魔女
夜明けを告げる光が、ゆっくりと森の中へと差し込まれる。 それを拒むかのように、朝靄が木々の間を縫うように漂う。誰もがその森へ足を踏み込めば道を失い、獣さえも視覚以外の感覚に頼らざるを得ないような深い白が覆っていた。
獲物との距離をじわじわと縮める大型のネコ科の猛獣を思い起こさせるような、ゆったりとした足並み。それでいて遥か上空からどんな小さな獲物も確実に急所を捉える鷹のような目は、視界がはっきりしない中でも確実に獲物の姿を捉えていた。矢を抜き、弓を構える。ギリギリと弓の弦を引く音が、獲物を命を奪うカウントダウンを開始する。 大木のように体の揺れはない。息を止め、さらにわずかなブレさえも許さない。緊張した弦は指から離れ、弓の持つ張りが矢を獲物へと導く。放たれた矢は吸い込まれるように獲物の心臓を捉え、獲物は射抜かれた瞬間、最後のもがきの後、息絶えた。
「嘘……全然見えなかったのに」
捉えた獲物の元へと駆けていくロビンの後ろ姿を見ながらカレンはつぶやいた。
驚くのは無理もない。常人では数メートル先しか見ることができない視界の中で、十数メートル先にいる獲物を仕留めたのだ。ロビンが獲物を認識し、矢筒から矢を抜き、構え、矢を射るまでわずか数秒。完璧な時計が時を正確に刻むかのようにロビンは矢を射ったのだ。
ロビンの隣を歩いていたカレンは、ロビンと狩りに行き、たわいのない話をしようと思っていた。実のところロビンとの時間が取れればよかった。村での生活はどうか? 仕事はどうか?
ただ二人で会話する時間がもっと欲しかった。彼の顔は普段通りの穏やかな表情、 いつも見る顔だった。村で仕事をしている時の彼はいつも楽しそうに仕事をしていた。嫌な顔を一つもせず、せっせと働く彼を遠巻きにカレンは見ていた。しかし一変、その時とは全く別の表情を見てしまった。
まるで心を見透かされているかのような、目を合わせれば、身じろぎを許されない強い眼力。そして、優しい殺気。
一瞬の表情に恐怖すら覚えた。
ロビンのそばへ着くと、すでに息絶えた鹿は木の枝にロープで吊り下げられていた。
「え……? 一人で吊りあげたんですか?」
「え?」
「え?」
もう一度吊り上げられた鹿を見た。
「こっこれ、雄の鹿みたいですけど、かなり大きいんじゃ……」
「まあ、少し重かったね、狩りは基本的に一人でやってたからこのくらいたいしたことないよ」
「そっ、そうだとしても……」
カレンは改めてその鹿見た。
立派な角と冬を越すための毛並みは美しく、秋に蓄えたであろうその体は丸々としていた。しかし、おとな数人でないと釣り上げられないようなその重量は誰が見ても明らかであった。
釣り上げた鹿の血抜きが終わり、腹を切り裂き内臓を取り出す。消化物や、汚物が漏れ出さないように慎重かつ、素早く切り取られていく。素人が見てもその手際の良さにカレンは空いた口が塞がらない。ロビンはその内臓から肝臓を切り出して、ごく自然にカレンへと差し出す。
「食べるかい? たまに生で食べるんだけど美味しいよ」
取り出した肝臓は今にも脈動しそうなほど美しく、 肝臓特有の綺麗な赤色をしており、つい先ほどまで生きていた鹿の強さを感じられた
「ひいいっ! だだだダメですよ! 火を通さないとお腹を壊します!」
「美味しいのに……一口だけでいいから、ね?」
しつこく迫るロビンに眉を語気を強めて言った。
「いっいけません! お肉は火を通さないと! ま、ましてや内臓を生で食べるなんて!」
「わっ、わかったって!」
「いいえ! わかってないです! いいですか、ロビンさん! ロビンさんは今はもう村の中では大切な働き手であって、私にとっても……はっ!」
「とっても??」
カレンはでかかった言葉を喉元で引き止める。首をかしげるロビンに誤魔化すように言った。
「とっ、とにかく! 誰が看病すると思ってるんですか? この前熱が出たときだって、私が看病してなかったら今ごろロビンさんは死んでましたよ!」
「いや、大げさな!」
「そんなことありません! と・に・か・く! 生でお肉を食べることはいけません!」
「え~」
「え~、じゃありません! 食中毒になったらどうするんですか? それこそ命に関わりますよ!」
カレンの語気は強さを増していく。
「ぜっ善処するよ……」
観念したのかロビンは降参した。
「もう、変な心配させないでください……。本当に心配なんですから……」
「え?」
カレンはまたもや自分の失言をとりなすように言った。
「いっ、いえ、なんでもありません」
「そ、そっか」
カレンは気まずさを覚え、話を切り替える。
「とっところで、この鹿どうします? もちろん村まで運びますよね?」
「うん、そうだね。その前に近くの小川で肉を冷やしてから運ぼうか」
「はい、わかりました。でも……」
取り出した内臓は地面を掘って埋め、吊ってあった鹿を木から下ろした。
「よっと」
内臓を取り出してしまえば重さは軽くはなるが、それでもまだ大人二人掛かりで引きずって持ち運ぶ重さはあろう鹿を軽々と両肩にのせた。
「あ、弓とロープと他のものお願いできる?」
彼は振り向いてカレンに言った。鹿の首が振られ、ツノが危なっかしい。
「……えっ、えっと……はい……」
軽々と鹿を担ぐロビンに呆気にとられて反応が遅れてしまった。ロビンの指示通り急いで道具をしまい、彼の大切な弓を両手に持ちながら、小川へと歩く彼の後を追った。
「ま、待ってください!」
カレンは胸の鼓動がすこしだけ高く感じられた。すこし言い合いをしてしまったからだろうか。獲物を捕らえた時の高揚感か。それとも彼の矢を射る時の力強くも、優しさに満ちた殺気を放つ瞳を見たからだろうか。彼の後を追うごとにまた徐々に胸が高鳴るのを感じていた。
彼がこの村に来て三ヶ月が経とうとしていた。農業の手伝い、新しい家の建設、村の警護のための武具作りなど、どれも手際よく働いてくれている。村のみんなからも評判が高い。特に狩猟は彼を中心に行われるようになっていた。彼が狩猟に加わることで村に供給される肉の量が増え、そして彼の作る燻製に皆舌鼓を打ち鳴らし、商売にしたらどうかと言われるほどだった。確かに彼の燻製は絶品だった。彼を迎えて村の活気がさらに増していた。
少し歩くと小川に到着した。鹿の肉を冷やすには十分すぎる大きさだ。ロビンは鹿の足にロープを縛り、川の中へと放り込んだ。流されないように木にロープを結ぶ。雪がまだ残る季節のため、小川の近くの岩に座るのは体を冷やしてしまう。二人は並んだ木に寄りかった。すでに朝日が森の中へ光を届け、鳥たちが美しくさえずっている。
「あのさ」
「はい?」
「見過ぎ」
「へ?……あ! ごっ、ごめんなさい……」
カレンは視線を足元へと向ける。耳が熱くなるのを感じ、預かっている大事な弓を強く握りしめた。
カレンはロビンの様子がいつもにもまして気になっていた。村にも美男子と呼ばれ、村の女性達にちやほやされる同い年ぐらいの青年はいるのだが、カレンは全く気にも留めたことはない。村のために働く義父を支えたいと、日々精力的に働いていたため、年頃の娘が抱くような感情はなかなか持つことができなかった。というよりも自ら押さえ込んでいたのかもしれない。村の青年男子から交際を申し込まれたことはあった。しかし、嬉しく照れたりもしたが、父へ恩返しをしなければという思いからか断ってきた。
しかし、村の外から来た、それもまだ顔に幼さを残した青年に恋をしている。この気持ちに気付いたのもごく最近だった。この気持ちを悟られまいといつも通り接してきたのだが、どうも今日は狩りの姿を見てからは抑えられそうになかった。今ままで抱えてきたものと矛盾した想いが心の中をかき乱そうとしている。
聞こえるのは小川の水の流れる音、ときどき聞こえる鳥の鳴き声がだけが響いていた。
「行こっか」
時を見計らってロビンが告げた。
「はい、そうしましょう」
まだ気恥ずかしさ抜けきれなかったが、カレンは鹿を背負う彼の後をついていった。
***
「ハァ……」
昼の営業が終わり、客は誰もいないはずの料理屋のカウンターで小さなため息をつく。カレンとおかみさん以外誰もいないためか、ため息は店中に響くように大きく聞こえた。温められたミルクが入った木製のカップからは、少しだけ甘い香りが漂っている。カレンはカップを両手で持って飲み口を親指で撫で、視界はぼんやりと注がれたミルクを見つめていた。
「どうしたんだい?ため息ばっかりついて」
今日何度めか知らないため息におかみさんは呆れたていた。こうしてカウンターで温められたミルクを注文し、居座り続けるのはだいたい話を聞いてほしいときだということをおかみさんはわかっている。
「ロビンくんのことかい?」
カレンはビクンッと肩を揺らして両目を見開いて、おかみさんの顔を見る。どうしてこんなに私ことがわかるのだろうと。明らかな動揺におかみさんは微笑む。
「――うん、ロビンさんって村の同い年の男の人たちとは全然違うなって思ってて……、村にずっと住んでる私にとっては初めて見るような人です。ずっと旅を続けているとあんなにたくましくなるのかなって思うとなんだか、憧れちゃいますね」
「おやおや、ついにカレンちゃんも自分の気持ちに素直になれたのかい」
頰を真っ赤に染めうつむくカレンは可愛らしく俯きながらコクン、と頷いた。
おかみさんはとっくの前から彼女の気持ちに気づいていた。彼と仕事をしたこと、意外と野菜が苦手なこと、すべて楽しそうに話していた。特にロビンと二人で狩りに行った後の話をする彼女の様子は、誰が見てもロビンに好意を寄せていると分かるほどだった。
「本当に働き者で、どんな仕事も文句の一つも言わずにこなしてくれるからどんどん頼ってしまって……」
おかみさんは静かに次の言葉を待っていた。
「実は昨日も少しだけお仕事を手伝ってほしいと頼んでしまって……」
急に言葉に詰まる彼女に心配そうに、おかみさんは語りかけた。
「何かあったのかい?」
「朝、迎えに行ったら、急に断られてしまって……」
「ロビンくんはなんて言ってたんだい?」
「『ごめん、ちょっと狩りに行ってくる』って言ってそのまま行ってしまいました。すごく辛そうな……思いつめた顔をしてて……」
カレンの表情がだんだんと暗くなり、目尻には涙をためていた。
「私、頼りすぎていたんでしょか?それでロビンさんは私のこと煩わしく思ったりしてるんじゃないかって……」
一雫。カレンの頬を伝った。
「ま、 どこか他人に迷惑をかけないようにというか、人の顔色伺うようなところはあるけどさ、 今までのロビンくんを見る限りじゃあわたしゃ、そんな風には思わないけどねぇ~」
「でも、ものすごく辛そうな顔をしてて……、今までお仕事急に断ったりとかなかったですし……」
目尻の涙はすでにこぼれ落ち、おかみさんの方へ顔を上げ、今にも泣き崩れそうなカレンへ、おかみさんは優しく言った。
「カレンちゃん、昨日お仕事頼んだとき、ロビンくんはどんな様子だったんだい?」
「いつも通りに『いいよ』って、言ってくれました」
「だったら大丈夫じゃないのかい?」
「どうして?」
おかみさんの言葉にカレンは幼子のように首を傾げた。おかみさんはカレンの頭をガシガシと撫でる。急に頭を撫でられたカレンは目をつぶる。頭に手を乗せたまま、おかみさんはカレンへ言った。
「急に断った理由はわからないけど、男ってのは時々、孤独になりたいときだってあるのさ。何か考えたいときとか、真剣に立ち向かわなければならないときとかにね。一人で狩りに行くなんて、うってつけじゃないかい? まあ、面倒くさいし、単純なんだよ、男ってのは」
「でも……」
「ま、帰ってきたら美味しい手料理でも作って迎えてあげな。大丈夫、応援してるから」
そう言って、おかみさんはウインクをして勇気付ける。
「はい……」
「ほらほら、ミルク飲んで元気だしな。今日は特別さね、おかわり自由だよ」
カレンはすっかり冷え切った甘いミルクを一気に飲み干した。
***
矢の雨、剣戟の火花が飛び交う戦場。血が大地を赤く染めあげる。次々と倒れ行く兵士。苦しみもがく叫び声。命が無残に切り捨てられていく。
一人の弓使いが寸分の狂いもなく、命を絶つ。前頭、咽頭、心臓。不規則に動く標的を確実に捉える。
刹那、視界が暗転する。
乗っていた馬に矢が突き刺さり、馬はその主人を背中から放り投げた。受け身を取るものの、そこは戦場。予測不能な暴力が頭を殴打した。
***
「はっ!」
寝台から飛び起きる。ロビンの体は汗でびっしょりと濡れていた。まだ夜が明けきらない時間。再び寝直すには目が冴えきってしまった。芽吹きの季節を迎えようとしていたが、寒さがまだ残っている。冷え切った部屋を暖めるため暖炉に火を入れ、鍋に湯を沸かし茶を煮出す。少し早いが朝食を簡単に済ませ、茶を飲みながら物思いに耽る。
「もう、行かないといけないのか……」
四度目の村。この村も本当にいい村だと実感していた。村長が、カレンが、おかみさんが、村のみんながロビンを暖かく迎えてくれた。しかし、親しみや信頼が積み重なるたび、この悪夢がよみがえる。
「今日は確か……」
この村が大好きな働き者と仕事の約束をしていた。簡単な書物をまとめるだけの仕事だったが突然断るのは気がひける。
だが……
一人になりたい。
ーー森だ。
森は不安を払うにはもってこいの場所だ。この悪夢を見るたびに森へ行き、自分の心を確かめていた。この悪夢ももしかしたらすぐに消え去るかもしれない。一握の希望を持って狩りの準備を始めた。雪が溶け始めているとはいえ、森の中はまだ雪が残っている。厚手のブーツにマントを着込み、パンとチーズ、そして自家製の鹿肉の燻製をバッグに詰め、準備は万全だ。
ーーコンコン。
扉をノックする音がした。日が昇り始め、鳥のさえずりとともに子どもたちの声もする。人が尋ねてくるには少し早い時間だが、誰だかすぐにわかった。
「ロビンさん? 起きてますかー?」
カレンだ。仕事を断る理由も考えたが思い付ず、頭をガシガシとかく。彼は返事をせずに扉を開ける。彼女は赤色のマフラーと髪の色と同じ色をした暖かそうなポンチョを身にまとい、深緑のチェック柄のロングスカート。皮のブーツを履いていた。
笑顔でロビンを見つめながら――
「おはようございま……す?」
ロビンの姿をみて不思議に思ったのだろう。書類仕事をするにはあまりにも場違いの服装だった。
「あれ? ロビンさん今日は……」
「ごめん」
「え?」
「ごめん、ちょっと狩りに行ってくる」
扉を閉め、カレンの横を通りすぎる。突然すぎて理解が追いついていないカレンは、ロビンの住む家の扉を呆然と見つめていた。
***
(悪いことしたかな)
森の中を歩きながらロビンは反省する。あの時は最善だと思えることが思い付かなかった。ただ、一人になりたい気持ちで満ちていた。彼女のことを嫌いなわけではない。むしろ好意さえ抱いているかもしれない。しかし、冷たく当たってしまったことに後悔していた。そんな思いと、再び現れた悪夢と向かい合う。
腕を買われ、領主のくだらない欲望に付き合っていた。割のいい褒賞と自らの弓矢の技術を生かせることに少なからず喜びを感じていた。人を殺めることに抵抗がなくなるころには敵、味方に関係なく「鷹の目」と恐れられた。たくさんの戦績を収めたはずだった。
しかし、快く思わない者が現れ、陥れようとする者も現れた。戦の際に敵に紛れ攻撃する者もいた。ついには頭を打たれ、辛うじて生き残ったものの、命を失いかけた恐怖に今も悩まされていた。この悪夢が襲うたび、逃げるように旅を続けた。
でも……
森にいれば少し気が休まる。深く目を閉じて深呼吸すれば、木々の香りが気持ちを落ち着けてくれる。
森で気持ちを確かめるように歩きだした。すると聞きなれない羽音が聞こえた。音の方へ近づくにつれ、そこは狩りの罠を仕掛けた場所だと思い出した。
村へ来て1ヶ月とちょっと立った時に、鹿の獣道を見つけて設置したものだ。木の枝の反動を利用して跳ね上げる簡単な罠だ。その罠に鳥が掛かるということはかなり大型の鳥かもしれない。
羽音がした場所へ到着すると、そこには不思議な鳥が罠の紐を体に巻きつけて身動きが取れなくなっていた。真っ赤な羽毛に覆われた目も冴えるような色をした鳥だった。特に目を引くのが、その尾だ。光に反射し赤、青、紫、黄、緑と鮮やかな色を見せ、目を奪われてしまう。
ロビンに気づいたのか、その鳥もこちらの様子をじっと伺っている。近づくと暴れだしたが、紐が絡まっているため、逃げることができない。観念したのか暴れるのをやめる。しかし鋭い目はこちらを睨みつけている。そっと驚かさないよう紐を少しずつ解いていく。複雑に絡み合いとても解けそうになかったのでナイフで紐を切る。その美しい鳥は紐から解放されたが、少し弱った様子で、飛び立とうとしない。
「ほら、行きな。もう罠にかかるんじゃないぞ」
するとその鳥は振り返って飛立ち、木の枝にとまり、こちらを向きなおして、美しい鳴き声をあげ、森の中へと消えていった。
「うん、元気そうだ」
飛びだった姿をみて安心したように息をつく。ロビンはこの村へ来てほとんどの森を歩きまり、生息する獣や鳥は把握したつもりだった。――いや、まだいっていない場所があった。
『魔女の森』
もしかしたらあそこにはまだ見ぬ獣や鳥たちがいるのかもしれない。そう思うと、好奇心が湧きたち、いてもたってもいられなくなった。
立ち入ってはいけないと言われたが、魔女などは聞いたことがあるだけで実在するかどうかなんてわからない。おとぎ話の話のようだ。知っているのは不思議な術を使い、人の心を惑わすとか、不老不死の薬を作っているだとか、その程度だが……。
もしそのような術が使えるのならば、この悪夢の原因を打ち消してくれるのではないだろうかと思いついたのだった。それはある意味直感のようなものであって、確証は無かったがロビンは何かに掻き立てられたかのように魔女の森へと向かった。
***
魔女。
うら若き乙女の生き血を啜り、永遠の時を生きる吸血鬼。怪しげな術と秘薬を使い、一国を一夜で崩壊させたとされる悪魔の化身。森に迷い込んだ人間を太らせ、その人肉を食らう鬼。男を惑わしその精を吸いつくし殺す淫魔。
子供の頃から悪いことをすれば必ず、母親が魔女がくるぞと脅されたものだった。今ではおとぎ話のような話だが、今住んでいる村ではそれは実在するかのように魔女の森に入ることは禁じられていた。
村をぐるりと大回りし、北東へと向かった。村へと戻ることは少しばかり躊躇われた。これからこの村の最大の禁忌を犯そうとしている。それに彼女に会わせる顔がなかった。それ以上にこの魔女の森への好奇心と淡い期待を抱いている。村のはずれに愛馬を止め、人の目を憚り森へと足を運ぶ。
改めてその森のそばへ立つと全く人が立ち入っていないことがわかる。木々の枝は無造作に伸びきり、その幹は蔦に覆われている。地面から生えた雑草はまるで侵入者を拒むかのように鋭かった。
一歩迷えば2度と出てこれない、そんな気がした。が、それ以上に、魔女への好奇心が上回っている。意を決して禁断の領域へと足を踏み入れた。
今は夜だろうか、そう錯覚させるほど木々は高く伸び、その枝葉に積もった雪で陽の光を遮断させている。雪が木の枝から落ちる音があちらこちらで聞こえて来る。積もった雪がまだ解けきらずに森の中を白く染め上げた景色を歩き続けた。
どのくらい歩いたのかわからない。そもそも魔女なんているのだろうか。なんの確証もないままこの森へきた。今更だがとんでもないことをしでかしたと我に返った。焦る気持ちは恐怖心を生み出し、呼吸が乱れだす。視点は定まらず、右往左往。
突然、獣の鳴き声が聞こえた。とっさに弓矢を構える。周囲を見渡すも木々と永遠に続く白い景色が目を狂わせた。呼吸はさらに乱れ出す。こんな時こそ落ち着かなければと深呼吸するも、違和感を感じている。
――汗だ。
この森は陽の光を遮断し、雪が全く溶けきれていない気温の低い場所にもかかわらずに汗をかいていた。たまらず、来た道を走り出した。足跡を辿れば出られるはずだ。念のために木に印をつけていたからそれを目印すれば森から出られるはずだったが、どこにも見当たらない……。
木から落ちた雪が、印を消してしまっていた。
帰る道を失ったことでさらに焦りが増してくる。焦りと寒さは疲労を感じさせる。進める歩はだんだんと速くなる。今どこを歩いているのか、まったく見当もつかない。落ち着かなければ。自分の手に噛みつき、気を紛らわせる。思考をだんだんと落ち着かせ、ようやく五感を取り戻し始めた。空を見上げると微かだが光は差し込んできている。まだ大丈夫だ。なんとか日没前までには森を抜け出さなければいけない。
しかし、これ以上闇雲に移動するのは得策ではない。周囲を見渡しあたりを現状を把握しようとした。目を凝らしあたりを見回すと木々の間から溢れるように光が差し込む場所があった。自然と足がそこへと向かう。焦りは消えていなかったものの、一際明るいその場所は、安心させるものがあった。
近ずくにつれて川の水が流れる音が聞こえる。村の近くへと流れている川かもしれない。その場所までいけば森を抜ける可能性も出てくる。生存への希望が、光の源へと急がせた。
光源の地へ足を踏み入れると、そこは背の高い木も、降り積もるはずの雪もない開けた場所だった。花の香りが一瞬で鼻腔をいっぱいにし、季節はずれの花たちがあたり一面に咲き誇っていた。赤、青、黄色に装った花びらは目がさえるほど鮮やかだった。
川のせせらぎが大きく聞こえていた。喉の渇きを覚え、川の音のする方へと向かう。その川の水は底まで透き通り、こんこんと優しく底砂を巻き上げながら水があちらこちらから湧いていた。綺麗な川魚が群れをなして泳ぎ、まだ陽が沈み始めてもいないのに、美しい蛍が光を放っていた。
手で水を掬い、雪解けの水が冷たく火照った体を冷ましてくれるだろうと思ったが、意外にもそれは温もりを感じさせた。手の中の水は光に反射し美しく輝いていた。否、その輝きはただ光を反射するのではなく、自ら光を発しているかのようだった。
渇きを潤すように手のひらの水を飲み干した。先ほどまで感じていた疲労が一気に消し飛んだ。またひと掬いし飲み干すと、水が頭の先からつま先までが一気に駆け巡るように体の渇きが潤される。
一息つき川の岸に腰を下ろす。季節を感じさせないその場所はとても暖かく感じた。このまま横になれば眠ってしまいそうなほど心地が良い。
立ち上がり、振り返って見回すと、小さな水車小屋があった。石が丁寧に積み上げられた小屋には煙突があり、そこから煙が出ている。小屋へ近づこうと踏み出したが、立ち止まる。
ここは魔女の森だ。こんな深い森の中に住んでいるとすれば、魔女しか考えられない。
日も暮れ出した。川に沿って歩けば森を抜けれられるかもしれない。しかし、ここは魔女の森。いくら森を抜け出せる手段を見つけてたとしても危険だと勘が警告している。生きて帰れる保証はなかった。ここの場所が森のどの場所よりも暖かいとしても火を焚かず、夜を明かすことも危険である。しかし、火の光が自らの位置を魔女に知らしめるようなものだった。
弓矢を構える。
手が震えだす。
もう人の命を奪わないと誓った。しかし、魔女は人なのか? いや、魔女は魔女であって人ではない。たとえそれが人の姿をしていたとしても、それは仮初めの姿であって、その内側には恐ろしい悪魔が仮面をかぶっているだけかもしれない。
おとぎ話が、現実となって襲いかかろうとしていた。
ゆっくり、ゆっくりと小屋から目を離さないように、おとぎ話の中に出てくる魔女とは掛け離れたその美しい場所を後ろ歩きで離れる。あと数歩でその場から逃れることができるその瞬間。
自分の背後に何かがいるのを感じた。
背筋は凍りつき、死の淵に立たされた「あの日」が蘇るようだった。今朝見た悪夢はこれを予知した夢に違いない。今日この命は終わる。そう確信し、瞳を閉じた。しかし、その命が終わることはなかった。
まだ、生きている。
不思議に思い、目を開く。ある疑問が思い浮かぶ。
ある魔女は血を啜り、また違う魔女は人肉をくらい、そのまた違う魔女は男の精を吸いつくし殺す。いまだに命があるのは生かされているのでは? と考えが至る。ならば隙を見て逃げることも可能だと思い、抵抗する意識はまるでないように後ろをゆっくりと振り向いたのだが……。
そこには魔女がいなかった。
安堵のため息をつき、心から一気に緊張感が抜ける。あまりにも気が張り過ぎていたのか今までは全て勘違い。地面に視線を落とし再び、大きなため息をつくと、そこには自分のものとは違う小さな両足があった。
しばらくその自分の向かいにある両足を見つめる。ああ、まだ疲れているのだ――と思い目をつぶり、大きく深呼吸し、目を開くと同じ足が見えた。
ゆっくりとそのつま先から、膝、太もも、腰、お腹、胸、そして顔。目でその存在を焼き付けるかのごとく顔を上げる。そこには大きな美しいルビー色の瞳を見開き、銀髪で雪のような純白の肌をした少女とがいた。
その姿は、おとぎ話が、母親が教える醜い悪魔でも、鬼でもなかった。今にも壊れてしまいそうで繊細なガラス細工のように、触れれば砕け散ってしまう、そんな儚さを兼ね備えた少女だった。身長はロビンのみぞおちの高さより少し高いぐらいだ。ロビンと目が合うと少女は 耳を傾けても聞こえないような小さな声をあげた
「………ぁっ」
両手に持っていた植物の詰まったカゴを落とし、一番近くの木の陰に隠れ、こちらの様子を顔を半分ほど出してこちらを伺っている。カゴの中身は落とした衝撃で散らばってしまった。
魔女、なのか? しかし、この姿は明らかに人間だ。いや、姿を誤魔化し、隙あらば命を狙ってくるのかもしれない。そういう思いが心の中を渦巻いていた。
魔女と思われる少女は木の陰からこちらの様子を伺っているが、瞳には今にも溢れんばかりの泣き出しそうだった。警戒を解いた方がいいのかよく分からない。あまりに弱々しいその姿にどうしていいか見当もつかなかった。持っていた弓矢を収め、カゴから散らばった植物をカゴへと集めた。
「あ……」
泣き出しそうな少女は木の陰から半身をだしてこちらの様子を伺っている。
「だ……れ?」
少女の声は怯えをはらんだ声だった。警戒を解くべきかどうか悩んでいるのに、逆に警戒されている。その様子には恐ろしい魔女の姿はなかった。植物を集め終わり、少女にカゴを渡すためにゆっくり差し伸べ、
「僕はロビン、君は?」
近づいたロビンに恐れをなし、一度木の陰に全身を隠した少女だが、名を名乗ったロビンに少し警戒を解いたのか、木から姿を完全に現し、彼女は鈴がリンと音を奏でるような声で答えた。
「あ、アリス」
純白の肌とは対照的な真っ黒なフード付きのローブを身にまとっていた。本当に魔女なのか? 恐ろしさのかけらも感じさせない。先ほどまで感じていた恐怖はいつの間にか、ロビンの心から消え去っていた。
カゴを差しのばしたが、警戒されているのかまだ受け取る様子がない。すると、どこかで聞いたことが羽音が聞こえ、少女の肩へと降り立った。
「フェニス……」
羽音の主人の名前を呼ぶアリスは、その鳥の鳴く声に耳を傾けていた。アリスはフェニスを見て、安心した表情を見せていた。その鳥は先ほど森で罠にかかっていた、赤い不死鳥を思わせる美しい鳥だった。この森へいざなった、魔女に会おうと思い立たせた原因。であるならば、この少女は魔女なのかもしれない。
「あ、ありがとう……」
「え?」
「フェニスを、助けてくれて……私の、大事な、友達……」
「あ、うん」
彼女は顔を少し赤らめながら、差し出したカゴを受け取る。そして丁寧にお辞儀をする。
「これも……ありがとう……」
赤い鳥が彼女の抱いていた警戒を解いてくれたのだろうか、彼女は先ほどまで浮かべていた涙を指で拭い、光の庭へと歩き出した。
「お礼、したい」
恐怖心はもうどこへ彼方へと過ぎ去ってしまった。あまりに弱々しさに拍子抜けしてしまっていた。
日も沈みかけていた。ここは彼女の言葉に甘えておこうと、少女の後を追って小さな小屋へと入った。
「お邪魔します」
小屋の中はこじんまりとしていたが、少女一人で住むには広すぎるくらいの空間があった。扉を入ってすぐ正面のダイニングの真ん中にはテーブルと二対の椅子。テーブルの上には木でできたコップと大きめのボウルがあった。その中にはどこでも食べられているような木の実が沢山入っていた。
ダイニングの奥には一際大きな扉がある。様々な植物が紐で縛られ吊るされている。部屋の左の部屋には大きな暖炉があり、そこにも二対の椅子があり、その間にひざの高さぐらいのローテーブルがある。同じ部屋には少女の体には大きすぎるベッドが一つ置かれていた。右の部屋には小さなキッチンがあり、簡単な調理器具が壁に引っ掛けられていた。
肩に止まっていたフェニスは扉のすぐ近くの止まり木に飛び乗った。少女はカゴを扉のすぐ脇に置いてある小さな台へと置き、ローブを脱ぎ、掛けようとするも背が届かないのか一生懸命背伸びをしている。ロビンはおもむろに彼女のローブを受け取り、壁掛けに掛けてあげた。
「あ、ありがとう……」
その後、アリスはキッチンに行き、火を起こそうとしていたが、視線に気づいたのか火をつけるのをやめ、暖炉から燃えているまきをスコップですくい、キッチンのまきに火をつけた。水を溜めた瓶から水をすくい鉄でできたポットに水を注ぎ、キッチンの火にかけた。
「座って?」
彼女に勧められてダイニングの椅子にかける。彼女も向かいの椅子に座る。改めて部屋を見回す。おとぎ話に出てくるようなおどろおどろしい、魔女の部屋の様子はなく、ごく一般の家だった。
小さな窓から差し込む光が消え赤く染まる。暖炉の小さな火が部屋を照らすだけとなる。しばらくの間、無言の時間が過ぎるが、彼女はこちらの様子を見て、目を合わせようとしては恥ずかしそうに視線をそらすのだった。
彼女はキッチンへ行き、危なげな所作でお茶を淹れている。お茶の香りが一気に部屋中に広がる。テーブルヘとティーセットを運び、コップにお茶を注いでくれた。注がれたお茶からは花の香りを思わせるような香りが広がる。カモミールのお茶は飲んだことはあるが、このお茶はそれよりも芳しい花の香りがする。
「ありがとう」
そう言ってお茶を一口すする、一気に突き抜けるような濃厚な花の香りは口内に広がった。味は苦くもない独特な風味がロビンの舌を楽しませてくれた。
ぐ~。
「あ……」
お茶を飲むことで胃が刺激されたのか、お腹の虫がなる。そうだ、朝食を食べてから何も口にしてない。
「これ」
少女はテーブルの上に置いてあった木の実の入ったボールをを差し出す。小腹が空いた時には腹を満たしくれるが、しかし、今日は多くの時間歩き回ったり精神的にもくるものがあった。ロビンは温かい食事をと思ったが……
「ごめんなさい……。これしかないの」
そんな様子を察したのか、彼女は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「いや、大丈夫だよ」
正直言えばもっとがっつりと食事をとりたいロビンだったが……。
ふと思い出したように、バッグの中から布で包んでいたパンとチーズ、そして鹿肉の燻製を取り出しテーブルの上へと並べた。量にしては一人分だ。
「あ……パン……」
彼女はまるで目にしたことのない豪華な食事を目の当たりにしたように目を輝かせたが、恥ずかしそうに顔をうつむかせた。
パンなんてどこでも食べられているもので、珍しいものでもない。しかし彼女はパンを見るなり、目を爛々とさせてパンを見つめた。もしかして経済的な理由で木の実だけを食べているのかもしれない。そうだとしたらかなり不憫だ。それにしてもこの子の両親は何をしているのだろうか? まだ一人立ちするには少し早い、いつになったら帰ってくるのだろうかと疑問に思いロビンは彼女に尋ねる。
「しかし、ご両親はいつになったら帰ってくるんだろうね?ちょっと遅いね」
「…………い」
「ん?」
「……いない、の」
「あ」
彼女の目は急に寂しげな表情へと変わった。ロビンは自らの失言に顔をしかめる。そして肉親がいないのにどうやって今まで暮らしてこれたのだろうかと不思議に思う。今まで木の実だけを食べてくらしきたのだろうか?
「パンは食べたことはあるよね?」
当たり前のような質問だったが、ロビンは確かめておきたかった。
コクリと首を縦に振り少女は呟いた。
「お母さんが、ね……、いつも焼いてくれてた」
薄暗い中でもその瞳に涙を浮かべるははっきりとわかった。ロビンはこれ以上聞くのはかわいそうだと思い、パンを彼女の前に差し出して言った。
「食べるかい?」
「いい……の?」
驚いた瞳の奥にらんらんとまたたく喜びの輝きがあった。彼女の表情は一気に明るくなった。
「ああ、もちろんさ。それにチーズも、鹿の燻製もある。一人で食べるのも味気ないからね、それに……」
「それに……?」
木の実だ。このチーズと、燻製を使って温かいスープでも作ってあげよう。温かい食事を摂ることさえもままならなかったであろう彼女の寂しさを埋めてあげられたらいいのだが、と思い立つ。
「少しキッチン借りるね」
少女はこくりと頷いた。木の実の入ったボールとチーズと鹿の燻製を持って台所へ向かうと、少女も付いてきた。
まず、瓶から鍋に水を注ぎ湯を作る。鹿の燻製を細かく切り、鍋の水の中へと放り込む。濃い味付けをした燻製からは味が滲み出てくるだろう。そしてたくさんの木の実を潰す、しっかりと乾燥してあるから簡単に粗い粒状に砕くことができた。それを軽く炒って香ばしさを出した後、同じ鍋の中へと入れる。水がお湯に変わり、燻製から味が滲み出し、いい匂いがしてきた。
少女はいつの間にか調理しているそばまで来ていた。少女は湯気が上ぼる鍋を見つめながら涎を垂らしていたが、本人は全く気付いてい無い。その姿に多少驚きつつも布を取り出し、彼女の涎をそっと拭う。
「えっと、大丈夫?」
「~~~~~~~っ」
涎を布で拭われ、何が起こったか把握するまでの数秒間。ロビンに惚けたような視線を向けたあと、顔を真っ赤にして暖炉の部屋まで走って逃げていった。そして恥ずかしそうに物陰に隠れ、顔を半分だけだしてロビンを見つめている。
よっぽど恥ずかしかったのか、潤んだ瞳でこちらを見つめていた。その可愛らしい姿にロビンの顔は笑顔を浮かべる。
二人分にしては量が少ない気がするが、木の実だけの食事よりもずっといいだろう。埃のかぶった木の器を洗い、出来上がったスープを注ぐ。美味しそうな湯気が器から立ち上る。チーズを薄くスライスし、テーブルの上へと並べる。
「食べないの?」
アリスは恥ずかしそうにモジモジとしながら、静かにテーブルへとつく。可愛らしい様子を見届けた後、スープを一口。薄味に顔を少しだけ歪ませるロビンだったが、炒った木の実の香ばしさと、燻製の香りが妙に合っている。そして持ってきた一つだけのパンをひと千切りし、その他すべてを彼女の前においた。チーズもスライスしたものを一枚だけのせ食べる。おかみさんの焼いてくれたパンはいつも通りの味で安心した。
「い、いただきます」
アリスもゆっくり食事を始めた。スープをひと掬いし、ふーっと息を何度か吹きかけてはスープを冷ましている。一口食べてから、突然彼女は俯いてしまった。口に合わなかったか? それともかなり味が薄くて不味かったのか? 「味が薄いね」と言葉をかけようとした時、アリスは泣き始めた。
「ひっ、っく……うっ……」
「ど、どうした?不味すぎたか?」
「……ぁ……さん……」
「え?」
「ぉかぁ………さん………」
スプーンを握りしめるその手は震え、うつむき、声を押し殺しながら泣くそのアリスの姿を見ているのがロビンは辛かった。いつ両親を亡くしてしまったのかはわからない。それから一人で暮らしてきたのか? もしそうならその寂しさはとても想像できなかった。おそらく、ろくなものを食すことができなかったのだろうと想像できる。
スプーンが止まる。この子にもっと食べて元気になってもらいたい。できるならこの子の寂しさを紛らすことができないかそう思った途端、自然と彼女の頭に腕が伸び、その美しい銀髪を優しく撫でていた。
肩をビクッと震わせる。涙で濡れた瞳は不思議そうにロビンを見つめていた。
「辛かったんだね」
そう言うと彼女は溢れんばかりの涙を流しながら声を大にして泣いた。「おかあさん」と何度も亡き母を慕い、求めてなく彼女の頭を優しくそっと撫でつつでける。
「ほら、冷めちゃうよ?」
「グスッ……うん……」
ちょっとずつだが、その小さな蕾のような口へとスープを運ぶ。いつぶりであろうパンも、チーズも、涙を流しながら「おいしい、おいしい」と言って食べていく。ロビンの食べかけのスープもアリスにあげると、喜んで全部平らげてしまった。
空腹ではないと言えば嘘になる。しかしそれよりも、この子の寂しさを埋めてあげられたかもしれないという満足感がロビンの空腹を満たしてくれた。
「ありがとう……ろ、ロビン」
「うん。お粗末様」
泣きはらした目は真っ赤だった、しかし、照れながら頬を朱に染め、見せた笑顔は目に焼き付いてしまった。
――守りたい。そんな気持ちがロビンの心の中にふっと湧いてきた。
こくり、こくりと少女が首を動かす、今にも落ちそうなまぶたを必死に抵抗しようとするが、ついには静かな寝息を立てる始めた。
ロビンは少女の心の何かを埋められた気がして微笑む。ロビンはしばらく椅子に座って少女を見つめ考えた。
その可愛らしい寝顔からはとても「魔女」を感じられない。どこにでもいる、か弱く、非力な存在だ。
魔女の森なんてやはりおとぎ話だと、ただの迷信にすぎないと思い至る。しかし、なぜこんな森の奥に住んでいるのか? その疑問は考えれば考えるほど深まるばかりだった。
考えにふけっていると次第に眠気がやってきた。椅子から立ち上がり、椅子の上で寝ているアリスの肩と膝の下に腕を回した。羽のように軽く、持ち上げた瞬間に飛んでいきそうなほど、痩せていた。
今にも壊れそうで、簡単に握りつぶしてしまいそうな弱い、本当に弱い命のように感じた。しかしその寝顔はどこまでも作り物のような美しさを備えていた。
取り扱いを誤れば、すぐに崩れてしまうような芸術を、その体躯にしては大きすぎるベッドへそっと横たわらせた。
「んっ……」
アリスのその体格と小さく綺麗な手からは想像できない強さでは彼の胸元をしっかりとつかんで離さなかった。
「まいったな……」
無理やり引き離して起こしてしまうのも気がひける。ベッドは大きいから二人で寝るには十分だが、眠気には勝てなかった。
そっとアリスのとなりでロビンは体を横たえると自然とまぶたが落ちていった。
***
「おかあさん! おはよう!」
「あら、もう起きたの? 早いわね。」
少女へ優しく微笑みかけるその女性は、腰のところまで伸ばした美しい銀色の髪をしていた。少女の頭を優しく撫で、足を屈め、少女と同じ目線で話しかけた。
「もうすぐパンが焼き上がるから、座って待っててね」
「うん!」
小さなキッチンからはパンの焼ける匂いと美味しそうな匂いが混じり合っている。少女はその匂いを堪能しようと鼻から大きく空気を取り込んだ。涎をテーブルに垂らし、今か今かと待っていた。
「あら、また涎を垂らしちゃって。女の子がだらしないわよ」
そう言って布を取り出し、その涎を拭う
「えへへへ、おかあさん! お腹すいた!」
「はいはい、今持っていくからね」
木の実を粗く砕き、生地に練りこんだパンと、ジャガイモを粗く潰したポタージュが少女の目の前に並べられる。
「いただきま~す!」
ポタージュをひと掬いし、何度も息を吹きかけ、その熱を冷まし、口の中へ放り込む。少女は両頬が落ちないように両手で押さえ、満天の笑顔をしていた。
「んんん~~~~~っ! おいしい~~~!」
パンをひとちぎり。裂け目からはふわりと焼きたての湯気と木の実の香りとが鼻腔をくすぐった。もっちりとした食感と木の実の食感が絶妙な調和を生み出し、少女の口を楽しませる。
「はあぁ~」
美味しさのあまり大きなため息をついてしまう。どうしてこんなにもおいしいのだろう! と。
その様子を笑顔で見つめる母親。
「あれ? おかあさん、食べないの?」
一人分の食事しか食卓に並べられていないのに気付きたずねた。
「お母さんは先にポタージュ食べちゃったの。だからおかあさん、お腹いっぱい」
「そっか」
笑顔で食事をする少女の頭を優しく撫でる。その手に、子猫のように頭をこすりつけた。
「おかあさん!」
「ん? なぁに?」
「大好き!」
***
「おかあ……さん」
もうこんな朝はこない、アリスはそう思っていた。こんなにも心が満たされ、安心して朝を迎えられるのはいつぶりだろうかと。母のぬくもりとは違う「強い」温かさを感じながら目を覚ました。見上げると、母のような優しさを再び与えてくれた人が深く規則正しい寝息を立てている。腕の中で目覚めた時は理解するのに時間がかかったが、すぐ昨日のことを思い出した。
優しく、頭を撫でてくれた。母の柔らかい手とは違い、硬くごつごつとしていた。だけど与えてくれた温もりは母のそれと似ているようなきがした。
――もう少しだけ。
アリスはそう思って目を再び閉じて、母の柔らかいものとは違うその胸へ再び顔を埋めた。
***
「ぅんっ……」
目覚めたとき最初に思い至ったのは、昨日見た悪夢を再び見ることはなかった。少しだけ安心し安堵するようにロビンは深呼吸した。いい匂いがする。花をぎゅっと詰め込んだような優しい香りがロビンの鼻腔の奥を優しくくすぐる。自分の腕の中に自分と違うぬくもりを感じたが、それは抱きしめれば儚く砕け散ってしまうような存在だった。猫のように腕の中で丸まり、服の胸の部分をぎゅっと握りしめて離さない。起こすのもためらわれるような美しい寝顔をしていた。しかし、もう起きなければ。仕方なく起こすためアリスの肩を揺する。
「朝だよ」
アリスはもっとぬくもりを感じられるようさらにその顔を胸へと埋める。
「んぅぅ……」
うっすらと目を開けて瞬きを何度かしながらこちらの顔を見ている。しかし、視界がまだはっきりしていないのか、ぼーっとロビンをを見つめていた。
「おはよう」
そう言うと、アリスの顔はだんだんと紅潮し、ついには俯いてしまった。
「ぉはよう……」
消え入るような小さな声で言った。まだ服を掴んだままだった。照れているのか耳まで真っ赤にして俯いていた。
「昨日はありがとうね、本当に助かったよ」
「うん……」
まだ服を掴んで俯いたままだった。
「えっと……そろそろ離してくれないかな?」
服を握るその手は意思を示すようにさらに力強く握りしめられた。
「ぃ、や……」
「え?」
「帰っちゃう……の?」
その声は震えていた。
「そうだね。一応村に戻らないと、みんな心配するし……」
アリスは体に抱きつき、行かせまいと背中に手を回した。
「ぃや……行かないで……」
アリスは泣いている。昨日の様子と今の状況からアリスはもう一人になりたくないのだろう。昨日今日出会った人にここまで心を許せるのだろうか。それほどまでに追い詰められていたのか。彼女の真意はわからない。だが、何かに抵抗するかのようにアリスは背中に回した手により一層力を込めた。
泣き続ける少女の頭に優しく手をのせ、優しくそのサラサラとした銀色に輝く髪を撫でながらロビンは言った。
「大丈夫。また来るよ」
少女は手に力を込めて、無言の否定を示した。
「そうだ、一緒に村へ行こう! そうすれば……」
「ダメっ!」
アリスから発せられるとは思えないような大きな声で、否定した。訴えるよな瞳には不安や恐れを感じた。
「どうして? 村のみんなならきっと……」
「いや! いや!」
強く否定し続けるアリスは断固とし聞こうとしなかった。
「私は……『魔女』だから……だから……だめなの!」
魔女という言葉はロビンに軽い衝撃を与えた。だが、幼い頃に聞いたおとぎ話、母から聞いた話とは全く違う少女。村に行けない理由はなんなのか? 彼女が声をあげて拒絶する理由はわからない。
「う、うん、わかった……でも、一度戻らなきゃいけない。そのときはもっとおいしいもの持ってきてあげるから。ね?」
「本当?」
「うん、信じて。また遊びに来るから」
「……うん」
アリスはゆっくりと手を離してくれた。
「じゃあ……また来てくれるおまじない……」
そう言って、空中に文字を書くように指を指揮棒のように動かした。その途端、アリスの指の軌跡をたどるようにきらびやかな光が発せられる。そしてその光はロビンの手のひらの上をクルクルと周り、手の平へと落ちて消えた。
『魔法』
それは間違いなく人智を超えた力。初めて見た瞬間ロビンはそう確信せざるをえなかった。その光が手の平へと消えていった瞬間、優しいぬくもりを感じた。不可思議な光は不思議にも不快にも思わせなかった。むしろ、もっと感じたいと思わせるものであった。
「今のは?」
「ロビンがまた来てくれるおまじない」
「そっか、おまじないか」
「うん、おまじない」
彼女は微笑みながら見つめてくれた。
ベッドから立ち上がり、アリスは木の実を小さな布の袋に詰めて手渡してくれた。
「あさごはん」
「ありがとう」
照れたようにほんのりとその白い頬を染めてロビンの目を見つめる。
身支度を終え、光の庭を出る際、アリスはお互いの姿が見えなくなるまで見送ってくれた。