044 9つの世界(下)
「それは……」
「エミリアさん?」
エミリアの視線が、左腕にはめた金の腕輪に落ちる。その瞳は悲しみに揺らぎ、今にも涙が落ちてきそうだった。
「お主は、騎士団に入ってまで守ったその子どもたちを、最後には戦争で失ったのだ。」
「……………」
「え──」
フレイヤは言葉が出なかった。子どもを愛し、守っているエミリアにとって、それが何を意味するのかなど聴くまでもなかった。その悲痛に満ちた顔が、全てを物語っている。その彼女に、何と声をかければよいかなど、フレイヤには分からなかった。
だがそんな彼女に、老人は言った。
「ああ。儂は卑怯だとも。だが、それでも、儂はこの計画を防がなければならない。
何としても、だ。
お主は戦争で子どもたちを失った。ヤツがやろうとしている無差別殺戮は、その戦争そのものなのだ。だから──」
「やめて!」
甲高い叫び声が、部屋に響いた。
「もう、やめて!エミリアさんが、辛そうだわ!!」
コウスケは隣に座る少女を一瞥し、そして目を閉じた。
少女は、苦しんでいた。
己ではない他人のことであるのに、心を痛め、苦しんでいた。人の苦しみを理解し、ともに悲しみ、涙を浮かべていた。彼女の心はどこまでも純粋で、その優しさは湧き水のように自然とあふれ出る。この戦争にまみれた世界で、それはあまりにも優しすぎる心だった。
──そしてそれを見るたびに、コウスケの心には影が差す。
「……なぜだ、ヴェルンド。」
コウスケは静かに、押し殺すように口を開いた。
「お前はさっき、モルスの行おうとしていることは許せないといったが……お前はそれだけで、エミリアの傷を抉るようなことをする男ではない。」
コウスケは鋭い眼差しをその老人に向けた。
「お前はエミリアを知っているといったが、俺はお前を知っている。
お前は魂を聴く人間だから、その魂が望まないことはやらないし、要求しないやつだ。
だがお前は、彼女の想いを知りながら、彼女に話を持ち掛けた。これを託そうとした。
それにお前は……エミリアのことだけではなく、俺のことも知っているはずだ。」
「……」
「コウスケ、さん?」
フレイヤの疑問に、彼は答えずに話をつづけた。
「そのお前が、俺達の望みに反してまで頼み込む、その理由はなんだ?」
「それは……」
「子ども、か。」
エミリアが、小さくため息を漏らす。
「あんたは、この国に妻と一緒に来たと言った。ならば、あんたには子がいるはず。あんたがあたしの──子どもたちの話を持ち出したと言うことは、つまり……」
「……ああ。そうだ。」
ヴェルンドはわずかの間の後、静かに言葉を漏らした。その姿はそれまでと打って変わって、しおれた老人そのものだった。彼は自嘲し、本心を晒した。
「はは……おぬしらと話を付けるには、昔のような威勢のいいジジイでなければならんと見栄を張ったが……所詮は虚勢。魂には響かない、か……」
「……」
老人は観念したように、ポツリ、とつぶやく。
「……孫が、いるのだ。」
「孫、か……」
「儂も年老いたものだ。3国を渡り、ヴァルキリーズや聖騎士団を前にしても震えることのなかったこの儂が、まさか孫の未来を案じて震えて眠らねばならないとは……。
儂の息子は今アクア連邦にいてな。そこで家族を持ったのだ。儂は……息子のことは心配などしていなかった。儂が鍛え上げた技と武器をもっているのだ。たとえ何があろうと、生き延びると……」
老人は再び笑い、空っぽになったグラスをぼうっと見つめる。
「だが、孫の顔を見てしまったとき、全ては変わった。
これがかわいくてなぁ。目の中に入れても痛くない。光の都【ブレイザブリク】にも負けず劣らずの輝きを放っていた。
……そんな孫を抱いたのは、息子が外交で訪れた一時だけだった。そしてその命の重みを抱えた時、体が恐怖に震えた。
──もし息子が戦場で死んだら、この子はどうなるのか、と……」
老人は皺のある両手を見つめ、小さく震えた。
「孫がいるのはアクア連邦。この国にとっては敵国だ。もはや儂にはどうしようもできない場所にいるのだ。
もし戦場で息子が死んだら、残された家族はどうやって暮らしていくのだ?
そしてもし息子を殺す武器が、この儂が造ったソウル・ブレイカーだったとしたら?
それは儂が愛してやまない孫の未来を、他でもないこの儂が冥暗に閉ざすことになる!
儂は職人としての誇りを持っている。魂の声を聞くことは間違いではない。それがたとえ人を殺めるものになったとしても、間違ってなどいないのだ。
だが……だが!
それでも自分のつくった武器が、あの子の首に刃をむけることになったらと、思わずにはいられなくなった!!
──ああ、あれはまさしく魔法だよ。
あの笑顔の前では、誇りすらたやすく打ち砕かれる!
儂はあの日以来、怨嗟の声を放つ『玉血鋼』に耳を傾けることが出来なくなった!」
「……」
「以前の儂なら、息子が儂のつくった武器で死ぬのなら、それはお前の鍛錬が足りなかったからだと言っただろう。
だが、今の儂にそれはできぬ。
生涯をささげて貫き通したこの職ではあるが、我が孫の未来を潰すことになるのであれば、儂はこの人生を呪うだろう。
そして、ちょうどその時だったのだ──モルスから『ヴァルハラ計画』を聞かされたのは。」
老人は椅子から立ち上がり、その額を勢いよく床に叩きつけた。
「頼む!この『ニダヴェリール』を、この国から持ち出してほしい!
奴は、アクア連邦を最初に標的にするつもりだと言った!!
だから、何としてでもあの計画を阻止しなければならない!!
無茶苦茶な頼みだと言うことは重々承知している。自分勝手な頼みだと、理解している。
おぬしらの苦しみは、儂には到底理解できぬものだろう。儂が口にできるものではないだろう。
だが、なればこそ!その苦しみを持っているおぬしらだからこそ──儂の頼みを──いや、我が孫の命を、救ってはくれまいか!!」
頭を下げる老人に、フレイヤは驚きを隠せなかった。道で出会ったときのヴェルンドは間違いなく強者であった。その人物が、今全ての威厳を捨てて頭を地につけているのだ。その姿は少女にとって初めて見る光景で、何もかもが知らないものだった。
人の親とは、このような行動をとるのだと、そう思い知った。
家族を守るために見せたその行動は、彼女の心を少なからず打つものだったのだ。
そして、それは人の親である二人も、同じであった。
「……この旅は、あたしが始めたことじゃない。」
エミリアは視線をヴェルンドから外し、一人の男を見る。
「コウスケ、あんたが、決めてくれ……」
「…………」
誰しもがその決断を待った。その間はほんの数秒であったが、彼らは何時間も経ったような気がした。それほどに、その場は重く、緊張に張りつめていた。
「……ひとつ、聞きたい。」
「な、なんだ。」
「安全な場所……といったが、どこか宛はあるのか?」
「……滅びの山【ムスペルの火山】内部であれば、誰も手出しはできないはずだ。うまくいけば消滅するやも知れぬが……これほどの魔力だ、確証は、ない。」
「【ムスペルの火山】。アクア連邦の南の果てか。」
「ああ。」
コウスケは瞳を閉じ、小さく言った。
「……そこまでは、行けないだろう。」
「だ、だったら、この国から持ち出すだけでも──」
「だが、そうなるとこれを俺達がずっと持ち続けねばならなくなる。それは危険すぎる。エミリアが言ったように、あらゆる国から狙われることになる。」
「それは……」
「だが──」
コウスケは石を見つめ、その渋みの有る声を部屋に響かせた。それは優しくも厳しく、そして決意と罪悪感のある声だった。
「これを──ここに置いていったら、後悔する。」
「ならば──!」
老人に、彼は言った。
「……ああ。その依頼、引き受けよう。」




