第十撃【友達】
喫茶店が突然なくなった衝撃の日から、一日。
僕は、朝食を一人で食べ、出かける準備をすると、大学内にある漫画研究部の部室へ向かった。
ルイさんは、調べたいことがあると一人で出かけてしまった。もちろん、一緒に行きたかったが、きっと僕がいたら足手まといになる。
それに、僕は一人になりたかった。一度で良いから、一人になって、色々考えたかった。ルイさんのこととか、キラーJのこととか。そして、僕自身のことも。でも、ただ一人になるのもつまらないから、部室に行って、漫画でも読んで気分転換でもしようと思ったわけだ。
部室の扉を開ける。
パソコンのキーボードを叩く音が聞こえてきた。人の気配だ。
まさか、こんな夏休みに、部室へ来る人がいるとは予想もしていなかった。完全に計算ミスだった。とりあえず、ここまで来たわけだし、何もしないで帰るなんてことは悔しくて、できるはずがない。だから、部屋の中へ入ることにした。
部屋に入る。そこには、真剣な眼差しでパソコンと睨めっこをしている直斗の姿があった。
人の気配を感じたのか、直斗は視線を、モニターから僕の方へと移した。
「よう、恭祐」
「よっ」
軽い挨拶をかわす。
部屋が狭いため、椅子や机なんていうものはない。
直斗は、パソコンを床に起き、とても良い姿勢とは言えない状態で、再びパソコンのモニターに視線を戻した。
「ところで、何してるの?」
「何って……ほら、明日は夏フェスだろ?だから、その下調べさ」
直斗に言われて大切な事を思い出した。明日は、夏の二大イベントの一つ。サマーフェスティバルの日ではないか。夏フェスとコミカの二大イベントは、毎年必ず参加している。それぐらい、僕にとってはとても楽しみなイベントなのだ。だが、僕は明らかに忘れていた。
なんで、大切なイベントのことを忘れてしまったのだろう。夏目美香に対する想いは、忘れてしまうほど浅いものだったのか……なんだか、自分の事が嫌になってくるよ。
「恭祐は、どうしたんだ?珍しいじゃないの」
「あぁ、ちょっとね」
まさか、『一人になりたかった』なんてことは、言えるわけもなく、適当に誤魔化す。
「ふーん。ま、良いけど」
こんなサバサバした直斗の事が僕は大好きだ。
本棚から美少女戦士Loveきゅーれの漫画を探し、適当な位置に座る。
美少女戦士Loveきゅーれは、コミック本から始まり、アニメ化されたものだ。当初のLoveきゅーれは、ガチンコバトル漫画だった。だが、需要と供給という大人の事情により、萌え要素となるものが加わり、今に至っている。ヒロインは夏目美香の他に二人いて、どれも個性的なキャラクターで、ファンを飽きさせない仕様になっている。無論、僕は夏目美香にしか興味はないけどね。
「……」
「……」
沈黙が続く。
僕は黙々と本を読み、直斗はパソコンのモニターを見つめている。
本をめくる音、パソコンのキーボードを叩く音、そして、外から聞こえてくる蝉の鳴き声だけが響き渡る。なんとも、静かだ。久しぶりに静かな時間だ。
よくよく考えてみると、今年の夏休みに入ってから、静かにまったりと、自分の時間を持てた日があっただろうか。
今までの僕は、昼過ぎに起きて、昼食を食べ、ゲームやネットサーフィンをして一日を過ごす。何もすることがなければ、こうして部室へと足を伸ばし、暇潰しをする。そんなダラダラとした日々を過ごしてきた。
ルイさんが現れてからというもの、僕の生活スタイルは大きく変わった。
朝早くに起きるようになった。そして、ルイさんと色んなところへ出かけるようになった。
だから、去年までと同じように、ダラダラとした生活をすることがなくなってしまった。
「……」
「……」
僕の生活スタイルが変化した途端、直斗と一緒にいる時間も必然的に減った気がする。それほど、寂しくはないけどさ。でも、やっぱりそれはそれで嫌だよ。
きっと、直斗と僕は大学を卒業したら、別々の道を歩むことになる。一緒に遊ぶことも、一緒に話したりすることも、今よりもずっと少なくなってしまうだろう。会おうと思えば会えるのかもしれない。でも、きっと疎遠になってしまうような気がするんだ。だから、僕は大学生でいられる今、大切な仲間との時間を大切にしたいと思っている。
ページをめくる音、パソコンのキーボードを叩く音、蝉の鳴き声。それだけが、ずっと僕たちの部屋に響き渡っていた。一時間、また一時間と時間は過ぎる。
だが、僕と直斗の間に会話など一つもない。だが、僕はこれで良かった。部屋の中にいるのが直斗だからこそ、こういった空気でも安心していられる。気を遣うことなく、自分の空間を作ることができる。
「恭祐、明日の夏フェスは、参加するのか?」
「んー……恐らく、行けないかも」
「了解だ。コミカは行こうな」
きっと普通なら『なんで行かないんだ?』とか、理由を求めてくるだろう。だが、直斗は違う。直斗はあくまで、参加するかどうかだけを聞き、行けないなら今度は行こうぜと言ってくれる。深く突っ込もうとはしない。決して理由を求めようとはしない。
冷たい性格だからじゃなく、これが、直斗の優しさなんだと、最近気づいた。
「……」
「……」
再び沈黙の時間がやってくる。
それにしても、なぜ僕は夏フェスに参加できないと言ってしまったのだろうか。
夏フェス……それは、僕の趣味の場であると同時に、直斗や同じ部の仲間との交流の場でもあった。マニアックな話に盛り上がったり、ちょっとしたアクシデントに笑い合ったり。そんな楽しいイベントなんだ。だから、僕はこのイベントをいつも楽しみにしていた。
だが、僕は行かないと言った。不参加だと直斗に伝えた。なぜなのかは、未だに分からないし、むしろ少し後悔しているぐらいだ。
「それで、どうなんだよ」
「え、何が?」
直斗は決して僕の顔を見るわけでもなく、モニターの方を見つめている。
「魔王のこと。決着はついたのか?」
「あぁ……いや……今からだよ」
「そっか」
意外な言葉に、僕は驚いた。
僕は、ルイさんや魔王のことを、直斗に電話で話したことがあった。だが、その時は信じられない様子だったし、ましてや、僕はそれ以来、直斗にルイさんのことも、魔王のことも話してはいなかった。だから、仮に僕の話を信じたとしても、きっと忘れているのだろうと思った。
でも、こうして直斗は、僕の言ったことを信じ、覚えていてくれた。なんだか、それだけでとても嬉しかった。だからといって、僕が今抱えている問題を、直斗に打ち明けたくはなかった。もちろん、直斗のことは信じているし、とても頼りにしている。きっと、直斗に相談すれば、答えが見つかると思う。だが、それではいつもと同じなんだ。なんら変わっちゃいない。いつもいつも、直斗に頼りっぱなしで、結局自分の力で何かを成し遂げた事なんて一つもない。それじゃ、駄目なんだ。今回ばかりは、頼っちゃいけない。自分で悩み考え、答えを見つけなければならない。
「色々ありがとね、直斗」
「なぁに、この世界が魔王って奴のせいで、なくなっちまったら……そんなことを考えると、なんだか嫌でね」
人指し指で鼻を擦り、クスッと笑う直斗。
「はは。直斗もそんなこと考えるんだ」
「ったく、俺をなんだと思っていやがる」
自然に、僕と直斗は笑い合った。
僕は読んでいた漫画を本棚に戻し、再び適当な位置に座ると、思いっきり寝た。大の字に寝た。天井が見える。それは、カビていて、蜘蛛の巣が張っている。いつ、掃除をしたんだろうと思ってしまうぐらい汚い天井だ。その汚い天井は、オレンジ色に染まっていた。とても綺麗なオレンジ色に染まっていた。きっと、もう夕方なのだろう。時間が経つのは早い。それも、自分が思っている以上に早い。
「はぁ、疲れたー」
ドサッと、直斗も大の字になって、その場で横になった。
「なぁ、恭祐」
「ん?」
直斗の方に顔を向ける。直斗は天井をじっと見つめていた。蜘蛛の巣が張り、カビていて、オレンジ色に染まっている天井を見つめていた。
「俺は、幸せ野郎だよ」
「なんだ、また自慢話か?」
また始まったな、直斗の自慢話。
直斗の自慢話は昔から嫌と思うほど、よく聞かされている。彼女ができただの、同居しているだの、部長になっただの……それこそ、誇らしげに話すものだから、僕も直斗の自慢話は聞いていて楽しくなる。今度はどんな自慢話をしてくれるんだ?彼女とついに結婚しちゃうのか?
そんな期待を胸に、直斗の話に耳を傾ける。
「俺は幸せ者なんだろうよ、きっと……でもな、最近思うんだ」
「うん……」
「本当に俺は幸せなんだろうかって。我が侭な事を言っているのは承知さ。でも、なんだか納得がいかないんだ」
「納得……?」
「ああ、俺は不満に思うことがあってね」
直斗の意外な発言に、再び驚く。
直斗の不満を聞くのは今日が初めてだ。いつも自慢話か、それに準ずる何かだった。
学業も、恋愛も遊びも……僕から見れば、直斗はそりゃあもう羨ましいパーフェクトな生活を送っていた。
だから、直斗にとっての不満がどういうものなのか、僕には検討がつかなかった。
「恭祐は、幸せだとなぜ感じることができると思う?」
直斗の質問に、言葉が詰まる。
幸せだとなぜ感じることができるのか。ルイさんと一緒にいること、ルイさんの笑顔を見ること、話したり遊んだりすること。僕は、その時、幸せだと感じることができる。でも、なんでそう思うのだろう……訊ねられると、困ってしまう。
「考えたこともないから、分からないよ」
「俺は思うんだ。きっと、不幸だと思うから幸せだと思うことができるんだって」
直斗の言っていることが分かるようで、分からなかった。
「反対に、幸せだと感じることができるから、不幸だと感じてしまうことがあるわけだ」
「なるほど」
「じゃあ、俺の不幸はどこにあるんだ?ってな」
「おい、結局、自慢話じゃん」
僕が的確なツッコミをしてみせると、直斗は大きな声で笑っていた。
真面目に話を聞いて損した気分だ。だが、僕もなぜだか大きな声で笑った。お腹が痛くなるまで笑った。
良いじゃないか、自慢話。最高だよ。僕も、直斗のように最高におもしろくて、最高に誇らしげな自慢話を一度で良いからしてみたい。
それで、今みたいに直斗と一緒に大きな声で笑ってやるんだ。
「素直になれよ」
「え?」
「柊恭祐は、柊恭祐なんだから。それ以上でもそれ以下でもないんだぜ?」
僕の方に顔を向け、にこっと笑い、拳を僕の方へ突き出す直斗。
僕も直斗と同じく拳を握り、直斗の突き出す拳へと、軽くパンチをする。
「当たり前だろ」
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美味しそうな匂いに目を覚ます。いつも通りの朝が、僕を迎えた。
「あれ……」
だが、僕の部屋には、ルイさんの姿は見当たらなかった。
重い体に鞭を入れ、上体を起こし、立ち上がる。布団を押入にしまうと、窓を開け外気を入れた。外は気持ちの良い青空を見せている。
一度大きく背伸びをしたあと、服を着替え、床に座る。テーブルには、ルイさんが作ってくれた朝食があった。今日のメニューはオムライスのようだ。スプーンを手に持ち、オムライスを食べる。黙々と、オムライスを食べる。やっぱり、オムライスは冷めていた。それでも、ルイさんの作ったオムライスは、最高に美味しかった。
残さず食べると、後かたづけをし、部屋で少しゆっくりすることにした。テレビは、ニュース番組ばかりで、つまらない。ネットゲームやネットサーフィンをやって一日を過ごそうと思ったが、なんだかそんな気分にはなれない。僕は、財布と鍵を持ち、靴を履くと、部屋を後にした。
部屋を出た途端、夏の日差しが降り注いでくる。真夏のような暑さだ。額からは、すでに汗が出ている。自分の腕でその汗を拭き、歩き始めた。
予定なんてなかった。どこに行きたいかなんて、そんなことも考えずに歩いた。
昨日もそうだった。いや、一昨日も。三日前も。こうやって僕は、当てもなく、ただ歩いている。
喫茶店が突然消えてしまったあの日から、僕の生活スタイルは、大きく変わった。
ルイさんは、朝早くに起き、僕に朝食だけを残し、どこかへ行ってしまう。一人取り残された僕は、こうして、途方に暮れていた。僕が、こうして無駄な時間を過ごしている間にも、ルイさんは、きっと一人で、頑張っているのだろう。そう思うと、自分が情けなくなってくる。
なぜ、ルイさんは一人で行ってしまうのだろうか。なぜ、僕を置いて行ってしまうのか。その思いは、日を重ねるごとに強くなり、だんだん苛立ちと焦りになって、僕を襲い始めた。
ここ数日の間に、僕はあることに気づいた。地球は、変わり始めている。それも、少しずつ少しずつ、悪い方向に。喫茶店が突然なくなるという、奇妙な現象が、僕の住む街で、再び起きたのだ。それも、一回だけじゃない。色々な所で、建物が消えた。人は、その存在自体を忘れていた。それが毎日どこかで起きるようになった。正直、恐かった。恐ろしく思った。こんな現象が、これからずっと続いたら、どうなってしまうんだろうと想像しただけで、鳥肌が立つようになった。
これは、僕の予想だから、確証はない。だが、僕の頭では、最悪な出来事が思い浮かんでしまうのだ。
このまま奇妙な現象が続けば、人々は全てを忘れ、最終的には、地球が滅んでしまうのではないか……と。では、どうしたら阻止することができるのだろうか。もし、この現象がルイさんの言っていた通り、キラーJの影響によるものだとしたら、キラーJを倒す他に、方法は無いのかもしれない。ルイさんは、一人でキラーJを倒そうとしているのだろうか……そんな不安が、日を追うごとに重なり、僕の我慢の限度は、ついに限界にまで、達していた。