらに殺人に特化したヴァルキリーズ。たった一人で戦争を終結させた『フェンサリルの悪魔』と呼ばれる死神。ニョルズの後継者たりうる強さをもつ一人であり、そして……ニョルズを──」
ヴェルンドは大きく息を吸いこむ。
「コウスケよ。お主は強い。
この血にまみれた世界で、10年に渡って生き延びた。しかも、ヴァルキリーズとして、だ。それは並大抵の努力ではできない偉業だ。人の数百倍の努力と、数千倍の強固な意志がなければ成し得ない人生なのだ。
そして、ニョルズはそれに気が付いていた。そうでなければ、あのニョルズが友を差し置いて自身の処刑人をお主に頼むことなどない。」
「……」
「そんな強者の娘が、軟弱な精神で生きていると思うか?
否。儂はそうは思わぬ。
たとえ何があろうとも、向こうの世界で凛々しく生きているであろう。
……儂は、そう思う。」
「……」
老人の強い瞳を、コウスケはしばらく見つめた。ヴェルンドの眼差しに嘘偽りなどなく、その言葉は本心からきたものだった。それはコウスケの不安を取り除くことはできないにしても、少しばかり心を軽くさせるには十分な励ましであった。
だが、自分の娘を思えば思うほど、もう一つ別の不安が沸き上がってくるのが、このコウスケという男であった。
「……なぁ、じいさん。1つ聞いていいか。」
コウスケはヴェルンドから視線を落とし、机の木目をなぞり始めた。
「なんだ。」
「……俺は、この先どうすればいいと思う?」
「?」
「彼女を──フレイヤをこのまま連れて行って、その後どうするべきなのだろうか。」
「……」
「俺が帰ったら、あの子はこの世界に1人残される。だが……この世界は、子供が一人で生きていけるような、そんな世界ではない。」
ヴェルンドは背もたれに体を預け、苦々しい表情を浮かべた。
「そうだな……。この世界では、人助けを生業とする職業はもう無い。冒険者組合は暴力団と化し、ただの商業にも血で血を洗う醜い裏の世界がある。医者ですら、戦争で傷ついた兵士を戦えるようにするという役割を持ったものにすぎん。戦争の──歯車の1つになっている。」
「……そう、だよな。この世界で人助けをしようとする奴は、いない。だから──」
「守り続けねばならない、か……」
どこまでいっても、この男の在り方は変わらない。茨を背負っているようにしか見えないその姿に、ヴェルンドは憐れむような視線を向けた。そのような苦しい道を選ぶその様に、痛々しさを感じずにはいられない。
そして同時に、頑固なまでに変わらないその心に、とっくの昔に諦めてしまった者として、敗北を覚えるのだった。
「隻眼の。以前は詳しく聞かなかったが、元の世界では、何を生業としていたのだ?」
「……なぜ、それを今尋ねる?」
ヴェルンドの言葉に、コウスケの瞳はしぼんだ。彼は心臓を突き刺されたかのような苦痛を顔に浮かべ、その答えをあまり聞きたくなさそうに待っていた。
「お主の在り方は……ここに来た時から、という訳ではないように思えてな。それで、ヴァルキリーズになる前は何をしていたのか、と思ったのだ。」
「……」
コウスケは壁に備え付けられた暖炉へと視線を移す。
煌々と赤く輝く炎は頬を熱く照らし、それがコウスケに嘗ての己を想起させた。
──○○町27番地住宅街で火災発生、○○町27番地住宅街で火災発生。隊員は──
──心肺蘇生を開始する!1、2、3、4、5、6、7、8、9……
「俺は──」
『ねぇ、お母さん。お父さんって、何のお仕事をしているの?』
『ふふ。そうねぇ、お父さんはねぇ、人を──』
身体が、重くなった。
コウスケはその原因にゆっくりと視線を移した。
腰に下げた武器が、椅子から地面へと体を引きずり降ろそうとしている。それは音もなく、ただ得体のしれない重力をもって、コウスケの全身を拘束する。
「……いや。」
コウスケは瞳を閉じると、その拘束に従うとともに、鼻で笑った。
「俺はただの──人殺しだ。」




