3 10歳の年はとても特別
――そして10歳の夏休みが来た。
この年は本当に暑くて暑くて、毎年夏になると暑い暑いっていうのが仕事みたいなテレビもいつもの年よりいっそう暑いなんて言いつづけるものだから、日本中の誰もが余計に暑いなぁと思いながら毎日を過ごしていたほど暑い夏だった。
そんな暑い暑い夏の夏休み。この夏休みは控えめにいっても悠の人生で初めての大イベントの年だった。
何しろ夏休みなのに、8月の初めから『家にお母さんがいない』っていう出来事が起きていたのだから。
どうしてお母さんがいなかったのか? 何よりひとりっ子の男の子がせっかくの夏休みにお母さんがいない。なんて悲劇だろう! 理由はどうあれ、悠は悲しい思いをしていたんじゃないか? と思ってしまうけれど、実際にはそうでもなかった。
もちろんお母さんがいない悲しさ、さみしさはすごく感じていた。ふと夜目が覚めて、トイレにいったあとキッチンで水でも飲もうと思ったときに、お母さんがいる空気がぽっかりとなくなった空間に感じる悲しさやさみしさだ。
悠の中ではお母さんはいつだって仕事で忙しかったけれど、そのかわりいつだってちゃんと悠の近くにいたから、こんなことは悠の10年の人生の中でなかったこと。だからはじめはとっても泣きたくなった。でも悠はその泣きたい気持ち以上に、たくさんのワクワクと理由がわからないほんの少しのイライラをかかえてこの夏休みを過ごしていた。
意外かもしれない。夏休みにお母さんがいなくてちょっとイライラするぐらいで喜ぶ子どもなんて。でもそれがおかしくない理由がひとつだけ、たったひとつだけある。
わかるだろうか? 10歳のひとりっ子の男の子が、せっかくの夏休みの家にお母さんがいなくてもうれしい理由。さみしいし心配だけども、ワクワクしながらお母さんが帰ってくるのを待てる理由が。
「お父さん、ボクお母さんのとこ行ってくる」
「うん、いってらっしゃい。いい子にして迷惑かけちゃダメだぞ。それと今日も暑いから帽子、忘れないように。あと坂道はスピードと車に気をつけないといけないからね」
「もぅ。わかってるよ、そんなこと」
そういったものの帽子を忘れていた悠は、てってってという軽い音を立てながら一度部屋に戻って麦わら帽子をかぶって「よし」といって家から飛び出した。真新しくて真っ黒でかっこいい自転車、10歳の誕生日プレゼントで悠の一番新しいたからもの、真っ黒のかっこいいマウンテンバイクにとび乗って悠は家からお母さんのところへと走り出した。
この夏、悠の毎年の夏休みに毎朝のラジオ体操や花だんへの水やり、ペンションの簡単なお手伝いのような、今までの習慣とはまったく違う新しい習慣ができた。この10歳の夏限定の習慣だ。それはこうやって毎日13時ごろにお母さんに会いにいくこと。夏の日差しを浴びながら悠の自転車が走り出す。夏真っ盛りでさわやかな高原とはいえ焼けるような日差しの暑さは変わらないけれど、悠自慢のたからものにかかればぐんぐん進むスピードが風をさわやかに変えていく。
家から街へと続く坂道をかけおり、目にうつる景色が鮮やかな緑から街のそれへと変わってしばらく走ると大きく開けた駐車場に到着。そこは落ち着いたベージュ色の壁の大きな建物で町にひとつしかない総合病院だった。たくさんの自転車が並んだ駐輪場に自転車を止めて、きちんとカギをかけてから病院の入り口へ。
透明な自動ドアの先の病院のロビーは、外とは違ってとっても涼しくて、きちんと掃除がいきとどいているから夏の日差しをうけてどこも白くピカピカしていた。その中をまっすぐエレベーターに向かって歩き出す。そしてエレベーターの前で何とか手の届くボタンを押す。もちろん押すのは上に行くためのボタン。目指すは3階だ。
エレベーターは楽しい。悠はあの、ん~って感じがキライじゃなかったから、こうやって毎日乗っているのに今のところ飽きがこない。そうこうしているうちにエレベーターはきちんと仕事をして悠を3階へとおくりとどけた。
いきなり飛び出して誰かにぶつからないようにドアからそっとでて、受付に向かい座っていた看護師のお姉さんに声をかける。これも毎日やっているからもう慣れたものだ。悠は今日も元気よく、礼儀正しくあいさつをした。
「看護師のお姉さん、こんにちわ。はいってもいいですか?」
「あら、悠ちゃんこんにちわ。今日もえらいわね」
そういって悠を笑顔でむかえた看護師さんは、こころよく自動ドアのカギを開けてくれた。
悠にはまだ読めない漢字もあったけれどドアの上には、
【産婦人科 入院病棟】
とかいてあった。悠はちゃんと最初に習った通り、入り口でしっかりと手を消毒したあと、看護師のお姉さんに手を見せた。お姉さんがよしっといってくれてマスクをくれる。それをしっかりつけて目的地へ。お母さんの待つ部屋に向かう。入り口からまっすぐつきあたって一度右にまがり、奥から二つ目の日当たりがよい部屋がゴールだ。
悠は子どもにはずいぶんと大きな扉を一生懸命引っ張ってドアを開ける。そこにはベッドに体を起こしてこちらを見ている女の人がいた。お母さんだ。悠は待ちきれなくてお母さんの姿が見えるとすぐに
「お母さん! もう赤ちゃん生まれる?」
と声をあげた。それに苦笑しながらお母さんが悠に手まねきをした。
「あら、悠いらっしゃい。赤ちゃんはまだ。まだもう少しゆっくりしたいって。ずいぶんのんびりさんみたいねぇ」
「えぇ~、まだなの~」
そういいながら笑顔で悠はベッドのお母さんにしがみつく。それをあやしながらお母さんはやさしくこういった。
「もういつまでも甘えん坊さんね。これで悠はちゃんとお兄ちゃんになれるのか、お母さん少し心配」
「なれるよ! 僕はちゃんといいお兄ちゃんになれる!」
そう、ここまでくればわかると思う。せっかくの夏休みの家にお母さんがいなくても大丈夫な理由が。
答えは『お母さんが妊娠していて、もうすぐ悠がお兄ちゃんになる』で、だからこの年は悠の人生でもとっても大切な大イベントの年だったのである。
ここだけ見るとすごくあたたかな親子のいい場面なのだが、このお母さんの妊娠。色々と悠の夏休みにもいつもと違う変化をもたらした。
まず最初にお母さんの妊娠が分かった時からこの変化は始まった。悠は「やった! 僕もおにいちゃんだ!」と大喜びでむじゃきにさわぎまくったけれど、その一方でお父さんは心配そうな顔ばかりしてあまり喜んでいる様子を見せなかった。もちろんお父さんだって家族が増えるのはうれしい。ずっと悠に弟か妹が欲しいといわれつづけていたし、お父さん自身も子供が大好きだったから家族が増えるのは大歓迎だった。
でもそれでもお父さんの気持ちとしては、どうしてもうれしいよりも先に心配な気持ちが心を占めていたのだ。なぜなら妊娠や出産というのはとにかく大変で、普通でもそれはもう大変なのに今まで悠に弟も妹もいなかったのでわかる通り、約10年ぶり、それはもう久しぶりの妊娠だった。大人なお父さんはよく悠の時にも赤ちゃんを産むということがいかに大変か実感していたから、それはもう心配で心配で仕方がなかったのだ。だからそんなお父さんがうれしさをあまり表に出さなかったのもそれはそれでもっともなことだった。
しかも出産予定日が8月初めごろだということで、お父さんは二重の意味で大弱りだった。元々妊娠と出産というのはどこのお家でもそう何回も何回もあることじゃない家族の一大イベントだ。それだけでも大変なのに、なんとまぁ出産の時期がペンションが一年で一番忙しい夏休みの時期に重なってしまった。もしお母さんが仕事中、急に赤ちゃんが生まれそうになったらどうしよう? そんなことになったら大変だということで、大事をとってお母さんは8月の初めから街に一件だけある大きな総合病院に入院することにした。だから夏休みにもかかわらずその年の悠のお家にはお母さんがいなかったのである。
もちろんペンションの仕事への影響はとてもとても大きかった。だってもう10年も二人三脚でペンションを切り盛りしてきたお母さんが一年で一番忙しい夏のさなかにいなくなるわけだから、大変だ。つまりタイヤが二つついている自転車からタイヤが一つの一輪車に乗り換えるように、お父さんはこの夏をお母さん抜きで乗り切らないといけなくなったのである。
だからお父さんとお母さんはいろいろと話し合ってきちんと準備をすることにした。まずは周りの同業者の皆さんに理由を話して何かあったときには助けてもらえるようにお願いし、それからいつもの年より一人多く夏休みのアルバイトの人を雇うことにした。毎年夏と冬、忙しい時期になるとやってくる中村くんというおなじみの男の人と、それに加えてあちこち声をかけて、彼のようにペンションでのアルバイト経験のある大学生のお姉さんにお願いしたりした。それに時期もだいぶ早めに来てもらったりだとか、他にもできる準備は思いつく限り全部しておいたけれど。
それでもその年のお父さんは想像をはるかに超える大忙しだった。今までにないほどの大忙しだった。中村くんも大学生さんも一生懸命頑張ってくれたけれど、やっぱりお母さんの代わりにはならない。お客さんも常連さんを中心にずいぶん気づかってくれたけれど、大変さはへらない。それに妊娠中のお母さんも気にかかって仕方がなかったから、できる限り少しの時間でも病院に様子を見に行ったりだとか、もう大変。それでもお父さんの奮闘の甲斐もあってペンションのことは何とかなった。
問題はいつもの年以上に悠のことが見れなくなったこと。こんな状況でお父さんが悠の面倒をちゃんとみれるわけがない。悠も今年、お母さんがいなくてお父さんが忙しいのは分かっていたし、何より自分で「ボクはもう10歳で、それにお兄ちゃんになるから大丈夫」といっちゃったので、この年悠は生まれてくる弟か妹にドキドキワクワクしながら、隣町にある大きなショッピングモールへのお買い物さえいけないようなかなりさみしい夏休みを過ごすことになってしまったのだった。
そうして8月も10日が過ぎたころ、悠は赤ちゃん誕生への期待というドキドキワクワクの裏返しですっかり待つのにあきてしまい、『ふこうへい』な夏休みにやっぱり『夏休みなんてキライだ』と気持ちを新たにしていた。ドキドキワクワクが大きければ大きいほど、がっかりした時の気持ちも大きくなる。そういう意味ではこの年のこのころまでの夏休みは、悠にとって今までで最高に退屈な夏休みだったかもしれない。
そして8月10日。物語の幕は上がりはじめる。
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