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6 ウサギを追いかけろ! 

 そして ()()はやってきた。()()は突然西から太陽が昇ったり、世界中にいっぺんに春がやってきたり、空から突然ブタが降ってくるようなそんな、()()だった。


 どうやら世界というものは、ある日、ある時を境目さかいめにして、ビックリするような変化が起こることがあるらしい。ただその真ん中でこの時にはもうすでに慣れ親しんだ日常の普通の世界から、めくるめく不思議の世界に足を踏み入れていた悠はまだその変化にこれっぽっちも気づいてはいなかったのだけれど。


 けれども、秘密の冒険の幕はこの時すでに上がっていたのだ。だから本当はアリスの時も、ドロシーの時も、彼ら彼女らの誰にも気づかれずに準備が進んでいたのかもしれない。

 

 すごくわかりにくかったかもしれないけれど、注意深く観察していれば。そう! かの名探偵シャーロック・ホームズのようにこの世界の全てのことを注意深く観察していれば、アリスにも、ドロシーにも、そして悠にも、その前触れというやつに気づくことができたのかもしれない。でもこういうことの準備は今からはじめますよとラッパを吹き鳴らして始まりを教えてくれたりはしない。それどころか夜のようにひっそりと、猫の足音よりも静かに、ウサギの耳にも聞こえないほどこっそりといつの間にか準備がはじまって、誰にも気づかれないままにいつの間にか準備が終わっているものなのだ。


 だから8月11日の朝。この時にはもう不思議な世界からの招待の準備は完ぺきに整えられていたのである。


 そんな悠の忘れられない一日のはじまりは、窓から差し込む、いや突き刺さるような明るい光で目が覚めることからはじまった。


「……まぶしい」


 そうつぶやいてベッドで上半身だけムクリと起き上がらせた悠は、目をぱちりぱちりとまたたいた。


 8月11日、天気は快晴。空にはまだ上がってきたばかりだというのに真っ白な太陽が全身にギラギラとやる気をみなぎらせていた。そんな太陽がむだにやる気十分な朝、悠は目覚ましがなる前に窓からまっすぐに入ってくるギラギラのまぶしさで目を覚ました。


 悠の部屋は家の東側にある。今の家を建てる時にお父さんとお母さんはうっかりと子供部屋のことまで深く考えずに家を建ててしまったものだから、悠の部屋はまるでねらったように窓が真東にくっついている。つまり朝日がまっすぐに入ってくるようになってしまっているせいで、ちゃんとカーテンをしめて寝ないと朝、こんな風に朝日に起こされるという目にあってしまうのだ。


 もちろん毎朝こんなひどい起こされ方をされてはたまらないから、悠はいつもはちゃんとカーテンを閉めて寝る。けれど昨日はあの後家に帰っても、おやつを食べても、夕ご飯を食べても、お風呂に入っても、歯をみがいても、ベッドに入っても、どうしても胸がムカムカして、そして心のどこかが少し寂しい、そんな気持ちがなかなか消えずそれで頭がいっぱいになって、うっかりカーテンを閉め忘れてしまったのだ。


 とはいえこういうことはよくある。うれしいこと、いいことがあって興奮してドキドキしている日。嫌なこと、悪いことがあってがっくりと落ち込んでいる日。そうして心が何かに奪われているそんな日に悠はきまってカーテンを閉めるのを忘れてしまい、次の日にこうやって朝日に起こされる羽目になるのだ。


 ちなみにこの強制的に人の目を覚まさせる朝日のことを、悠は『おはようバクダン』と呼んでいる。この『おはようバクダン』、夏の間は特に強力だ。夏の間、悠のベットに情け容赦なく突き刺さる朝日の強烈なことといったら! もし悠の部屋で吸血鬼が朝起きたら目の覚めた次の瞬間、いっぺんに真っ白な灰になってしまうだろうと思えるくらいに強烈なのだ。


 そうしてすっかり目が覚めてしまった悠はベッドから立ち上がり大きなあくびを一つ。時計を見るとまだ6時になったばかりだった。ラジオ体操までまだ一時間もある。そう思ってふと窓のほうへ見た悠の目に変なものが見えた、気がした。でも気のせいだと思って、寝ぼけまなこをこすりながら洗面所へと向かって部屋のドアを開いた。寝起きでぼんやりしていたので見間違えだと思ったのだ。


 だって窓に大きな耳――長くて白いウサギの耳なんか見えるはずがないんだから、と。


 そうして顔を洗って、歯をみがいて、家とペンションをつなぐ渡り廊下を歩く。今日も太陽はやる気十分だけれど、とはいえそんな太陽の光も外の木立に少しさえぎられて、いくぶん穏やかでやわらかな朝の廊下を通り、悠はペンションへとつながるドアを開けた。


 するとさっきまでうっすらだった香りが爆発する。朝の、焼きたての、パンの匂い。香ばしくて、素敵な匂いが開けられたドアから廊下に吹き込んでくる。悠の家の、いや街でも人気のペンション『アンソレイユ』の朝の匂いといえばこの匂い。悠の大好きなパンの焼ける匂いだ。何だかこの時にはいいことも悪いことも昨日のことは全部忘れてうれしくなってきた悠は、まだ朝だから大きな音は立てないように、それでいて速足で匂いをたどるように厨房へと飛びこんだ。


「お父さん! おはよう!」


 お客様には朝がゆっくりの人も多いから朝は静かに、でもあいさつは元気よく。そう子どもの時から何度も教わったやり方で悠は今日もお父さんに挨拶をした。すると、悠の頭よりもずいぶんと上のほうから、


「悠、おはよう。今日はずいぶんと早く起きたね」


 とおだやかに空気をゆらす声が。見上げると白いエプロン姿のお父さんがいた。背が高くて、かっこよくて、優しくて、そして何より料理がうまい。悠の自慢のお父さんだ。


 ちょっと待ってね、と告げてからお父さんは業務用の大きな冷蔵庫から卵を二つとバターを取り出した。流れるような手つきで卵が溶き卵になり、よくみがかれて鏡みたいなフライパンに火が入る。程よく熱せられたフライパンにバターがすべり、十分にいきわたったところで卵がフライパンで踊るようにふるえだしたかと思うと、あっという間にお皿の上にオムレツができていた。その様子をお父さんの料理を見るため専用の足台に上ってみていた悠は、毎回のことながら感動した。まるで魔法のようだと。そうだ、僕のお父さんは魔法使いに違いないとあらためて悠は強く思った。


 そんな悠をみて苦笑しながらお父さんはオムレツの隣に焼きあがったパンを一切れ、カップに透き通ったスープを入れて、厨房の隅にある小さな机に持っていった。振り返って一言。


「はい。どうぞめしあがれ。冷めないうちにね」


 そういってゆったりと仕事の続きを始めるお父さんにありがとうといって、オレンジジュースと一緒に朝ごはんを食べはじめる。いつも通り、すばらしくおいしい。最高だ。そう思いながらパンを食べ、オムレツをほおばり、スープを飲み干したらごちそうさまをして、食器をかたずけて時計を見るともう6時45分。


「お父さん、僕ラジオ体操行ってくる」


「いってらっしゃい。気をつけていってくるんだよ」


 お父さんのその言葉に「うん」と返事してキッチンを出ていく悠。


 という風に、この辺りまで悠の日常にほとんど変化はなかった。


 おかしいな、と思いはじめたのはこの後、家から出てポストのあたりに通りすがったときだ。


 ポストの上にウサギがのっている。瞬間、悠は確信した。


 ――こいつ、昨日のあのウサギだ。


 今度こそと逃がさないとばかり慎重ににじりよる悠。ポストの上のウサギをよく見る。昨日は自分の身長よりも高い病院のへいの上だったからよく見えなかったところもあったけれど、今度は自分でもがんばれば手が届く家のポストの上だ。じわじわと近づいてよく見る。悠は田舎の子。経験は豊富。つまり虫も動物も一緒で、つかまえるにはいかに獲物に近づいてその動きとかをよく見ることが大事、ということをよく知っていた。


 よく観察した結果、やっぱりまず目についたのはその白さだ。とにかく真っ白。次に目が真っ赤。ここまでは昨日確認した。次にひげだ。昨日はよく見えなかったけれどぴーんとたったひげが三本。他には……とおもって見てみるとおかしなことに気が付いた。


(耳と耳の間に、何かのってない?)


 それは黒くて筒状の、帽子のように見えた。


 ――まるでテレビに出てくる手品師の人が持ってるなんでも出てくる帽子シルクハットみたいな。


 悠がそれに意識を取られていると、ウサギは最初何だろう? みたいな顔で悠を見つめ返していたけれど、悠の目線が耳と耳の間に注がれていることに気づくと、わたわたと慌ててまるで猫が顔を洗うようなしぐさをした。そうしたら不思議。さっきまで確かに耳と耳の間に見えたはずの帽子シルクハットがなくなっている。


 ――おかしい。


 あらためてまじまじとウサギを見つめながら、悠は疑問を深めた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 それが猫みたいに顔を洗うみたいにしたら、それがなくなったなんておかしい。そもそも悠はウサギが顔を洗うみたいなしぐさをするなんて聞いたことがない。


 昨日も思ったけれど、このウサギはいろいろおかしい。そう思いなおしてもう一度ウサギの顔を見ると、何故かウサギの表情がかたい、気がした。ひきつっているようにさえ見える。まるで人間が何か都合の悪いことをごまかしているときのように。悠が悪いことやうそをついているときのように。そうして視線をゆっくりとそらした後、くるりと後ろに向いたやいなや、しげみに向かって飛びこんだ!


「あっ! 待て!」


 悠はそう叫んで自分もしげみに手を先に、次に顔を突っ込んだ。いない! 立ってまわりを見渡すと、ペンションの建物沿いにぴょんぴょん跳ねて逃げていくウサギの後ろ姿が。


「待てっていってるだろ!」


 悠はすぐさま走って追いかける。あんなおかしなもの、つかまえないと絶対だめだ。そう思った悠はいかないといけないラジオ体操のことも忘れてウサギとの追いかけっこを始めた。


 大人じゃとてもまともに歩けないようなレンガ壁としげみのすきまを全速力で通り過ぎるちいさなウサギと男の子。息をきらせて追いかける。でもいつしかウサギの姿はどこかにいってしまった、とその時。


 遠くから聞こえてきたラジオ体操の音にはっと我に返った悠。急いではーはーと息をきらせながらラジオ体操をする場所である公園――昨日ブランコをしたあの公園である――にたどり着くと、もうみんなラジオ体操を終わらせて家に帰るところだった。


 でもそのときの悠の心を占めていたのは、残念! 今年はせっかく今日までラジオ体操皆勤賞だったのに! というくやしさではなく、あのウサギ! 絶対つかまえてやる! という燃え上がるような決意であった。



○●○●○●○●



 ひとまず家に帰った悠だったが、頭の中はやっぱりさっきのウサギのことでいっぱい。いつもならこの時間は庭の花だんと自由研究のアサガオの水やりをするのだけれど、そんなことは完全に忘れてしまって。


 そして麦わら帽子をかぶりもう一度家を飛び出した。


 悠はまず家の周りから探しはじめることにした。お母さんがよく見ている刑事さんのドラマでそういっていたのを覚えていたからだだ。たしか現場百回。


 だからさっき姿を見失ったペンションの壁ぞいからぐるっと一周した。いない。次は花だん。花と花、背の高い草と草をかき分けて探したけれど、いない。昨日けいちゃんがバッタをつかまえイナゴに逃げられた裏庭も探してみたけれどやっぱり、いない。


 やっぱりもううちの周りにはいないみたい。そう思った悠は街へと探す場所を広げることにした。どうもそちらにいる気がしたのだ。


 突然だけれど悠はいいところがたくさんある男の子だ。見た目は今よりもう少し小さなころはよく女の子さんですか? としょっちゅういわれていたくらいだし、いつも元気であいさつがきちんとできることもそうだし、かけっこが得意なこともいいところの一つだろう。でも、悠自身に得意なことは? と聞いたならこう答えが返ってくる。


『かくれんぼで隠れた人を見つけるのが得意です』と。


 実際、悠は悠の友だちや他の子どもたちと比べるとずば抜けて隠れただれかを見つけるのが早かった。相手がどこに隠れても、まるで隠れるところを見ていたかのようにすぐに見つけてしまう。そのせいで悠と友だちが遊ぶとき、めったにかくれんぼをしなくなる程度にはかくれんぼが得意だった。もちろん悠はずるなんてしていない。そしてなぜみんなになんでそんなに見つけるのがうまいの? と聞かれたとき、悠は決まってこう答えるのだ。


『なんとなくわかる』と。


 そんな悠の『なんとなく』が、あのウサギは今街中にいると教えていたのだ。それにしてもあのウサギはいったいなんなのだろうと悠は思った。学校や動物園やカフェでしか見たことがないウサギが街中をうろついているだけでも変なのに、なぜか僕の行くところ行くところに2回もいるなんて不思議だ。それに何よりあの帽子。見間違えだったのだろうか? とも思ったけれど、確かに自分の目はあの時耳と耳の間に立派なシルクハットを見たはずなのだ。いるはずのないものがいて、そいつはあるはずのないものを頭にかぶっていたかもしれない。悠はそのことに本当にワクワクしていた。まるでおとぎ話の主人公のようだと。


 悠のお気に入りの本の主人公たちは、たいていああいうおかしな奴や出来事に巻き込まれるところから物語がスタートするものが多かった。だからこの時の悠はまるで自分がおとぎ話の主人公になったかのような気分だったのだ。こうなればもう昨日までの退屈なんて、完全にどこか遠い空の向こう。


 絶対みつけてつかまえてやる、と意気込みも新たに悠は自転車に乗って街への坂道をかけ下りはじめる。こうして本当に自分がものがたりの主人公のように不思議な世界にとっくに入り込んでいるなんてまるで気づきもしないで、悠とウサギのかくれんぼとおいかけっこは始まったのだった。




感想、および誤字・脱字ありましたらよろしくお願いします。


出典 シャーロック・ホームズシリーズ


※ しばらく毎日朝七時に更新します。

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