第八撃【お出かけしましょう】
「……祐……なさい」
誰かの声がする。だが、その声が誰のものなのか、検討もつかない。なぜなら、僕はとても眠い。だから、その声が誰のものかなんてことは、今の僕にとってはどうでも良いことなのだ。
ノアとルイさんが凄まじい戦いをしてから、一日が経った。だが、僕の体は驚異的な回復力を見せることもなく、ボロボロのままだ。だから、少しで良い。あと少しで良いんだ。僕に安らかな時間を与えては、くれないだろうか。
「恭祐、起きなさいったら!」
「ありがとうございますーっ」
どんっと、僕の頭に衝撃が走る。その衝撃は、やがて痛さに変わり、僕の眠気はどこかへ行ってしまった。
僕は重い目を開け、上体を起こす。体のあちこちで痛みを感じる。どうやら、元気な体を取り戻すにはもっと時間が必要らしい。
「恭祐、おはよう!」
「……おはようございます」
僕が起きたことに満足したのか、ルイさんはとても可愛い笑顔を見せている。もっと優しい性格なら、文句なしなんだけどな。
それにしても、ノアと、あれだけ凄い戦いをしたのに、ルイさんは疲れた様子もなく、とても元気そうにしている。どこから、そんな元気が沸いて出るのだろうか。
僕は、痛めた体を確認するかのように、大きな背伸びをして、布団から起きた。
その後、ルイさんが愛情をもって作ってくれた朝食を食べる。ルイさんの作る朝食は、それはもう美味しかった。
「ねぇ、恭祐」
「はい、なんでしょう?」
「今日は、恭祐に連れて行って欲しいところがあるの」
朝食を食べつつ、ルイさんの話に耳を傾ける。
「全然良いですけど、その行きたいところって、どこなんです?」
「“これが地球だ”っていうところ」
これが地球だっていうところ……なんとも漠然としたリクエストだ。
「何でも良いのよ。恭祐が知っている、地球の素晴らしいところを、案内して欲しいの」
僕が知っている地球の素晴らしいところ……確かに僕は地球人だし、ルイさんよりも、地球のことは知っているつもりだ。でも、ルイさんに案内できる場所なんてあるだろうか。やっぱり中心都市の東京とか?いや、僕は東京なんてコミカや夏フェスでしか行ったことがないから、案内なんてできない。じゃあ、手頃なところで、ゲームセンターとか?それでは、あまりにも寂しいよね。
「だめ?」
ルイさんの、悲しい表情が愛おしく、僕は即答した。
「もちろん、OKです。行きましょう、ええ、行きましょうとも!」
僕とルイさんは、出かける準備をすると、部屋を飛び出し、ある場所へ向かった。自転車を安い金額で貸してくれるレンタル自転車屋である。
原理としては、駐車違反区域に無断駐車してある自転車を有効活用し、困っている人に有料で貸すというものだ。最初は、人の自転車を勝手に商売に使うなという苦情が出ていた。だが、ちょっとした時間だけ自転車を使いたい人にとってはとても便利なお店で、口コミが客を呼び、いつの間にか苦情なんてものはなくなってしまったという。レンタル自転車屋は、僕たちの住むアパートを出て徒歩五分のところにある。
「今日も、暑いわね……」
「ええ、まったくです」
たった、五分歩いただけで、僕の額からはとてつもない量の汗が噴き出していた。やっとのことで、レンタル自転車屋に到着し、店内に入る。そこには、たくさんの自転車と、元気そうなオバさんの姿が見えた。オバさんは、僕たちの事に気づくと、満面の笑みで歓迎してくれた。
「なぁに、自転車を使いたいってのかい?」
「ええ、一日レンタルしたいんですけど」
「若いって良いわねぇ。あたしもね、そんな時代があったのよ?今はこんなオバさんだけどもさ。昔は、とーっても美人だったんだから」
僕は、適当な作り笑いをしながら、自転車を借りる。一日レンタルで三百円という、破格のお値段。見た目もそれほど悪くなく、銀色に光るママチャリだ。ブレーキもしっかり効くし、ギアも三段階ついている。よし、準備万端だな。
「残すのは怪我じゃなく、思い出だけにしなさいよ!」
「おもしろいわね、おばさん!」
今までに見せたことのない笑顔で、ルイさんは大笑いをしている。
ルイさんも、あの年代になったら、ああなってしまうのではないかと、僕は少し心配になりつつ、自転車のサドルに跨った。
「行きますよ、しっかり僕に掴まっててくださいね」
ルイさんは、後ろの荷台に座り、僕の体をぎゅっと掴んでくる。ルイさんの香りがする。柔らかく温かい感触が伝わってきた。僕のテンションは、最高潮だ。
「さぁ、出発よ!」
「おいっす」
力強くペダルを踏み込む。自転車はそれに応え、ぐんぐんとスピードを上げる。夏なのに気持ちいい風が、吹き付けてきた。
あれだけ遠く感じた僕の住むアパートを、軽々と通り過ぎ、一気に住宅街を突き進んだ。住宅街を抜けると、田舎らしい風景が広がってきた。とても大きな畑が、辺り一面を覆っている。そこでは、春、夏、秋、冬と季節に応じて様々なものを収穫している。夏は少々肥料臭いのだが、それも田舎の醍醐味だろう。
「恭祐、スピードが落ちてきたわよ!」
「ちょっと、飛ばし過ぎました……ふぅ」
最初から、テンションに身を任せてペダルを力強くこいだため、僕の体力はすでに限界に達しようとしていた。
全然、考えてなかったよ。僕は、昨日、ノアとの戦いで、体がボロボロだったんだ。それなのに、テンションに身を任せて、最初から全力を出しちゃうんだもの。疲れるのは、当たり前だよね。今さらながら、自分の単細胞な性格が情けなく思ってしまう。
田舎道とは険しい道で、下り坂があると思ったら、長い上り坂が待っている。
楽な事があれば、それだけ辛いこともあると、いつの日かお袋に言われた事を思い出した。きっと、こういう意味なんだろうね。
「はぁ……はぁ……」
「恭祐って、本当に体力がないのね……」
ルイさんは、呆れた口調で言った。
僕は自慢じゃないが、体力はない方だ。小学校、中学校、高校と体育の成績は散々だった。走ることも、縄跳びも鉄棒も。ましてや、団体種目における、バスケやバレーや野球も、不得意だった。それでも、雑草魂のように生きてきたけどね。まさか、こんなところで体力のなさを指摘されるとは思ってもみなかったよ。
「……ら、……なさい……」
何者かの声がした。その声はとても小さく、聞き間違いと思ってしまうぐらいだ。
「ルイさん、何か言いました?」
「体力がないってこと?そんな、怒らなくても良いじゃないの」
「いえ、その他に何か……」
「君たち、待ちなさい!」
明らかにルイさんの声ではなく、何者かの声がした。
僕は、辺りを確認する。畑を耕すお爺さんやお婆さんの姿が見えた。ああ、なんとも田舎らしい風景だ。
「待ちなさいと言ってるのが、分からないのか?」
だんだんと、その声は、僕たちの方へと近づいてくる。着実に、着実に。
誰だ……誰なんだ?僕たちを呼び止めるのは。まさか、魔王キラーJが、僕たちを追いかけて来てるのか?
とにかく、とても嫌な予感がした。胸騒ぎのような感覚。これは、明らかにまずい状況だろう。
再び辺りを確認する。左には、とても大きな畑が一面に広がり、右は二車線の道路がある。それらしき人物はいない。
「恭祐、後ろ……」
「ちょっと、待っててください。今、取り込み中なんです」
ルイさんと、楽しいお喋りをしたいのは山々だったが、もの凄い嫌な予感がしてならなかったのだ。
この嫌な予感はなんなのか……柊恭祐よ。なぜ手や背中に嫌な汗をかく?何をそんなに怯えているんだ?
「恭祐、後ろに誰か!」
「え?」
僕は、ふと後ろを振り向く。
「止まりなさい!」
一旦前を向き、考える。
落ち着け、落ち着くんだ。僕は、その人物に見覚えがあった。とてもよく知っている人物だ。だから、何ら恐れる必要はない。そうだろ?
「止まれと言っているのが、分からないのか!」
再び後ろを振り向く。
なるほど。やっぱりそうだ。凄い剣幕で僕たちを呼び止めているのは、紛れもなく、お巡りさんだった。
とりあえず、自転車のペダルを強く踏み込んでみる。先ほどよりも、スピードは上がった。
「なんなのよ、なんで追いかけられてるのよ?」
「し、知りませんよ!僕は、何も悪いこと……」
ふと、思い出した。自転車の二人乗りって、交通違反だよね?ああ、間違いない。交通違反だ。
でも、酷いじゃないか。テレビや漫画の世界では、よく二人乗りのシーンとかあるのに。それで、甘い時間を過ごして、最後にはハッピーエンド的なね、そんな最高なシチュエーションになるはずだった。でも、現実は厳しいってことか。
「ルイさん、逃げますよ!」
こんなところで逮捕されるなんて、まっぴらごめんだ。
僕とお巡りさんとの、カーチェイスもとい、サイクリングチェイスが今、始まろうとしていた。
すでに僕の足は乳酸が溜まり、悲鳴を上げている。だが、容赦なくお巡りさんは、僕たちを捉えようとしている。
僕は一度、片方の手で額から流れる汗を拭き取った。
「へへ、良いぜ、来いよ!」
僕は、このピンチにドキドキしていた。もの凄いドキドキしていた。まるで、映画のワンシーンのような気がして。最高な気分だ。もし、僕が映画の主人公ならば、このピンチを切り抜けられる。そして、ルイさんは僕に惚れるのさ。『キャー、恭祐、格好良い』ってね。
僕の体力が、限界に近いのは分かっている。そんなこと、言われるまでもない。でも、僕はピンチに強い男なんだ。ノアとの戦いの時だって、死にそうになったところで、ギリギリ大丈夫だった。ルイさんに助けられたからなんだけど。でも、そういうことなんだぜ。僕は、こんなところで、捕まるような、小さな人間じゃない。ルイさん、よーく僕の姿を見ていてくれよ。今の僕に、敵う奴など、誰もいやしないのさ。
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「本当に、すみませんでした」
やれやれといったご様子のお巡りさんを目の前に、僕は深々と頭を下げる。
結局、人は限界を超えることなど、できないってことなのさ。
「分かれば、良いんだよ。次からは二人乗りなんて、するんじゃないぞ?」
「うぃっす」
そういうと、お巡りさんは自転車に跨り、僕たちの前から姿を消した。
「めでたし、めでたしっと」
「どこがめでたしなのよ、おかげで、私まで怒られたじゃないの」
ご機嫌斜めなルイさん。悪いことをしてしまった。
ルイさんは、二人乗りが違反だってこと、分からないよね。地球人じゃないんだから。僕が違反をしたせいで、ルイさんまで怒られてしまった。申し訳ないことをしたな。
「それじゃ、歩いて行きましょうか」
「それしか、ないでしょ?もう……」
僕たちは、目的地まで歩いて行くことになった。せっかくレンタルした自転車も、今ではもう役立たず。むしろ、邪魔な存在だ。
ルイさんは、僕の横で不機嫌そうな顔をして歩いている。ああ、間違いなく僕の責任だ。
お巡りさんと、サイクリングチェイスなんてものを、やったものだから、僕の足はパンパンで、一秒でも良いからその場に立ち止まりたかった。でもルイさんに『ちょっと休憩しましょうか』なんてことは、今の僕には絶対に言えない。そんな言えるご身分ではないのだから。
僕が、しっかり計画を立てていれば、ルイさんは、怒られずに済んだのに。うぅ、罪悪感だけが残ってしまう。
「……それで、どこに行くのよ」
ボソっと呟くようにルイさんは言った。そういえば、まだルイさんには話してなかったな。色々考えて、悩みに悩んだ挙げ句、やっとルイさんに案内できる場所を見つけ出すことができた。それは、胸を張って誇れる場所。きっと、ルイさんも納得してくれて、感動してくれる場所だ。
「お腹空いた」
「自分の唾をごくっと飲むと、お腹の足しになりますよ?」
「……」
ルイさんは、ノーリアクションだ。
うぅ……笑ってくれないと、僕が馬鹿みたいじゃないか。
結局、それ以上何も喋ることなく、僕たちは再び歩き始めた。蝉の鳴き声が、やけに五月蠅く感じられる。
「何か、音がするわ!」
「え?」
結構な道のりを歩いたところで、ルイさんは何かに気づき、突然走り始めた。それも全速力だ。それを追いかけるように、僕は自転車を押しながら走る。だが、僕の足はパンパンで、さらに僕たちのことを待ち受けているのは、長い長い上り坂。
到底、ルイさんに追いつくことなんてできない。それでもルイさんは、走るのをやめず、その差はどんどん広がっていく。
「ル、ルイさん。待ってください〜」
僕の呼びかけは虚しく、ルイさんは米粒並の小ささになってしまった。
走って追いかけるのは無理だ。僕の足は限界を超えている。だが、僕には一つだけルイさんに追いつく方法があった。それは、自転車だ。
我ながら、頭が良いなと思ってしまうよ。
僕は、自転車に跨り、ペダルを踏み込んだ。だが、疲労した足に力が入ることはなく、ペダルはびくともしない。そして、力無く自転車は倒れ、僕も一緒に倒れた。転倒した勢いで、地面に激しく頭をぶつける。
「いって〜!」
地面にゴロゴロと転がり、のたうち回る。なんとも、みっともない光景だ。穴があったら入りたい。
「恭祐〜!早く来なさいよ〜!」
ルイさんの力強い声が、遥か遠いところから聞こえてくる。
「くそぉ……今、行きますよ!」
僕は、地面に手をつき、勢いで立ち上がった。打ち所が良かったのか、痛みは引いている。頭を二、三回横に振り、気合いを入れて、自転車を持ち直し、再びルイさんがいる方へ、歩き出す。
徐々にルイさんが大きくなってくる……もうちょっとだ。もうちょっとで追いつくぞ。
ボロボロになった体に鞭を入れ、少しずつではあるが、ルイさんのいる場所へと近づいていく。
「恭祐、あれ!」
ルイさんは、目を輝かせながら、ある場所に指を指していた。
僕はやっとのことで、ルイさんに追いつき、その場に座り込む。もう、当分の間、動くことはできそうにない。
一度、深呼吸をして、上がった息を整える。その時、僕はあることに気がついた。
潮の香りがする。波の音もする。船の汽笛の音もだ。
「おぉ……」
辺り一面を見渡すと、そこには夏の日差しで輝く、青い海があった。そう、僕がルイさんに見せたかったもの。それは、海だった。
僕たちがいるこの場所からは、海を一望することができる。最高に景色の良い場所だ。
僕は、地面に横になり、ぐっと一つ背伸びをする。夏の日差しと、潮風が、疲労した体を癒してくれる。とても気持ちが良い。目を瞑ったら、寝てしまいそうだ。
「すごい、綺麗!」
上体を起こし、すっとルイさんの顔を見る。ルイさんは、それはもうとても嬉しそうに海を眺めていた。
「これが、海ですよ」
「海……」
遠くから、静かに波の音が聞こえてくる。夏の日差しで輝く海は、心地よい風を受けてさざ波をいくつも作り波立っている。その光景はとても幻想的で、考えていることも悩んでいることも忘れさせてくれる。
「ビーナスって惑星にも、あるかもしれませんけど」
「初めて見る……凄い綺麗……」
良かった……満足してくれたのかな。それにしても、ここまで来るのに一苦労したよ。
お巡りさんに追いかけ回されるし、転んで頭をぶつけるし。
「……ありがとう、恭祐」
「喜んでもらえて、何よりですよ」
ルイさんに見入ってしまう。
潮風になびく髪。透き通った目。じっと海を見つめるその横顔は、とても絵になっていた。
「ねぇ、恭祐」
「ひゃい?」
ルイさんの横顔に見とれてしまい、恒例のことながら、裏声返事をしてしまう。
「地球って、恭祐が言っていた通りに、素晴らしいところなのね」
「……」
ルイさんは、僕に質問をしたことがあった。この世界は好きかと。僕は、確かに好きだと言った。でも、理由が分からなかった。いや、今もそうだ。なぜ、あの時、好きだと言ったのか、自分でもよく分からない。
だから、ルイさんの言葉にどう返事をして良いのか分からなかった。ただ、じっと海を見つめている、ルイさんの横顔を、黙って見ていることしかできなかった。
「必ず、守るからね」
その言葉を聞いて、僕はドキッとしてしまう。幸福感に近い感情。それが、なんなのか僕には分からない。
それ以上、僕たちは何も喋らなかった。じっと、夏の日差しを受けて輝く海を見つめていた。