第95話 百合の意外な行動
「ふぁのふぁらんふぉろんふぇ、ふぇいばいふぃてくれる【このちゃらんぽらんめ、成敗してくれる】」
牙を剥き出しにしての跳躍。俺は飛翔してそれを回避する。だが、渡のリーチ外に逃れるより早く、くるぶしを掴まれてしまった。この後に噛みつかれると悟った俺は、大きく足を振って渡を突き放そうとする。
口を開けかけていた渡だが、慌ててしがみつく。しつこい野郎だ。こうなれば、空中へと連れ去るしかない。だが、それを実行するより早く、渡の牙がふとももに食い込んでしまった。
以前よりも身体能力が強化されている恩恵で、あの激痛に襲われることはない。それでも、深々と牙を突き刺されて平気な訳もない。また根競べになってしまうのか。渡は「今度こそ放さへん」と言いたげのように、牙だけでなく両拳にも力を入れてきている。早々に上空へと連れ去らわないと、ふとももを食い破られそうだ。
だが、渡は素直に我慢比べをする気はなかったようだ。突然、大きく体をのけぞらせると、遠心力を利用し、一気に前のめりになった。その勢いで、俺は駐車場の壁へと弾き出される。噛みついた相手を放り投げるって、「牙」の能力の副次的効果で、顎や首が強化されているみたいだ。普通の人間が渡の真似をしたら、首の骨を折りかねない。
この不意打ちはさすがに効いた。壁に叩き付けられ、地表に崩れ落ちる。激突した背中がズキズキと痛む。再度羽ばたけるようになるには少し時間がかかりそうだ。
そんな丸腰の俺を渡は放置しておくはずがない。
「ふぃまがふぁんふや【今がチャンスや】」
口裂け女も仰天するほど口を大開にし、牙を突き刺そうとしてくる。腰を上げようにも、背中の激痛が邪魔をする。ここでまともに牙を受けたら、反撃の芽は根こそぎ刈り取られそうだ。それは避けたいが、どうすることもできない。俺は観念して目をつぶった。
おそらく、渡が狙っていたのは俺の肩。そこから鮮血が溢れだし、尋常ではない痛みが襲う。そうなるはずであった。
しかし、いつまで経っても俺は無傷だった。否定するのもおかしいが、直撃されて無傷というのも奇妙な話である。俺はそこまで丈夫だと自負するつもりもない。
ゆっくりと視界を広げていくと、そこには信じられない光景が繰り広げられていた。
なんと、俺の眼前に百合が立ちふさがっていたのだ。これには、渡も瞳孔を全開にしていた。俺でさえ、硬直して数秒間痛覚遮断していたぐらいだ。
「百合、お前なんで」
「やられそうだから助けた。おかしい?」
それはありがたいのだが、いきなり割り込んでくるなんて、予想外も甚だしい。彼女のことだからずっと傍観しているだけだと思ったのに。
「翼、前に言っていた。人を助けるのに理由はいらないって。それが人間なら、私も実行してみた」
目の前で困っている人がいるのなら、救いの手を差し伸べる。百合が現実にやったことは倫理観としては正しい。なんて、論理的に整理するのはさておき、俺の胸の奥底から熱いものが込み上げてきた。こわばっていた体が次第にほぐれていくような心地がする。感極まって目元が緩みそうになっている。
「なんやねん、こいつ。わいの牙が直撃したのに平気な顔をしとる」
別の意味で驚愕していたのは渡だった。彼の牙は俺の身代わりとなった百合の上半身、おそらく肩を抉ったのだろう。しかし、百合の体にそんな形跡は残されていなかった。出血はおろか、着衣に乱れすらなく、数十秒前まで瞳の看護をしていた時と同一の姿のまま、俺の前で凛然と直立しているのだ。
百合の能力が異人に関する攻撃を打ち消す「空白」だと知っているから、この現象にも納得がいく。だが、それを知らない渡は困惑のあまり頭を抱える始末だ。
渡には悪いが、怯んでいる今が最大の反撃の機会だ。噛まれた足が錘になるものの、どうにか渡に掴みかかり、そのまま空へと連れ去る。渡は「しもうた」と声を上げ、再度牙を伸ばす。
この至近距離で渡が狙ってくるのは間違いなく首筋だ。こんなところを貫かれた場合、生じる傷は太ももの比ではない。だからといって、単純に地面に叩き付けてしまうと、大怪我をさせてしまうかもしれない。別に、渡を本気でぶちのめそうとして戦っているわけではない。どうにかして、こいつを降参さえさせることができれば。
ふと、俺はあの日の出来事を思い出した。そういえば、渡はあることに弱い疑惑がある。一か八かではあるが、新しく習得した能力を使えばその弱点を攻めることができるかもしれない。
今にも牙が迫ってくる中、躊躇している暇などない。俺は追い風をイメージして体を前倒しにする。宙を舞っているので、踏切に使う脚が傷ついていても問題ない。あくまでイメージの問題だ。
「ふぁんふぁ、あんふぁん、どふぁいしたんふぁ【なんや、あんさん、どないしたんや】」
俺の異変を察知したか、渡は攻撃を注視する。悪いが、それは命取りだぜ。